カリーナの行進が中央広間へと消えてゆくと、豪華な大廊下には再びざわめきだけが残された。エスメラルダとヴァレンティンは、使用人の振りをして慌ただしく行き交う人々の流れに紛れ込み、できるだけ目立たぬように動きを続ける。あちこちに兵や騎士が配置され、こちらを怪しんでいる様子こそないものの、どこをどう巡っても警戒の網を感じさせる。いつ誰に不意を突かれてもおかしくない――そんな張り詰めた空気が、王城全体を覆っていた。
やがて、耳を劈(つんざ)くような鐘の音が城内に響き渡る。これは「新聖女カリーナの大祭典」の開始を告げる合図だ。貴族たちは華やかな衣裳を翻しながら、次々と中央広間へ姿を見せる。庶民の代表とされる商人や高名な職人たちも招かれ、入り口で礼を尽くしている。かつて、王太子アルヴィスの婚約披露宴が行われたときにも盛大な儀式があったが、この日の華やかさはそれに勝るとも劣らない。
「アルヴィス王太子が姿を見せるはずだ。どこで待機しているのか……」
ヴァレンティンが低く呟く。彼の手の中には、かねてから隠し持っていた“陰謀の証拠”が収まっているが、それをどう突きつければ一番効果的かは、まだ決めかねていた。人々が広間に集うタイミングに合わせて、カリーナの偽物ぶりを暴く手段はいくつも考えられる。だが、最終的にそれが決定打となるかどうかは、王太子アルヴィスをはじめ、重臣たちを納得させられるかにかかっている。
一方、エスメラルダの目はカリーナを探しながらも、同時にアルヴィスの姿を追っていた。あの玉座の間で「お前を信じられない」と切り捨てられたときの記憶――今でも胸がえぐられるような痛みを伴う。けれど、たとえ彼が再び自分を拒絶したとしても、もう一度きちんと対話しなければならない。エスメラルダ自身が王都を追放される原因となった陰謀は、決して“個人的な裏切り”だけで済む話ではなく、国全体を揺るがす大事なのだ。
広間の正面には、玉座を模した高壇がしつらえられている。王の病が長引いているため、その座に王が現れることはなさそうだ。しかし、代わりに王太子アルヴィスが、カリーナと並び立つ形で行事を進行するのだろう。高壇の左右には多くの貴族と護衛兵が控え、特に威圧感のある騎士たちは、いずれもアルヴィス直轄の親衛隊に違いなかった。
鐘の音が止み、広間に重厚な静寂が落ちる。ひときわ豪勢な扉が開かれると同時に、人々の視線がそこへ集中した。ついに姿を現したのは、純白の衣に身を包んだカリーナと、そのすぐ後方に控える王太子アルヴィスだ。アルヴィスは金色の甲冑(かっちゅう)を肩にかけ、象徴的なマントを翻している。その顔には強い意志が伺えたが、まなざしの奥底には暗い影が見え隠れしているようにも見えた。
湧き上がる歓声の中、カリーナはまるで勝ち誇った女王のように微笑んでいる。エスメラルダは、その笑みにかつての自分を重ねてみようとしても、どうしても違和感が拭えない。あの笑みは、民を救いたいという心から発せられるものではない。見栄と権力欲を塗り重ねた空虚な笑みだ――それが彼女にははっきりとわかった。
「皆さま、ようこそお集まりくださいました。これより“真の聖女カリーナ”様による神聖なる儀式を行います。どうぞ、その目で奇跡をお確かめください」
先導役の高位神官らしき男が声を張り上げると、貴族たちが一斉にうなずき、拍手を送った。庶民の代表たちも圧倒されながら拍手を続ける。一方、厳粛さを装っているカリーナの周囲では、いかにも怪しげな装束の術師らしき人物たちが何やら小声でやり取りをしている。何か仕掛けがあるのだ――エスメラルダの勘がそう警鐘を鳴らす。
(あの演出が偽りだという決定的な証拠を押さえられれば……!)
