翌朝、澪は担任に遅刻宣言を出した。NR線が1時間前から運転見合わせになっているからだ。首都圏のNR線は本数が多い上に複数の路線が入り乱れ、影響が広範囲に及びがちだ。そして朝のラッシュ時間帯に起きたことで、SNSでは怒りの声が集中していた。
「澪、お前に話が有る」
と父は言い、娘をリビングに座らせると話を切り出す。
「……お前、EXCとか云うゲームにハマっているらしいな」
「それが何?」
と問う澪に、常願は言った。
「……今朝線路に飛び込んだのは、その界隈ではスタークと呼ばれていた男だ」
「……え……?」
と無意識に声を上げた澪は目を見開く。
「名前、聞いたことが有るか?」
「……有ると云うか、顔も知ってる……」
と答え、澪は経緯を簡単に話す。そして、悠陽と学校の最寄り駅が同じである話も。
「まさか、悠陽さんを疑ってるの?」
「事故の線が消えれば、一度は疑う。それが刑事だ。仮にお前だろうと、例外は無い」
「それは知ってるけど」
「ゲームが原因で自殺だとすれば、世も末だ」
と常願は言った。
2日連続でキルされたことがきっかけで自殺とは、澪には想像が付かない。EXCとは無関係の原因が有る……澪はそう思いながら、スマートフォンに目を向ける。
「スタークが死んだらしいわ」
と打った恋人へのメッセージに
「え?」
と返事が届くのは数分後のことだった。流雫がペンションのモーニングの手伝いを終えたタイミングだ。猫柄のエプロンを外した流雫は、澪からのメッセージに軽く困惑する。
「父が言ってたの。今朝NR線に飛び込んだと。あたしも影響を受けてるけど」
と打ちながら澪は、何が悲しくて朝から重い話題をしなければならないのか、と軽く憂鬱になる。しかし、気にならないワケがない。
初対面が不穏だったし、昨日もそうだった。だが、あの一件から半日も経っていない。その間にスタークに何が有ったのか。
「列車が動くまで家にいるといい。その代わり、捜査に協力しろ」
と父は言った。それが本音か、と澪は思った。
土曜に悠陽が近寄ってきた時からのことを、父に淡々と話す澪。当然、謎のアバターにも触れる。
池袋の銃撃犯は、単にコミューン内での人間関係の縺れから事件を引き起こしたものだ。
一方、澪と詩応が最初に戦ったアバターはRMTが原因で粛清されたものだった。リアルマネートレードの略で、ゲーム内の取引で現実世界の金銭の遣り取りを交わすことを指す。最近はデジタルギフトカードやモバイルペイメントアプリ、はたまた仮想通貨での送金が主流だが、MMOでは禁止されていることが多い。
そして線路への飛び込み。スタークと名乗っていた男は、元エクシスの契約プログラマ。EXCは不正行為取締システムに関わっていた。そのリリースと同時に契約が切れ、以降はフリーランスとして生計を立てていた。
……少なからず内部を知る者。だから流雫や澪にEXCやAIへの批判をぶちまける一方、チートのワードに過剰反応を示した。今となっては納得できる。
それだけに、あのタイミングでのエネミー襲撃は、EXCにとっては秀逸だった。そして、飛び込みは結果的に口封じになった。これで1人、EXCを批判してくる要注意人物はいなくなったからだ。
スターク性善説なら、その死は噛み合う。一方で悠陽に迫ったのは、単に強さを履き違えた末の過ちでしかない。それは澪の、複雑な問題であってほしくないと云う我が侭な願いだった。尤も、それが叶うとは微塵も思っていないが。
澪は、父の目の前でEXCのアプリからSNSを開く。スタークの死については誰も何も触れていなかった。ゲームを起動しなければ見えない専用SNSは、平日の午前中だから流れが遅いのは当然ではある。とは云え、1件は投稿されていても不思議ではないのだが。
一方、一般的なSNSでは悼みと死を喜ぶ投稿が数十件ずつ見られる。確かに評判がよいプレイヤーだったとは思えないが、死を喜ぶのは人として問題が有ると思わざるを得ない。
同時に溜め息をつく親子に、母の美雪がコーヒーを淹れた。
「ネットゲームの世界も、結局はアバターを通じて人間同士が行き交うもの。それぐらい、判ってるハズなのにね」
と言った美雪に
「判ってても麻痺する……それが怖さね……」
と澪は言った。そう陥らないように、と自戒を刻み付けるように。
澪は2時間遅れて登校し、後は普段通り授業を受け、放課後を迎えた。スマートフォンのカメラで記録した彩花のノートを家で書き写す以外、今日はすべきことが無い。
同級生2人との会話にも、EXCの話題は出てきた。結奈と彩花はサイバー衣装で戦いながら、百合の花を咲き乱れさせている。そしてどうせだから、一度だけでも流雫と澪のカップルも入れた4人で戦ってみたいと思っている。
澪もそれは面白いと思っている。ただ今は、やはり引っ掛かることが多過ぎて、そのうちとしか言えなかった。
……平和じゃないのに、2人とは遊んで楽しめない。澪がそう思っていることに、向かい側に並ぶ2人は薄々気付いていた。しかし何も言わないことにした。2人のためにと隠したがるのは、知り合った時からの澪の悪い癖だ。
駅で2人と別れたボブカットの少女を
「澪」
と呼ぶロングヘアの少女。悠陽だ。
「……知ってる?スタークのこと」
と問う悠陽に、澪は
「朝のニュースで」
と答える。何もかも父に話したことは、今は黙っていよう……と決めた澪に、悠陽は言う。
「自殺なんて有り得ない。殺されたんだわ……」
「どうしてそう……」
「本物の顔が見えないMMOこそ、本性が出るの。スタークは、謂わばイキりキャラ。つまりリアルでも似たような性格。それが突然自殺したと言われても、どう信じろと云うの?」
