王都を離れてから数ヶ月が過ぎた。エスメラルダは“自由な聖女”として各地を巡り、病で苦しむ人々を癒やし、貧しい集落で薬草の育て方を教えたり、困窮する孤児院を訪ねたりと、まさに「必要とされる場所」に自らの足で赴き続けていた。かつては追放という形で王宮を追われたが、いまはもう、そのときの悔しさや悲しみよりも、“助けを必要とする人に出会えた喜び”のほうが上回っている。
朝霧に包まれた山間の小さな村では、閉ざされた自然の中で古くからの病が蔓延していると聞けば、王都から遠く離れた道なき道を進んで訪れる。荒れ果てた辺境の地域では、野盗に怯える人々に薬や防具を分け与え、安全な経路を一緒に探す。ときには体調を崩した自分を気遣ってくれる村人に出会い、逆に力をもらうこともある。そうした日々の積み重ねこそが、エスメラルダにとって“旅”であり、“新しい聖女の務め”になっていた。
もちろん、道中は危険ばかりだ。山賊や盗賊が出没する場所では、彼女の持つ“癒やしの力”が逆手に取られることを防ぐため、ひっそりと身を隠さねばならない。あえて聖女であることを公言せず、ただの旅の癒やし手や薬草師として活動する場面も多い。それでも、困窮した人が目の前にいるなら、放っておくことはできない。“嘘”に利用されることを拒んだ自分なのだから、なおさら“本当の力”を自分の意志で使いたいという思いが強いのだ。
そんな旅路を続ける中で、エスメラルダはたびたび「自分はどうして、そこまで人を救いたいと願うのか」を振り返ることがある。王宮にいたころは、“聖女”という立場を与えられ、人々に期待されているから――という側面も大きかった。だが、追放されて失意の底にあったとき、レオンが故郷の村で手を差し伸べてくれた。その優しさに救われた経験は、彼女に“期待や義務”とは違う“純粋な慈しみ”を思い出させたのだ。それは誰もが本来持っているはずの気持ちで、彼女は今でもその原点を大切にしている。
そして、隣国の王子ヴァレンティンとの出会いも忘れられない。彼を森で治療し、やがて互いの使命を知り合い、危険を冒して王都の陰謀を暴き出した。その過程で育んだ強い信頼は、エスメラルダに“異なる価値観とのつながり”を教えてくれた。かつて“聖女”として国に縛られていたころの彼女は、他国の王子と肩を並べて陰謀に立ち向かうなど想像もしていなかっただろう。追放がきっかけで道を外れたからこそ出会えた仲間――その存在の尊さを、彼女は噛みしめるように思い返す。
ある日のこと。エスメラルダは小さな峠道を超え、開けた村の入口へたどり着いた。そこは旅人の話によれば、先日まで山賊の被害が酷く、人々が怯えて暮らしていたという。ところが最近、どこかの騎士団が通りかかったらしく、山賊の根城を叩き潰し、被害を沈静化させたと耳にしていた。事実、村の入口には警護の人影が見えず、昼間でも安心して通れる雰囲気が漂っている。
エスメラルダは「ならば医療面の支援が手薄かもしれない」と予想し、薬草を収穫しながら村に入った。住民たちは、珍しい顔に少し警戒した様子だったが、彼女が持参した薬草や簡単な治療道具を示すと、むしろ手招きするように「うちの病気の子を診てほしい」と口々に頼んでくる。
「旅の癒やし手さまか? 悪いが、幼い子どもが高熱を出して困っているんだ……」
「はい、私でよければ力になりましょう」
差し出されるのは色の浅いミルク粥や、干し肉など、村が用意してくれた食事。彼女はお礼を述べると、さっそく子どものもとへと案内されていく。かつては“追放された聖女”として後ろ指を指される立場だったが、今は単なる旅の癒やし手。人々がこうして心を開いてくれるのは、肩書きによる束縛から解放されたからかもしれない。
子どもは高熱にうなされていたが、まだ重症というほどではなさそうだった。エスメラルダは薬草を煎じた湯を飲ませ、祈りに近い集中で手のひらから“癒やしの力”を送る。昔のように神殿で教えられた厳格な儀式ではなく、もっと自然で柔らかな祈り方だ。幼い子が少しずつ落ち着きを取り戻し、静かな寝息を立て始める。その光景を見ていた両親は、感極まったように涙ぐむ。
「ありがとうございます、まさかこんな田舎にまで神の恩恵が届くとは……。まるで、昔の“本物の聖女”さまのようです」
そう言われ、エスメラルダは思わずくすりと笑う。追放される前なら、この言葉を聞いて誇らしくも身が引き締まる思いだっただろう。けれど今の彼女にとって、それはただの肩書き以上の意味を持っている。“自由な聖女”として、自分の意志で人々に寄り添えることへの喜びを改めて噛みしめるばかりだ。
そうして村の何軒かを周り、病や怪我の相談を受けたり薬草を分けたりしていると、村人が奇妙な噂を耳打ちしてくる。
「実は……この近くの峠道で、隣国の騎士団らしき連中が野営をしているって話だ。山賊退治をしてくれたのも、そいつららしい。お嬢さん、危険があるなら山を越える前にそっちへ寄ってみるといいかもしれないよ」
