澄み切った朝の空には、高く雲が流れていた。王城の外庭からは一面に広がる街並みが見渡せる。騒動の余韻がまだ残る王都の景色だが、あちこちで復興の声が上がり、人々はたくましく日常を取り戻しつつあった。
その風景を、エスメラルダは静かに見つめていた。身軽な旅行用の装いに身を包み、肩には荷物を背負っている。すぐ近くにはレオンとヴァレンティンも立ち、彼女を見送ろうとしていた。こぢんまりとした出発だったが、これがエスメラルダにとっての“大切な旅立ち”になるということは、三人とも強く感じ取っている。
あれから数日間、王太子アルヴィスはエスメラルダの希望どおり、“王宮に常駐しない自由な聖女”としての活動を正式に認める手続きに着手した。もともと権威にしがみついてきた一部の保守派貴族からは難色も示されたが、カリーナの偽装という悪夢を体験した今、多くの人々は「エスメラルダがどこにいても構わない。彼女は本物だ」と受け入れ始めていた。
彼女が追放されていた時期に見てきたのは、王都だけではなく、むしろ辺境や村こそが助けを求めているという現実。そこで得た学びが、“聖女はただ祭り上げられる存在ではなく、人々と直接かかわるべき”という新たな価値観を芽生えさせたのだ。アルヴィスも、「もしこれが成功すれば、聖女制度そのものを改める良いきっかけになるだろう」と前向きに捉えている。
そして、いよいよエスメラルダは次の一歩を踏み出すことに決めた。王都を出発し、各地で困っている人たちを巡回して支援する。ときにはレオンの村へ戻って拠点を整え、ときにはヴァレンティンの隣国へ向かうかもしれない。
出発の朝、彼女はこれまで宿泊していた王城の一室を後にし、最低限の荷物だけを手にした。大きな野望を抱くわけではない。ただ、「誰かを救いたい」という自分の気持ちに素直に従い、すべてを失った過去さえも“意味あるもの”に変えるために旅立つのだ。
出発の場所に選んだ王城の外庭は、朝陽に照らされて金色に輝いている。レンガ造りの石畳が遠くの城門へ続き、その先にはまだ見ぬ道が広がっている。エスメラルダが息を深く吸い込むと、隣に立つレオンが彼女の肩に手を置き、無骨な笑みを浮かべる。
「本当に行っちまうんだな。……まあ、お前の旅好きは昔からだし、村にいるころも森を駆け回ってたもんな。危ない目にあわねえように、気をつけて行けよ。困ったらすぐに戻って来い。俺はいつだって、お前を待ってるんだからな」
彼の声には、寂しさと応援の両方が入り混じっている。エスメラルダはそんなレオンを見上げ、くすりと微笑む。
「ありがとう、レオン。私、あなたがいなかったら王都での苦難を乗り越えられなかったと思う。故郷に帰ったときも、温かく迎えてくれたのはあなたのおかげだし……本当に感謝してる。だから、これからもずっと大事な存在よ」
心からの言葉に、レオンは気恥ずかしそうに頭をかくが、その表情に後悔や不満は見えない。少なくとも彼女の選択を尊重し、そのうえで自分なりに彼女を見守ろうと覚悟を決めているのだ。
一方で、ヴァレンティンはエスメラルダの前にまっすぐ進み出て、騎士のように優雅なお辞儀をする。隣国の王子として鍛えられた立ち居振る舞いなのだろう。その振る舞いには一種の気品があり、王都の人々を前にしても引けを取らない存在感があった。
「短い間だったけれど、俺にとっては貴重な時間だった。君が再び王都へ戻ってきて、カリーナの偽装を暴くために一緒に行動して……そのすべてが、俺の心に刻まれている。隣国では、早速“外交特使”としての任務が山積みだが、いつかまた君のもとへ訪れる。君が望むなら、どこへでも駆けつけたいんだ」
その言葉を聞いたエスメラルダは、何とも言えない温かな気持ちに包まれる。幼馴染との穏やかな愛情とは異なる、刺激的で新鮮な感情をヴァレンティンは与えてくれた。ともに命を懸けて陰謀に立ち向かった絆は、今後もきっと彼女を助けてくれるだろう。
