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第15話 心の決断

 王都での大騒動が一応の収束を迎えてから数日後。エスメラルダは、これまでの疲労や緊張から解放されたせいか、朝早くに目覚めると微かな頭痛と倦怠感を覚えた。追放という過酷な経験から始まり、カリーナの陰謀を暴くまでの長い戦いを通じて、彼女はずいぶん無理を重ねてきたのだろう。普段ならそれでも我慢してしまうところだが、今の彼女にはもうひとつ、“自分を大事にすること”という大切な意識が芽生えていた。


「朝から申し訳ないけれど、今日は少し休ませてもらおうかしら……」


 そう呟きながら、エスメラルダは王城の一室――今は仮住まいとして貸し与えられている部屋のベッドに再び横になる。王太子アルヴィスは、しばらくの間ここにいてもいいと言ってくれているが、彼女自身は遠からず自由に旅立つつもりだった。もう聖女として王宮に縛られず、人々のもとへ赴いて癒やしを届ける“新たな道”を選んだからだ。


 けれど、疲れているのは体だけではない。心にもまた、混乱が渦巻いている。レオンとヴァレンティン、二人の男性から同時に告白を受け取ったあの日から、彼女はまだ具体的な答えを出せていない。二人ともかけがえのない存在で、どちらか一方だけをすぐに選ぶということがなぜこんなにも難しいのか――答えが見えず、胸が苦しくなる。


 レオンは幼馴染として彼女を支えてきた。追放されて王都を離れ、絶望の淵に沈んでいたときも、村の人々と共に温かく迎え入れ、いつもさりげなく手を差し伸べてくれた。その優しさに、どれほど救われたかわからない。彼と過ごす時間は穏やかで、失っていた安心感を取り戻させてくれる。一緒にいるときの空気の流れは静かで、心にじんわりと灯がともるようだ。


 一方で、ヴァレンティンは隣国の王子という責務を背負いながら、エスメラルダと共に陰謀を暴くべく危険な行動に踏み込んだ。彼を癒やしたときの温もりや、追手に狙われる中で互いの命を支え合ったあの瞬間が、二人を強く結びつけているのは間違いない。真摯で静かながらも、熱意と誇りを併せ持つ彼の姿には、見とれるような格好良さがあるし、海外の価値観をも取り入れた自由な発想にエスメラルダも救われた。


 どちらも、自分の人生に欠かせないほど大きな存在――それゆえ、決断はそう簡単ではない。どちらかを選び、どちらかを傷つけることになるのだと思うと躊躇してしまう。

(本当に、私はどんな未来を望んでいるの……?)


 そんな自問を繰り返していると、部屋の扉が控えめにノックされた。半ば寝起きのまま「どうぞ」と答えると、入ってきたのはセレナだった。彼女もまた、カリーナの侍女として不穏な空気を感じ取り、今回の騒動では大きな役割を果たした人物だ。最近は新しい侍女長からも信頼を寄せられ、改革派の窓口役を担いながら、エスメラルダの近くにいて手助けしてくれている。


「エスメラルダ様、ご気分はいかがですか? あまりご無理はなさらないでくださいね。少し顔色がすぐれないように見えます」

 セレナはテーブルに薬草茶を置きながら、心配そうに声をかける。エスメラルダは苦笑を浮かべつつも、その香りにほっと息をついた。

「ありがとう。なんだか疲れが出ちゃったみたいで……でも、今日は少し休めば大丈夫よ」


 おとなしく湯飲みを口に近づけると、ほんのりとした苦味と優しい甘みが広がる。レオンの村で覚えた薬草のブレンドなのか、体がじんわりと温まるようだ。セレナはさらに微笑みを返し、少し遠慮がちに言い出した。

「実は……レオンさんとヴァレンティン殿が、先ほどから廊下の外にいらして、エスメラルダ様の具合を気にしているようでした。お二人とも“部屋に入ってもよいか”と私に聞いてきたんです。ですが、あまり無理はさせられないと思って、いったん止めておきました」


