朝日が昇ると同時に、仁之助はついにリューヴェーンへと足を踏み入れた。
空がまだ東雲色であるから、町の活気は未だ心地良い静寂に支配されていた。
人の気配も非常にまばらで少なく、その中を仁之助は物色して回る。
「建物から服装、暮らしぶりまで……確かにここは俺が知る世界とは違うようだな」
見上げるほどの建物もあれば、年季の入った古い建物まで。
新旧大小あらゆる建物が群集した町並みは等しく仁之助の好奇心を刺激する。
そんな中で仁之助はある物を探した。
魔族や魔王といった恐ろしい相手と戦うのであれば当然、人類には武器がいる。
異世界にある武器とは、さてどのようなものなのか。仁之助の武人としての魂が大いに高揚した。
とはいえ、覚醒しきっていない以上どの建物もまだ明かりが灯っていない。
「仕方がない。しばらくは辺りを散策してみるか……」
何気なく仁之助が着いたそこは小さな広場だった。
広場といっても、これといって特記すべきものはない。
人気もないので、ただ物寂しい空間がそこにぽつんとあるのみ。
珍しくもなんともないから、仁之助がここに長居をする道理は欠片ほどもない。
それでも足を止めたのは、そこについ先日知ったばかりの顔があったからだった。
「確か、レイチェルだったよな」
「あ、あなたは確か……えっと……そう! ジンノスケ!」
「憶えていてくれて光栄だよ」
「ちょ、ちょっとあなたなによ!」
突然、レイチェルが顔を赤らめて大声を出した。
「なにって……なにがだ?」
突然の豹変っぷりにはさしもの仁之助もはて、と小首をひねらざるをえない。
「あ、あなた髭剃ったのね!」
「え? あぁ、お前が“りゅうべえん”に来る時は必ず身なりを整えろって言っていたからな。あの城でできるだけのことはしたつもりだ」
「そ、そう……鎧も前に見た時よりかはずっときれいだし。そ、その……いいじゃない!」
「あ、ありがとう……?」
「ま、まぁいいわ。それよりも改めてお礼を言わせてちょうだい――本当に、その、ありがとう」
最期だけひどくか細い声だったが、仁之助は小さく首を横に振った。
仁之助は別段、レイチェルのためにあの魔王を討伐したわけではない。
ただ、己の飢えを満たしたくて仕方がなくて、だから殺った。それだけにすぎない。
礼を言われる憶えがまるでないが、それを真っ向から子供相手に否定するほど仁之助も愚かではない。
「気にするな」
そう一言だけレイチェルに返した。
「あの後、すぐに換金してもらうために王都へと送ったわ。そうしたらすぐに報酬を送金してくれたの! これでなんとか孤児院を立て直せるわ!」
「そうか。金がほしかったのは孤児たちを養うためか……その心意気、立派だぞ」
「べ、別に褒めてほしくてやってるわけじゃないし! これは、せめてもの恩返しよ」
「恩返し、か。恩を返したいと思えるぐらい、お前を育ててくれたその人はきっとすごくいい人なんだろうな」
「当然よ! シスターアリアは誰からも尊敬されるぐらいすっごい人なんだから!」
嬉々として語るレイチェルに、仁之助も相槌を合わせた。
日が昇り切り、空が真に青くなった頃。
それまでずっと心地良い眠りの中にあった町がついに活気に目覚めた。
わいわいとした賑わいはさながら祭のように騒がしくもとても陽気だ。
そこに生きる人々の顔には、絶え間ない笑顔であふれ返っている。
その笑顔こそ、ここが平和であるというなによりの証のように仁之助は感じた。
「……いいところだな」
「そうでしょう? あ、そうそう。ここに来てくれたからちゃんとお礼をしないとね。これから孤児院に帰るからさ、あなたもいっしょにきてよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
人気に満ちた道から外れ、そこはとても静かな道だった。
今や喧騒も遠くにあり自然豊かな景色がずっと続いている。
木々の隙間より差す木漏れ日が二人に道を示し、その中で彼らは何気ない会話に花を咲かせる。
「――、というかジンノスケ。あなたの腰に差してるそれってなに?」
レイチェルがふと、腰に差した大小の刀を指差した。
日ノ本でない彼女にすれば、日本刀がとても珍しい代物なのだろう。
そして仁之助もまた、日本刀に対し尋ねられたことで気分が高揚した。
興味を持ってもらえるのは素直に嬉しいことだ。
なにより、侍というやつはどうも得物を自慢したがる傾向にある。
「これか? これは日本刀という、俺の故郷が誇る武士の魂にして最強の武器だ」
「ふ~ん。それってでも、どうやって弾を出すの?」
「は?」
あまりにも予想外すぎる質問がきたものだから、さしもの仁之助も素っ頓狂な声を出してしまった。
「いや、こいつはあくまでも刀だから弾なんて出ないぞ?」
「え!? それじゃあどうやってそれで魔王を倒したのよ!」
