混乱の渦中にあった王都は、偽りの聖女カリーナが失脚してから数日を経てもまだ落ち着きを取り戻せずにいる。王太子アルヴィスは、大勢の貴族が関与していた陰謀を断罪するべく奔走し、各地で徹底した取り調べを指示していた。カリーナ自身も厳重に監視されながら王城内に拘束され、貴族たちの共犯関係を明らかにするための証言を求められている。もともと低い身分だった彼女を、何のために、どのように担ぎ上げたのか――その全貌を解き明かすには、まだ多くの時間が必要だろう。
一方、王都の庶民や商人層は「追放された聖女エスメラルダが本物だった」という事実を改めて噂し合い、心の整理がつかない様子だ。突然の告発劇により“新聖女”が偽物と暴かれた衝撃は計り知れず、国中で動揺が広がっている。なかには「アルヴィス王太子も結局、彼女を信じきれず追放を許したのではないか」と懐疑的な目を向ける者もいたが、カリーナの偽装を突き止めたのが彼自身という点で、なんとか秩序は保たれている。
そうした混乱を鎮めるためにも、王宮内部では「もう一度、正式にエスメラルダを聖女として迎えるべきだ」という声が高まっていた。“真の聖女”が国を導くという、長年続いてきた価値観を続行するなら、彼女を王宮に呼び戻すことが道理だからだ。儀式はやり直し、今度こそ正当な形で人々に“奇跡”を示す――そうすれば国民の不安を払拭できるというのが、改革派の意見でもあった。
しかし、当のエスメラルダはといえば、その提案に素直に首を縦に振れないでいる。かつて聖女と呼ばれていた頃、王都で人々を救いたい一心で励んだ日々は尊く、かけがえのないものだった。しかし同時に、その地位ゆえに権力争いの渦に巻き込まれ、仲間だと思っていた人々にも裏切られる苦しみを味わった。聖女の地位を与えられたときの喜びや誇りは、追放の宣告によって打ち砕かれ、今でもまだ心の奥底に残る傷となっている。
(また同じように、“誰かに利用される聖女”にはなりたくない……)
それが、今のエスメラルダの正直な思いだった。
そんな中、彼女はある日の昼下がり、王城の庭園へ足を運んだ。ここはかつて、追放される前によく訪れていた場所。四季折々の花々が咲き誇り、噴水のそばには小鳥が憩う。エスメラルダはその噴水に腰かけ、忙しなく動く兵士や侍女たちを横目に、まるで幼い子どもの頃に戻ったかのように穏やかな気持ちで空を見上げた。
すると、軽い足音が近づいてくる。振り返ると、そこにはアルヴィスが立っていた。王太子としての職務に忙殺されているはずだが、どうやら少しの合間を縫って彼女のもとを訪れたらしい。
「エスメラルダ……。少し、話をしてもいいか」
疲労の色を隠しきれないアルヴィスの声には、微かな覚悟のようなものが感じられた。エスメラルダは静かにうなずき、彼を噴水の隣へ促す。
かつては、婚約者として寄り添っていた二人。しかし、偽りの聖女騒動を暴いた今、その立場は複雑に揺れている。アルヴィスは口を開くまでに少し間を置き、苦しげな表情で言葉を探しはじめた。
「そなたが追放された後、私は……国を守るためだと信じ込もうとしていた。嘘を“方便”として受け入れ、それが結果的に人々を安定させるのだと――でも本当は、私が弱かっただけなのかもしれない。そなたを……いや、エスメラルダを信じきれず、結果としてこんな大惨事を招いてしまった」
彼の悔恨は真摯だった。以前は「お前を信じられない」と突き放す冷酷さに加えて、“王太子”としての責務を言い訳にしていたように見えたが、今はまるで“人としての後悔”を隠せずにいる。
エスメラルダは、その姿に痛みと同時に一抹の安堵を覚える。かつてのアルヴィスの態度は、まるで他人事のように“自分を切り捨てる”ものだった。しかし今は、自分が犯した過ちを認めようとしている。
「私はもう、過去を責めるつもりはないわ。私だって、あの頃は何も疑わず、周りに流されるままに“聖女”として振る舞っていた。あなたが背負っていた重圧も、今なら少しはわかるつもり……」
エスメラルダがそう言うと、アルヴィスは儚げな笑みを浮かべて噴水に手を触れる。指先から水滴が滴り、眩しい光を反射している。
「それでも……もし、そなたが再び聖女としてこの国を導いてくれるなら、私は全力で支えるつもりだ。“国を守るために嘘をつく”のではなく、“真実をもって国を救う”ために。いずれ私が王位を継ぐとき、その隣には……」