 その言葉に、エスメラルダの胸はチクリと痛む。二人とも心配してくれているのだろう。まったく、どちらも優しく、彼女を守りたいと願っている。

「そうだったの……ありがとう、セレナ。もう少ししたら、私のほうから会いに行くわ。今は少しだけ、一人で考えごとがしたいの」


 セレナは「かしこまりました」と頷き、静かに部屋を出ていく。エスメラルダは自分の心臓の鼓動を聞きながら、自然と昨夜のできごとを思い出す。昨夜、彼女は王宮の中庭でたまたまレオンと二人きりになり、故郷の話や村の様子について語り合った。彼はいつもの穏やかな声で「みんな、お前のことを誇りに思ってるよ」と伝えてくれた。エスメラルダにとって、その言葉は追放による傷を大きく癒やすものだったのだ。


 一方、ヴァレンティンとの間には、より大人びた空気が流れている。先日、彼はアルヴィスや改革派の重臣たちと面会し、隣国との正式な交流を深めるための協議を始めたところだという。政治や外交の難しい話にも、彼は柔和な態度で臨み、隣国の王子としての責任を果たしながらも、ふとした合間にはエスメラルダを気遣う視線を向けてくる。そのまなざしに触れるたび、彼女の胸は熱くなってしまう。


(どちらも、私が大切に思う人。どちらかを選ぶ……本当にそれが必要なことなの?)


 ふいに、そんな考えが浮かぶ。かつては、婚約者がいる以上、恋愛は一対一であることが当然だと信じていた。だが、この国の権力構造だって、カリーナが“ただひとりの聖女”という形で利用された結果、悲劇が起きたのではないか。もちろん恋愛と政治は違うが、“一つの形”しか認められない社会が、逆に人を縛り、苦しめることもあるのでは――追放という経験を通じて、エスメラルダは柔軟な考え方を学びつつあった。


 しかし、そうは言っても、このままどちらとも曖昧なままでいるのは、きっと二人を不安にさせる。自分の心はどうしたいのか、本当のところを聞いてみたい。それだけの想いが、今の彼女の中に満ちていた。


 しばらくして、体のだるさがいくらか取れたエスメラルダは、ゆっくりとベッドを下り、髪を整えて薄いショールを羽織る。決断はまだ先かもしれないが、今の気持ちをきちんと伝えなければならない――そう思うと、不思議と足どりが軽くなった。


 扉を開けると、廊下の突き当たりからレオンとヴァレンティンがちょうどこちらへ歩いてくるところだった。レオンは一瞬安心したような表情を浮かべ、ヴァレンティンもまた安堵の笑みを漏らす。

「大丈夫か、顔色が悪そうだったって聞いたから、気がかりで……」

「ゆっくり休めましたか? まだ疲れが抜けないなら、俺たちもサポートします」


 それぞれが彼女を気遣う口調を口にするが、その奥には同じ想い――“エスメラルダを守りたい”という純粋な感情がにじんでいる。エスメラルダは心を落ち着かせるように息を整え、「ありがとう、大丈夫よ」と小さく微笑んだ。


「それで、伝えたいことがあるの。二人とも、少し話を聞いてくれる?」


 エスメラルダの提案に、レオンとヴァレンティンは顔を見合わせてから、黙って頷く。三人は廊下を抜け、王城のテラスへと向かった。ここは石柱が並び、下界の街並みを一望できる吹きさらしの空間で、天気が良い日には見晴らしが素晴らしい。


 今日は晴天。白い雲がのびやかに広がり、どこか旅へ誘うような空の青さだ。エスメラルダは手すりに寄りかかりながら、改めて二人を見つめる。レオンの真っすぐな眼差しと、ヴァレンティンの穏やかなまなざし――どちらも嘘偽りのない愛情が宿っている。


「私、あなたたち二人から愛を告白してもらって、すごく嬉しかった。正直、こんなにも幸せな悩みを抱えるなんて、追放されたときには想像もしなかったわ。だけど……今、私の中にはもう一つ大きな決意があるの。自由な聖女として、この国だけじゃなく、もっと多くの人々を助けたいという思い」