しかし、儀式が始まるや否や、エスメラルダは息を呑むこととなった。カリーナの後方で、小型の魔法陣が青白い光を放ち始めたからだ。うっすらと水蒸気が立ち込めるように広間へ拡散し、それが“神秘の霧”のように見える演出を作り上げている。周囲の客たちは歓声を上げ、「やはり聖女様の奇跡は素晴らしい」と口々に称える。けれど、エスメラルダの目には、その光や霧が儀式用の道具を使った“トリック”であることが明確に映っていた。
――確信犯だ。カリーナには奇跡の力などない。だが、この国の民衆や浅薄な貴族たちは、こうした“神秘的な演出”を目の当たりにすれば簡単に感動し、服従してしまうのだろう。腹立たしさと悔しさに胸が詰まる。
一方のヴァレンティンは、携えていた書類をスッと取り出し、眉間に皺を寄せながらそのトリックを見据えていた。もしこの場で「偽物だ!」と叫んだところで、確固たる証拠がなければ逆に乱心扱いされかねない。タイミングを見誤れば二人とも捕らえられて終わるだけだ。
そんな緊迫の状況で、突如、玉座の隣に控えていた王太子アルヴィスが一歩前へ進み出た。ざわめきが一瞬広がる。ここでアルヴィスが一体何を言うのか――エスメラルダは思わず固唾を飲んで見守る。
「皆の者、よく見よ! この方こそ我が王国を導く“真の聖女”カリーナ様である! 先の儀式で奇跡を示し、この国を守護するに相応しい力を持っておられる!」
力強い宣言に、再び大きな歓声が上がる。アルヴィスは相変わらず、カリーナこそが聖女だと信じているのだろうか。それとも、王太子という立場上、そう言わざるを得ない事情があるのだろうか。いずれにせよ、あの日、エスメラルダを見捨てた状況から、何も変わっていないように見える。
(アルヴィス……本当に、何もわかっていないの? それとも……)
苦い思いを抱えながら人垣の隙間から見つめるエスメラルダの耳に、ひそひそとした声が届く。見ると、侍女の服を着たセレナがいつの間にか側まで近寄っていた。
「エスメラルダ様、今です。あの祭壇の裏に仕掛けがあります。カリーナはあの魔法陣を使い、偽りの奇跡を人々に見せようとしています。私が合図をしたら、後方から“証拠”を暴いてください。それがうまくいけば、人々の目を逸らすことができます」
セレナの瞳は強い決意に満ちていた。どうやら、命をかけて祭壇裏の偽装を確かめ、今ここでエスメラルダにその事実を伝えに来たのだろう。エスメラルダはセレナの手を固く握り返す。
「ありがとう……。あなたがいてくれて、本当によかった」
その瞬間、カリーナの背後で青い炎が弧を描くように燃え上がり、大広間に幻想的な眩い光が広がった。これまでにないド派手な演出に、観衆がどよめく。人々が目を奪われる中、セレナが合図として手のひらを掲げる。
(今だ――!)