「ヴァレンティン……私も、もしあなたの国で困っている人がいたら、すぐにでも渡って行くわ。だから、お互いに連絡を取り合いながらやっていきましょう。あなたと過ごした時間は、私にとって本当に貴重だったから」
そう言いながら握手を交わす二人。ヴァレンティンの眼差しには、深い尊敬と愛情が同居しているのが伝わってくる。けれど今は、はっきりと恋人同士としての関係を築く段階ではない。“それでも構わない”とばかりに、彼は自分の役割を果たすために王城内へ戻る準備をし、エスメラルダの旅立ちを見送ることを選んだ。
すると、遠くの回廊からバタバタと足音が聞こえ、セレナが慌てた様子で駆けてくる。手には何やら布に包まれた小さな箱を抱えている。
「エスメラルダ様、こちらを持って行ってください! 薬師さんが調合した“回復薬”だそうです。もし道中で体調を崩したり、誰かが怪我をしたときに役立つかもしれません」
そう言いながら、セレナは箱を押し付けるように手渡す。彼女はまだ侍女としての任務をこなしながら、改革派の貴族や新しい侍女長の下で働く日々だ。しかし、そのまなざしは前よりもずっと明るい。追放劇の真相を知った今、セレナは権力争いに悩まされることなく“人を支える”仕事に喜びを見出しているようだった。
「ありがとう、セレナ。あなたも大変でしょうけれど……これからはお互い、自由な気持ちで働けるようになるといいわね」
エスメラルダが微笑むと、セレナは目を潤ませ、深く頭を下げる。
「はい、私も含めて侍女のみんなが“カリーナ騒動”から立ち直らなくちゃいけません。でも、エスメラルダ様の頑張る姿を見ていると、私たちも負けてられないって思うんです。どうかお体に気をつけて、いつかまたお会いしましょう!」
そう言い残し、セレナは再び忙しそうに王城の奥へと走っていく。きっと、彼女自身も新しい侍女長や改革派と連携して、王宮を少しずつ変えていこうとしているのだろう。
出発の時は近い。門のほうを振り向くと、玉座の間での会議を終えたアルヴィスが、二人の護衛を連れて現れた。さすがに王太子という立場上、遠出の挨拶には出られなかったが、それでも最後に顔を見せようと急いできたのだろう。
アルヴィスはエスメラルダの姿を見て、小さく微笑む。以前の冷たい態度は消え去り、どこか昔の彼に戻ったようにも見える。
「エスメラルダ……お前の選んだ道を、私は支持する。ここに戻りたいと思ったときは、いつでも迎えよう。もはや、そなたを追放する理由など微塵も存在しない。私は……本当にすまなかった。それだけは最後に伝えたかったんだ」
心からの謝罪は、もう何度も聞いてきた。そのたびに、エスメラルダの心のしこりは少しずつ解けていった。今では、王太子である彼を責める気持ちはないし、むしろ「これからもきっと苦難が続くだろうけれど、頑張ってほしい」という応援の念が湧いている。
「ありがとう、アルヴィス。私もあなたを恨んでないわ。人はみんな、誰かを守ろうとするときに、時として間違いを犯してしまうのだと思う。あなたが本当の意味で国を守りたいなら、私は“外から”協力する。だから、迷ったときはいつでも頼ってくれていいのよ」
そう言って微笑んだ彼女を見つめ、アルヴィスはかすかなため息とともに小さく頷く。かつては婚約者としてそばにあった女性が、今はまるで一人の独立した戦士のように力強い。失ってしまった愛かもしれないが、それでも二人を結ぶ“祖国を想う気持ち”は変わらず残っている。
こうして、王太子も含め、王城の人々から惜しみない送りの言葉をもらいながら、エスメラルダは大門の前へと進んだ。大きく開かれた門の外には、朝の街並みが広がり、通りを行き交う人々が出勤や買い物に急いでいる。誰もがそれぞれの人生を歩み、自分の“日常”を取り戻している。その姿を見つめると、彼女は不思議なほど胸が高鳴った。かつて聖女だったころは、この庶民の暮らしが遠い世界に思えたのに、今はとても近く感じるのだから。
「さあ、行こうか。最初は少しだけ遠回りして、街の外れにある孤児院を訪ねようと思うの。そこに病気がちな子がいるって話を聞いたから……必要であれば、手助けしてあげたいの」