隣国の騎士団――エスメラルダはその言葉に、ふとヴァレンティンの顔を思い浮かべる。まさか……とは思いつつも、もし彼が周辺を警護しているならば、これほど心強いことはない。好奇心と期待を胸に抱きながら、彼女はその日の夕方、村を出発し、山道を上ることに決めた。
陽が西に傾き始める頃、峠道の途中で焚き火の明かりが見えた。小高い岩場の近くに設営された野営地には、洗練された甲冑をまとった騎士たちがいて、そこには間違いなく隣国の紋章が刻まれている。背筋が伸びるような凛とした雰囲気の中、数名の騎士がエスメラルダに気づいて声をかけてきた。
「そちらの方、こんな時間に山道を越えるとは珍しいですね。どちらへ行かれるんです?」
警戒心を隠せない様子ながらも、相手は紳士的だ。エスメラルダは微笑んで「旅の癒やし手です。山賊の出没を聞いて心配していたんですが、もう安全なのでしょうか?」と問い返すと、彼らは顔を見合わせ、少し誇らしげに肩をすくめる。
「ご安心ください。俺たちの隊が山賊どもを一掃しました。今は峠道を封鎖し、拠点を探っている最中です。もはや旅人を襲う輩は残っていないはずですよ」
騎士の一人が答えたその瞬間、後方のテントから見るからに指揮官と思しき人物が出てきた。高貴な雰囲気と凛々しさを兼ね備えたその姿は、まさにエスメラルダの記憶通り――ヴァレンティンだった。彼女の姿に気づいた瞬間、驚きと喜びが入り混じった表情が浮かぶ。
「エスメラルダ……どうしてここに?」
彼女は笑みを返して歩み寄り、短い答えを返す。
「人を助けるために旅をしていたら、偶然ここまで来たの。そしたら“隣国の騎士団が山賊を退治してくれた”って噂を聞いて……まさか本当にあなたがいるとは思わなかったわ」
ヴァレンティンもまた、険しい警戒モードから一転して柔和な笑みを浮かべる。部下の騎士たちが怪訝そうに見つめている中、彼は堂々とエスメラルダを野営の中心へと案内する。
「実は、隣国でも不穏な動きがあったから、王都との共同対策として派遣されたんだ。この辺りは交易路にも近いからね。だが、まさかエスメラルダがここで出会うなんて……運命だろうか」
そう言われたエスメラルダは頬を染め、少しだけ胸がときめくのを感じる。二人は再会の喜びを分かち合いながら、焚き火を囲む騎士たちに説明する。もちろん、彼女が“追放されていた王都の聖女”だったことを知る者もいるが、今となっては過去の話。むしろ“自由な聖女”として各地を渡り歩いていることを伝えると、騎士たちは感心したように頷く。
「それは心強い。困っている人々にとっても、あなたのような存在は本当に救いになるでしょう」
「俺たちにも何か力を貸してほしいことがあるなら、遠慮なく言ってくれ」
そんな申し出を受けながら、エスメラルダは改めて思う。追放ざまあと呼ばれる理不尽な境遇を乗り越えた結果、“真の聖女”としての道が自然に開けている。それは“王宮に鎖でつながれた聖女”ではなく、“自分の足で歩く自由な聖女”だ。どんな困難があっても、もう過去のように押し潰されることはない。
そして、ヴァレンティンとの再会は彼女の胸に一つの確かな灯火をともした。愛と未来をめぐる悩みはまだ完全に解決したわけではないが、こうして再び繋がり合う機会があるという事実が、何よりの希望だ。
その夜、エスメラルダは野営地の一角にテントを借り、騎士たちと簡素な夕餉をともにした。焚き火の暖かさと、星空のきらめきが、まるでこの再会を祝福しているかのように感じる。彼女の頭にはレオンの笑顔も浮かんでくるが、同時に“自分は今、幸せなのだ”という確信が広がる。誰かを助けたいという純粋な思いが、こうして人々との絆を結び、新たな道を照らしている。
翌朝には、それぞれの目的地へ向かうために分かれることになるだろう。ヴァレンティンは隣国に戻り、エスメラルダは別の町へ足を伸ばすかもしれない。けれど、この旅路のどこかでまた出会えると信じられるだけの関係を、二人は築いてきた。そして、あの故郷の村にはレオンや友人たちが待っている。王都にもセレナや改革派の仲間たちがいる。
エスメラルダが失ったと思っていたもの――地位や愛や安定――は、別のかたちでちゃんと生き続けているのだ。追放され、絶望していたころには想像もできなかった“幸せな結末”が、彼女の周囲に無数に描かれようとしている。
だからこそ、彼女は決意を新たにする。まだ“未来の選択”はすべて終わったわけじゃない。自分の気持ちを確かめるための旅は、これからも続いていくのだから。人々のために癒やしを与え、自分の心に正直でいよう――それこそが、エスメラルダの本当の“幸せな結末”であり、新たに紡がれる物語の始まりでもある。
こうして、追放ざまあとも言える逆境を経て、エスメラルダは自らの手で“真の幸せ”を掴みつつある。かつて彼女を陥れた陰謀はすでに暴かれ、傷ついた王都は再生の道を歩み出している。故郷の村にも、隣国にも、王都にも、そして世界のどこへ行っても、彼女には支えてくれる人と救いを待つ人がいる。
数奇な運命に翻弄されながらも、今、エスメラルダはかつてないほど確かな足取りで人生を歩む。“自由な聖女”として、“愛と未来の選択”を胸に抱きながら――。