エスメラルダとヴァレンティンは息を合わせ、祭壇裏へと駆け寄る。その小さな通路の奥には複雑な魔法陣が描かれており、いくつもの魔力触媒や光の反射装置がずらりと並んでいた。見る人が見れば、それが奇跡ではなく“人為的に作り出された幻術”であると一目瞭然だ。
「ここまで大掛かりな仕掛けを……本当に呆れるな」
ヴァレンティンが苦々しい声を漏らす。彼は書類を取り出し、そこに記された“カリーナ擁立計画”と目の前の仕掛けを照らし合わせる。疑いようもなく、書類の内容が現実のものとして進行している証拠である。
そして、エスメラルダは通路の奥へさらに踏み込み、仕掛けを破壊するための装置を探し出そうとした。ところが、突然背後から冷たい声が響く。
「何をしている――その手を離せ」
振り返ると、そこにはアルヴィスが立っていた。驚きに息を呑むエスメラルダ。周囲に人影はなく、どうやら彼は一人でここに踏み込んできたらしい。かつて愛し合った王太子と“元聖女”の目が交わる。アルヴィスの表情には、驚愕や怒り、そして複雑な感情が混在しているように見えた。
「エスメラルダ……まさか本当に生きていたのか。いや、探していたのは知っていたが……ここで何をしている。お前はもう、この国にいてはいけない存在のはずだろう」
アルヴィスの言葉は鋭く、しかし声が震えているのがわかる。エスメラルダはその震えが、自分を責める感情によるものなのか、それともまだ迷っているからなのかを判別できなかった。ただ、ここで怯んでは何も始まらない。彼女はきっと唇を噛みしめ、意を決する。
「アルヴィス……あなたはまだ、カリーナが真の聖女だと信じているの? 見てよ、ここには明らかに偽りの演出を作り出す装置が隠されている。私を陥れたのは、彼女と、それを操る貴族たちの陰謀なのよ! あなたは彼らに利用されているだけなんだわ!」
けれど、アルヴィスは目を伏せ、低く呟く。
「分かっている……そんなことは、もうとっくに気づいていた。しかし、もう引き返せないのだ。私があのとき、お前を信じ切れなかったばかりに……今さら“追放は間違いだった”などと言えば、この国は大混乱に陥る。カリーナを支持する貴族や民衆との衝突は避けられない。ならば、“嘘”でも……国をまとめるためには仕方のないことだ」
その答えに、エスメラルダは怒りと悲しみで胸が押し潰されそうになる。国を守るため――その大義名分のもとに、王太子アルヴィスは真実を隠蔽し、嘘で国を統合しようとしているのだ。
「そんなの……間違っている。嘘の上に成り立つ平和なんて、いつか必ず崩れてしまうわ。あなたは、私の力を何年も見てきたはずでしょう? どうして信じてくれなかったの?」
瞳が潤む。かつては互いを想い合った二人なのに、今はこんなに遠い。
アルヴィスは苦しげに眉間を寄せ、しかしどこか諦めたように首を振った。
「もう手遅れなのだ。たとえお前を再び聖女だと認めようにも、カリーナを担ぎ上げた貴族たちや、“新聖女”を歓迎する民衆が黙ってはいない。私には、王として国を混乱から守る義務がある。だから……」
「違うわ!」
エスメラルダは思わず声を張り上げた。いつの間にか震えは止まり、激しい感情だけが胸を満たす。
「王として本当に国を守りたいなら、真実を取り戻すべきよ! 陰謀を放置したまま築いた繁栄なんて偽物に過ぎないわ。あなたが目を背けている限り、この国はいつか腐り落ちる。……それでもいいの?」
追放された聖女が王太子に意見するなど、本来であれば大逆罪だろう。だが、エスメラルダはもう恐れなかった。大切な人々を救うためには、王太子であろうが誰であろうが、事実を突きつけるしかない。
アルヴィスは苦悩の表情を浮かべていたが、やがて重い空気を振り払うように一歩踏み出した。そのとき、ヴァレンティンが割って入るように立ちはだかる。
「アルヴィス王太子――これ以上、“嘘”で自分をも欺くのはやめろ。俺の国も、かつて似たような権力争いを経験した。だが、結局は真実を示し、正しい道へ戻さなければ何も変わらなかった。エスメラルダを追放したことで、結局お前は一番大切なものを失ったんじゃないのか?」