言いかけたところでアルヴィスは言葉を飲み込む。かつては当然のように“自分の隣にはエスメラルダがいる”と信じていたかもしれないが、今の彼にはそれを当然と口にする資格がないのだ。彼女を追放する選択をし、彼女の心を深く傷つけた過去を、自分自身が知っている。
一方、エスメラルダは俯きながら、静かに首を横に振った。
「……ごめんなさい。私はもう、“王太子妃”としてここに立ちたいわけじゃない。ただ、人々が苦しむのを放っておけないから、少しでも助けたいと思っているだけ。だから、もし私が再び“聖女”と呼ばれることになっても、昔のように国中から祝福される存在ではないの。追放されてわかったことがあるわ。――権威や儀式に囚われるんじゃなく、もっと自由に動ける聖女でいたいの」
アルヴィスはその答えを聞き、かすかな苦笑いを浮かべる。王都のあらゆる制度に縛られた立場としては、エスメラルダの言葉があまりにも革新的に聞こえるからだ。
「“自由な聖女”……か。そんな在り方は、王宮が許さないかもしれないぞ」
「でも、私はもう決めたの。今のまま、“追放される前の私”に戻るだけでは、同じことを繰り返すかもしれない。だから、“新たな聖女の道”を歩みたいの。王宮に縛られず、でも人々を助けていく――そんな生き方ができたらって」
その決意は、これまでただ“聖女の力”を振るい、人々の前で奇跡を示していた頃とは根本的に異なる。あのときのエスメラルダは、王宮や貴族社会の都合に合わせられ、一部の陰謀に目を向けることさえできなかった。けれど、追放という苦難を経験し、村でレオンに支えられたり、旅の中でヴァレンティンと行動を共にしたりする中で、“権威がなくても人を救える”ことを学んだ。
アルヴィスは彼女の揺るぎない決意を悟ったのか、静かに目を閉じてうなずく。
「……わかった。そなたの想いは受け止めよう。もしこの国の制度が、そなたの選ぶ道を認めていないのなら、私が変えればいい。ただ、聖女制度そのものをどうするかは、一朝一夕には決められない。いま民衆の間には不信感が広がっているし、改革派の貴族たちもすでに動き出している。争いの火種はまだ残っているが、それでも新しい道を模索するしかない」
そう言うアルヴィスの背中には、幼いころの面影と重なる“決意”が見えた。かつてはただの“王太子”という肩書きに追われるだけだった彼が、今は“自分の言葉で国を導こう”としている――。エスメラルダはその姿に、かすかな希望を感じると同時に、自分自身も変わらなければという思いを強くする。
その日の夕方、エスメラルダは王宮の一室に呼ばれた。そこには、今回の騒動で大きな役割を果たしたヴァレンティンやセレナ、そして改革派の重臣たち数名が待機している。会合の議題は、“エスメラルダを再び聖女として迎えるか否か”という大きな問いだった。
改革派の重臣の一人が、厳粛な顔つきで口火を切る。
「カリーナの偽装が暴かれた今、王都の混乱を鎮めるためにも、本物の聖女を戴くべきだという声は根強い。しかし、エスメラルダ殿が再び追放前のように“王城に常駐”し、“聖女制度”の象徴として動いてくれるかは、本人の意向も大きい。どうか、お考えを聞かせていただきたい」
部屋の空気が一気に張りつめる。セレナは心配そうにエスメラルダを見つめ、ヴァレンティンは彼女の選択を尊重するような穏やかな眼差しを向ける。
エスメラルダは一度目を閉じ、深呼吸をしてから、はっきりと口を開いた。
「私は……王宮に戻って正式に“聖女”として奉仕するつもりはありません。今までのように、権力や制度に縛られた聖女ではなく、自分の力と意思で人々を救いたいのです。ですから、もし皆さんが“新たな聖女”を望むというのであれば、私は外からでも人を助ける道を選ばせてほしい」
その答えに、場の空気がざわつく。一部の重臣は「それでは民衆が混乱するのでは」「聖女が王都にいないとは何事だ」と不満そうな声を上げる。制度に囚われた彼らにとっては、聖女というのは王の隣に座り、国を背負う“シンボル”であるべき存在なのだから。
しかし、エスメラルダの顔には迷いがなかった。