エスメラルダはレオンとヴァレンティン、そして見送りに来た王宮の人々にそう言って、はにかんだ笑みを見せる。両腕には、旅支度のバッグと、先ほどセレナからもらった薬品の入った箱が抱えられている。自由な聖女としての初めての一歩を、ここから踏み出そうとしているのだ。
レオンは彼女の荷物の一部をひょいと担ぎ上げ、「なら、街の外れまで一緒に行くぜ」と苦笑まじりに言う。いずれ村に戻るまでに、少しだけ彼女を護衛するつもりらしい。ヴァレンティンはというと、「外交の仕事が残っているから、王城に留まる」と穏やかに告げる。しかし、近々隣国へ帰るタイミングで、改めてエスメラルダに会いに行くのだろう。三人の関係は複雑かもしれないが、今は互いを信じあえる温かい空気がそこにあった。
門の外に足を踏み出すと、まるで新しい世界への扉が開かれたような感覚に襲われる。王都はまだ改革の途中で、様々な場所に問題が山積みだろう。けれど、エスメラルダはこの国を愛しているし、時折戻ってきては助けになりたいと思っている。
その一方で、いずれは隣国へも旅して、もっと多くの命を救いたい。昔の自分は“聖女”という地位に甘んじていたが、今は“自由”を得たことで、この力をどこまでも広く使う道が開かれたのだ。
「エスメラルダ様! お気をつけて、また会いましょう!」
「元聖女、なんて呼ばないでくださいよ。でも……本当にお世話になりました!」
門兵や侍女たちの声援が背後から飛んでくる。手を振り返しながら、彼女は一度だけ大きく息を吸い込み、朝の空気を全身に取り込んだ。追放という悲劇が、いまではもう彼女の弱さを象徴する出来事ではなく、新たな未来を拓くための試練だったと思える。
“偽りの聖女”カリーナを倒し、愛と信頼を取り戻したこの王都を後にする。追放ざまあの物語はここで一区切りとなるが、エスメラルダにとっては本当の意味での始まりに過ぎない。
レオンと並んで歩き出す彼女の瞳は、確かに希望に満ちていた。たとえ先の道が険しくとも、もう絶望に押しつぶされることはない。いつか本当に自分の心がどちらを選ぶのか、あるいは別の答えに辿り着くのか――それはまだ遠い未来の物語だ。
王都を出て広い街道へと差しかかるころ、エスメラルダはふと足を止め、小さくつぶやいた。
「追放されてよかった、なんて、さすがに言い過ぎかもしれないけど……。それでも、あの苦しみがなかったら、私はきっと今の自分にはなれていなかった」
それは強がりではなく、正直な思いだ。レオンが不思議そうに首をかしげ、「変わったなお前」と言いかけるが、すぐに照れ笑いを浮かべる。エスメラルダは微笑んで「そう、変わったんだと思う」と返す。
彼女が見つめる先は、まだ陽の光が差し始めたばかりの広い世界。ここには、助けを求める人や、未知の仲間、そして思わぬ試練が待っているだろう。しかし、彼女はもう孤独ではない。故郷の村も、王都の人々も、ヴァレンティンのいる隣国も、すべてが繋がっていて、そして彼女の背中を押してくれる。
しばらくすると、街道の向こうから旅人の一団がやってくる。エスメラルダが旅衣装を身にまとい、柔和な笑顔を浮かべている姿を見て、相手は「何かあったのか」と興味深げに声をかけてきた。
「道に迷われたんですか? 手助けが要るのなら……」
思わぬ申し出に、エスメラルダは「ありがとうございます。でも、私のほうがあなた方を助けられるかもしれませんよ」と、穏やかに言い返す。まさに“自由な聖女”としての在り方を象徴するやり取りだった。レオンが口元をほころばせ、連れの旅人たちも少し驚いたように笑う。
こうして、追放された聖女は王都を後にし、“真の聖女”としての旅を本格的に始める。愛と未来を自らの手で選びながら、決して止まらずに人々を救う道を歩んでいくのだ。
青空の下、エスメラルダの背中には確かな力と、周囲の人々の温かな思いが詰まっている。その一歩一歩が、次なる冒険と幸せへと続くことを、彼女は信じて疑わなかった。