一瞬、アルヴィスの目が大きく見開かれる。ヴァレンティンの存在を訝しんでいたに違いないが、その言葉には妙な説得力があると感じたのだろう。王太子として王座を支える責任感と、婚約者を裏切ってしまった後悔。その板挟みのなかで、彼はずっと苦しんできたのかもしれない。
その葛藤が表情ににじみ出る。アルヴィスは目を伏せ、しばし沈黙した。周囲の兵がいつこちらに来るかもわからない時間のなか、一秒一秒が息苦しいほど長く感じられる。
「もし、カリーナが聖女でないという証拠を――揺るぎない証拠を出せるのなら……」
やがてアルヴィスが低くそう口にすると、ヴァレンティンは懐から書類を差し出す。そしてエスメラルダは後ろを振り返り、祭壇裏に並んだ魔力装置を手で示した。
「これらはすべて、カリーナが“奇跡”を演出するための偽りの道具よ。貴族連中が手を回して、王宮内に運び込んだの。ヴァレンティンが持つ密約書には、証拠となる名前や印章が記されているわ。王位継承の混乱を狙っている一派が、あなたを脅しながらカリーナを聖女に仕立てたのよ」
アルヴィスは書類をざっと目で追い、祭壇裏の装置にも視線をやった。徐々に顔が強張り、息が荒くなる。そこには、自分も知らなかった事実や、あるいは認めたくなかった事柄が明確に記されているのだろう。
「……すぐには信じられない。だが、もしこれが本当なら……」
続きの言葉を発しようとしたとき、広間のほうで激しい歓声が起こる。カリーナが最後の“奇跡”を披露し、人々を陶酔させているのだ。その大音響が荒々しく玉座の周囲を揺らし、ある貴族の声がこちらまで聞こえてきた。
「さあ、“聖女カリーナ”様にひれ伏せ! 国を照らす真の光は、今ここに示されるのだ!」
アルヴィスはその声に顔をしかめる。嘘だと分かっていながらも、すでに大勢の民衆が巻き込まれている現状。国の混乱を招かないために、その嘘を利用してきた自分――。しかし、そこにはもう一人の聖女、エスメラルダが確かに立っている。彼女はかつて王太子が見捨てたはずの存在。だが今、王都を救うために必死に戻ってきたのだ。
「お前はそれほどまでに、この国を救おうとしているのか……?」
アルヴィスが問いかけると、エスメラルダはただうなずいた。わずかに浮かんだ涙を拭いながら、はっきりと答える。
「私は“聖女としての地位”が欲しいんじゃない。私が昔から守りたかったのは、王都に生きる人たちであり、あなたであり、この国そのもの。……あなたが本当に王となるなら、まずは真実を見つめて。私は……もうあの日の私じゃないわ」
その瞳には、追放された元聖女の影はなかった。長い旅と数多くの苦難を経て、エスメラルダは自らの意志で戦う道を選んだ。アルヴィスは深い嘆息を漏らしながら、書類を再び見つめる。そこには、明確に記された高位貴族たちの名、カリーナの“力なき奇跡”を演出する計画書の詳細が――すべてが揃っている。
「……わかった。もしこれが嘘でないのなら……私が、しかるべき場で裁きを行う」
静かな声ながら、それは王太子としての意思表示に他ならない。
次の瞬間、玉座の間から聞こえる歓声がガラリと変化し、悲鳴やどよめきへと転じていく気配がした。カリーナが何らかの“次の演出”に失敗したか、あるいはセレナが仕掛けを崩したか――いずれにせよ、今まさに大広間で何かが起きている。
「行こう、アルヴィス」
エスメラルダが促すと、彼はわずかに躊躇した後、意を決して頷いた。どちらにしても、もう退路はない。カリーナが偽りであると突き止め、事態を収拾するのは自分の責務だと悟ったのだろう。
こうして、“元聖女”と“王太子”が再び肩を並べ、騒然とする大広間へと戻る。偽りの聖女カリーナとの決戦は、すぐそこまで迫っていた。嘘が嘘を塗り重ねた虚構を打ち破るため、いまエスメラルダは追放の痛みを振り払い、王太子アルヴィスと共に、真の力を示そうとしていたのである。