「聖女は、王宮を飾るためだけの存在ではありません。追放されて初めて気づきましたが、私が本当に助けたいのは、“王都の上階級”だけではないのです。村で暮らす人、街道に暮らす人、貧しい人も病に苦しむ人も、すべての人に手を差し伸べたい。そのためには、自由に旅をし、必要とされる場所に出向いてこそ、私の力は生きるのだと思うんです」
聖女という“役職”から解放され、人々のもとに直接赴いて支援を続ける――それがエスメラルダが描く“新たな聖女の道”だ。王宮に縛られていては、また同じような陰謀に飲み込まれる危険があるし、自分の意思とは関係なく“聖女”の権威を利用される可能性も否定できない。だからこそ、あえて象徴的な地位には戻らず、“真に自由な形で人を救う”ことを選んだのだ。
重臣たちは困惑を隠せない様子だが、ヴァレンティンが一歩前へ進み出る。
「彼女の言うとおりだ。俺が見てきたエスメラルダは、王宮を離れていても多くの人々を癒やしていた。制度に縛るより、むしろ外から支える形のほうが、この国にとっても良いのではないか。いずれ、“自由な聖女”という新しい在り方が機能するのかもしれない」
彼の言葉は、隣国の王子という国際的な立場ゆえに説得力があった。セレナも肯定的に頷き、今度は少しだけ臆することなく意見を述べる。
「私も、これまで“聖女”は王宮の神聖なる存在だとばかり思い込んできました。でも、それが権力者の都合で捻じ曲げられるなら、もうその固定観念にしがみつく必要はないのかもしれません。エスメラルダ様は、自由に動いてこそ、その力を最大に発揮できると思います」
重臣たちの中には渋い顔をする者もいたが、最終的にはアルヴィスの判断に委ねることとなる。呼び出しの場にはいなかったものの、あとで報告を受けたアルヴィスは「新しい時代の幕開けかもしれない」と述べ、エスメラルダが“王宮に常駐しない聖女”として生きる道を許容する方向へ動いてくれた。嘘を基盤に成立していたこれまでの聖女制度を、“真の聖女”によって改革すべきと感じているからだろう。
こうして、追放の苦しみと王都での逆転劇を経て、エスメラルダは自ら選んだ“新たな聖女の道”を歩み始めることになった。王宮の外に拠点を置き、必要に応じて各地を巡り、人々を癒やし、問題があれば駆けつける。王都とは密な連絡を取り合い、アルヴィスや改革派と連携しながら、この国を救うための活動を続けていくという形だ。
夕暮れの頃、その結論を得たエスメラルダは、王宮の石畳を静かに歩いていた。彼女を出迎えたのは、レオンとヴァレンティン――ともに彼女を愛し、その行く末を見守ろうとしている二人だ。
「やっぱり、王宮に居座るのはやめたんだな」
レオンが小さく笑い、ヴァレンティンも目を細める。エスメラルダは「うん」とうなずきながら、二人の顔を交互に見やり、その胸に温かいものを感じた。
「私、自由に動ける聖女でいたいの。そうすれば、村の人にも、街道に暮らす人にも、王都の人にも、みんなに手を差し伸べられるから。……それが私の、“新しい道”」
二人とも、心の奥では複雑な思いがあるだろう。レオンは彼女が再び王都の陰謀に巻き込まれないか危惧しているし、ヴァレンティンは隣国に戻る日が近づいている。しかし、ともにエスメラルダの意志を尊重し、最大限の応援を惜しまないと心に決めているのが伝わってくる。
折り重なる想いを胸に抱えつつ、エスメラルダは夕焼けに染まる空を見上げる。追放ざまあの苦い経験は、今やかけがえのない糧となって、彼女を前へ進ませてくれる。いまだ答えは出していない“愛の行方”すら、時間をかけて自分の心と向き合いながら決めていくのだろう。自由な聖女として、たくさんの大切な人々を守るために――。
こうして、エスメラルダの選んだ“新たな聖女の道”が幕を開ける。権力に縛られず、嘘や陰謀から解き放たれた存在として、彼女は自分が救いたいと思う人々のもとへ自らの意思で向かう。王都をはじめとする各地で、これからどんな困難や奇跡が待ち受けているのかはわからない。それでも、彼女はもう迷わない。追放によって失ったものと、旅や出会いによって得たもの、そのすべてを抱きしめながら歩き続ける。
――これは、追放された“元聖女”が、自らの手で切り拓いた新しい人生。いまだ完成形ではないが、確かに彼女の前には希望の光が射していた。愛と未来の選択が交錯する中、エスメラルダは、ひとりの人間としての強さと優しさを取り戻し始めているのだ。