 レオンが静かに相槌を打ち、ヴァレンティンも眼で促すように続けてほしいと表情を浮かべる。エスメラルダは言葉を選びながら、少しずつ自分の気持ちを口にした。

「私はしばらく、いろんな土地を訪ねて、助けを求める人のそばで力を使いたい。王宮に留まらず、村や辺境、場合によっては隣国にも行くことになるかもしれない。そうしたときに、私自身が恋に縛られたり、どこかに安住したりすると、思いきり踏み出せなくなるんじゃないかって……。だから、今はまだ、どちらか一方だけと未来を約束するのは難しいの」


 はっきりとした“選択”ではない言葉かもしれない。しかし、エスメラルダの声には揺るぎない決意が感じられた。レオンは少し切なそうに目を伏せ、ヴァレンティンも複雑な表情を浮かべるが、どちらも否定の言葉を口にしない。


「わかってる。お前が誰かに縛られるような生き方はしない方がいいって、俺も思っていたからな……」

 レオンがぽつりとつぶやき、苦笑する。ヴァレンティンも軽く肩をすくめつつ、エスメラルダへの尊重を忘れない。

「それでいいと思うよ。俺もいずれ隣国に戻らなくてはならないし、今はお互いの使命を果たす時期なのかもしれない。けれど……君が力を必要とするときは、いつだって駆けつけるつもりだ」


 二人の反応に、エスメラルダの胸はきゅっと締めつけられる。自分勝手な言い分かもしれないのに、こうして理解を示してくれるのだ。その優しさに甘えてしまいそうな自分が、同時に怖くもある。だけど、彼女はもう嘘をつきたくないし、誰かを裏切るような選択はしたくなかった。


「ありがとう。二人とも、本当に……。今は、私自身の道を歩きたい。だけど、きっとまた助けを求めるときが来ると思う。そのときは……そばにいてくれる?」


 問いかける彼女の声に、レオンとヴァレンティンがそれぞれ小さく頷く。生きる世界や背景は違えど、エスメラルダへの愛情と友情は変わらないと、二人の眼差しが物語っていた。

 そんな姿を見届けて、彼女はようやく肩の力を抜く。これが“完全な決断”とは言えないかもしれない。いつかは、どちらかを選ぶ日が来るのかもしれない。けれど、今この瞬間に必要なのは、自分の気持ちを偽らないこと。二人とも大切で、まだ答えを絞れない――それが、エスメラルダの“心の決断”なのだ。


 テラスから見える王都は、まだ復興途上だ。カリーナを担いでいた貴族たちが粛清され、新しい制度改革が進められている最中でもある。エスメラルダが“自由な聖女”としてこの国を出発する日も遠くないだろう。出会う人々や、見知らぬ土地での出来事が、また彼女を成長させていくに違いない。そのとき、あらためて自分の心がどちらを選ぶのか、あるいは別の道を選ぶのか――今はまだ、神さえ知らない未来だ。


「よし……。それなら私、旅に出る準備を進めるわ。レオン、村にもまた戻るつもり。ヴァレンティン、あなたの隣国にもいつかきっと訪ねてみたい。……そのときまで、互いに元気でいましょう」


 エスメラルダの言葉に、レオンは少し照れくさそうに目をそらしながら「まったく、頑張りすぎないようにな」とぽつり。それを聞いたヴァレンティンは、優雅に微笑んで「俺はどんな場所でも君を歓迎するよ」と、まるで貴公子のような言葉を返す。

 夕方になれば、彼女は正式に王太子アルヴィスへ挨拶をし、一時的に王宮を出る予定だ。こうして再び旅立つために、まずは自分の体と心を整える。その道中で、いつか、はっきりとした答えが見つかるのかもしれない。


 誰かを愛すること、人を救いたいという願い、自分が生きたい未来――それらすべてが今のエスメラルダを支えている。追放という悲惨な出来事が、逆に彼女を強く、そして優しく成長させたのだ。もう迷うことはあっても、絶望することはないだろう。

 テラスに柔らかな風が吹き抜け、三人の衣の裾を揺らす。エスメラルダはその風を受け止め、胸いっぱいに深呼吸をした。


「ありがとう、レオン。ありがとう、ヴァレンティン。私は私らしく、前へ進んでみるわ」


 そう告げる声は、あの玉座の間で追放を宣告された日には想像もできなかったほど、自信と穏やかさに満ちている。“心の決断”を通じて、彼女はまた一歩、新しい未来へと歩み出すのだった。




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