「そりゃ普通に斬ったぞ、こうずばぁぁって」
軽く振るう素振りをした時、レイチェルの顔が驚愕によってひどく歪んだ。
(え? 俺、なにか変なこと言ったか? いや言ってないよな、だって普通のことしか言ってないし……)
刀剣の価値はいかに曲がらず、折れず、それでいてよく斬れるかだ。
その点に関しては、彼が所持する村正――姓を千子という――は非常に優れた刀剣だと断言してよかろう。
異形の怪物を斬ったのだから、
それはさておき。
レイチェルが何故こうも驚愕しているのか、その理由が当然ながら仁之助にはさっぱりわからなかった。
ただ至極当然のことを言ったまでにすぎないのだから、彼が困惑するのも致し方ない。
「あ、あなたそれってつまり……魔王相手に真っ向から殴りにいったってこと!?」
「殴るっていうか……でもまぁ、そうだな。白兵戦といってもいいか」
「と、当然何かしらの聖晶術があったのよね?」
「聖晶術? なんだそれは」
仁之助がはて、と小首をひねるとレイチェルは今にも卒倒しそうな勢いでたじろいだ。
「あ、あなたって本当に何者なの……?」
「何者だって言われてもなぁ……」
「……はぁ。その話、後で詳しく聞かせてもらうからね――あ、あれが私が育った孤児院よ」
レイチェルが指差す先、古代遺跡を連想させる建造物の中にあった。
建物自体は差ほど大きくはなく、外観も決してきれいなほうだとは言えない。
言葉悪くしていえばボロボロで、けれども神聖な雰囲気にそれは確かに包まれていた。
「もともと、ここは古代遺跡の一部なんですって。そこで初代のシスターがここに孤児院を立てたそうよ」
「ふ~ん」
「――、シスターただいま!」
「あぁ、おかえりなさいレイチェルーーおや、そちらのおかたは?」
「はじめまして。佐原仁之助と申します」
黒い衣装を纏った老齢の女性に、仁之助は静かに会釈する。
齢はもう60歳を超えているだろう。温厚な顔立ちは菩薩のように優しさで満ちていた。
「あぁ、あなたが……お話はこの娘から聞いております。なんでも、あの魔王をたった一人で討伐したのだとか……」
「えぇ、まぁ一応」
「それなのに手柄をすべてこの娘に譲ってくださるなんて……あなたは本当に慈悲深い方なのですね」
「いや俺はただ肉が――」
次の瞬間、仁之助は二の腕に鋭い痛みが走ったのを憶えた。
痛みの正体はすぐ隣にあった。レイチェルである。
彼女の視線はまっすぐ向いてこそいるものの、その手はしっかりと彼の二の腕をきゅっと摘まんでいた。
「そうそう。見た目はこんなだけどすっごくいい人なの。そうよね?」
ぎこちない笑顔を向けるレイチェル。
仁之助は彼女の瞳を見て、すぐに理解した。余計なことは口にするな、ということらしい。
「えっと、まぁ俺は富とか名声にはそこまで興味がないので。それなら、今すぐにでも必要としている人が持つべきだ。特に彼女のように生まれ故郷を救おうとする心意気がある者ならば尚更のこと」
「ふふっ――申し遅れました。わたくし、この孤児院を運営しておりますアリアと申します。改めまして、ジンノスケさん。本当にありがとうございました」
「いえ、お気になさらないでください」
「そ、それじゃあシスター。ちょっとこの人をいろいろと案内してくるわ。ここには来たばっかりで何もわかってないみたいだし!」
「えぇ、レイチェル。ただし、ジンノスケさんにご迷惑をかけないようにするのですよ?」
「わ、わかってるってば! シスターはいっつも心配性なんだからもう」
教会内にあるそこは必要最低限の家具があるだけの殺風景な一室だった。
中に連れられてそうそうに、仁之助はレイチェルに詰め寄られる。
あどけなさがまだ残ってこそいるものの、レイチェルの顔はとてもきれいだ。
それこそ、異性であればきっと誰しもが彼女に心奪われていたに違いない。
「いい? シスターの前で絶対に魔王を食べたなんて言わないでよ? 絶対だからね!?」
「お、おぉ……」
「はぁ……あなたねぇ。自分がどれだけ異常なことをしてるか本気で考えたほうがいいわよ? もしもシスターに……ううん、国中にあなたが魔王を食べたってことが知られたらその時はあなた、死ぬのを覚悟したほうがいいわよ」
「え? そんなにか?」
「あったりまえじゃない! そんなことする奴を誰が人間って思うのよ!」
「まぁ、それもそう……か?」
「とにかく、今後は本当にそういうことだけはやめておきなさい。いや本気で言ってるからね?」
「わ、わかった……」
レイチェルの圧力の前には、仁之助も素直に首肯する他なかった。
「――、それじゃあリューヴェーンのこととか色々と教えてあげるわ」
「あぁ、よろしく頼む」
「それに、私もあなたには色々と聞きたいことがあるしね――それじゃあ、行きましょう」
仁之助はレイチェルと共に孤児院を後にした。