と悠陽は言う。
「確かに、ここ最近のEXCには疑問を感じてる。エネミーのパワーバランスが崩れ、それでキルされたアバターが復活するなんて、今までは起きなかったから」
「スタークは、それに関する情報を何か掴んでいた……?」
「サスペンスみたいね」
そう言った悠陽は、数秒の間を置いて続けた。
「EXC初心者ながら、チートエネミーを紅きシスターと仕留めた碧きシスター、ミスティ。……澪、何者なの?」
「折角生成したアバターをロストしない、そのために必死になってるだけですよ……」
と澪は答える。正しくは自分と詩応、そして流雫の。尤も彼は、昨日の一件を経ても使い捨て感覚なのだろうが。
悠陽と話すべきはそれじゃない。澪は言った。
「……処刑した時点で、エネミーの役目は終わった。だから、その周囲にいるユーザーのレベルに合わせて、始末できるようにしたのでは……。リワードは入りませんでしたけど」
エネミーの自爆で相討ちとなったルーンは別として、ミスティとフレアは2回、このテのエネミーに勝った。しかし通貨やアイテムと云ったリワードも経験値も全く入らず、ただ戦績に2キルと表示されているだけだ。最弱の最強戦士、それが画面上で確認できる限りの、今の2体のシスターだった。
……居合わせたユーザーに後始末させることで、その正体を少しだけ隠すことができる。特に昨夜は、スタークに接近したから狙われた可能性は高いが、同時にスタークのキルでさえワンサイドゲームだったのに、初心者の自分が倒せたのも不思議だった。それが、澪がこの読みに辿り着いた理由だった。
「……これ以上、面倒なことにならないといいな……」
と呟く澪。平和であってほしい。愛する人たちと仲よく遊びたい。願うのはそれだけだ。
……フリーライダーの初心者が、最初からこう云う厄介な騒動に遭遇している。悠陽にとって、それが気懸かりだった。
フリーライダーと呼ばれる無課金プレイヤーがEXCでよく思われないのは、課金をコンテンツの継続的な運用のための寄付と位置付け、それに積極的じゃないと思われるからだ。そしてそれとは別に、無課金だからこそ手軽にゲームを止められると云うユーザー離れへの懸念も大きい。
自分もフリーライダーだが、それでもヘビーユーザーだと思っている悠陽は、始めたばかりの澪に去られることを怖れていた。今後もリアルで会うことはできるが、EXCが唯一の接点である以上、EXCの世界に繋ぎ止めたい……。
「オーバーフィッティング?」
と、トリコロールのヘルメットを被りながら、スピーカーから聞こえる声をリピートする流雫。愛車のロードバイクに跨がろうとしたタイミングで、スマートフォンが鳴ったのだ。
「エクシスがそうコメントを出してる」
と、PCの画面を見ながらアルスは言った。
日本で起きている騒動は、欧州でも少なからず話題になっている。それについての見解が、公式サイトに載っていたのだ。
「AIが過剰に学習を繰り返した結果、今までズレとして拾わなかったデータまで、突然拾うようになる。それが過学習……オーバーフィッティングだ。その結果、想定外のデータが出力される」
「つまり、パワーバランス異常のエネミー生成もその結果だと?」
「ああ。オペレータとアドミニストレータ、2つのAIが特定の条件下でオーバーフィッティングを起こした結果、予期せぬエネミーが生成され、ユーザーを襲うようになった」
「何故かは知らないけど特定の、問題児とされるユーザーだけを、何故かピンポイントで狙っている。何故かは知らないけど。……表向きは」
と、フランス語を交わす2人。何故か、その言葉が免罪符のように思える。全ては未知の問題として誤魔化せるからだ。
「そうだ。エクシスは今日になって漸く事態を知った。AIの挙動は予測不可能で、こう云う事態も起き得るが、絶対にキルできないエネミーでもない。これもAIが提供するコンテンツの醍醐味として、楽しんでほしい。そう書かれてある」
とアルスは言いながら、学校の準備を進める。
「……昨日のように、僕が囮になるなら倒せるけどね。その度にロストするのは、ミオも辛いだろうけど」
と流雫は言う。感情移入しやすい澪のことだから、あの後詩応に慰められていただろう。それでも、他に戦い方が無いのだ。
「ミオがロストしなければいい、そう云う問題でもないのは判ってるけどね」
「ロストしても死なないが、無尽蔵にロストしていいワケでもないからな」
「……ミオのためにはね」
と流雫は言い、ペダルに足を掛ける。最後にアルスは言った。
「ルナ。AIはブラックボックスだ。だが、人間に勝るブラックボックスは無い。信者と呼ばれる者には気を付けろ」
日本のサイトでも、既にコメントは出ているだろう。無条件に受け入れろ、と遠回しに言われているように思える。だが、当然納得できるユーザーばかりでない。流雫もその1人だ。
AIによるEXCの浄化作用。その裏に隠されているのは、アルスが読むようにAIと云う新たな神の降臨か。全てはMMOの世界に留まる話でしかないハズだが、その枠を突き破る事態が起きる可能性も有る。
人間はブラックボックス、アルスはそう言った。感情が介入する時点で、機械以上に予測不能なものになるからだ。
知的好奇心旺盛なフランス人の言葉は、時折流雫を突き刺し、護る。自身への戒めとして捉え、気を付けていれば、その罠に陥ることは無いからだ。
その言葉を脳に焼き付け、流雫はロードバイクを走らせる。
交差点の信号が変わると、流雫は一度歩道に乗り上げて止まる。澪からの着信だったからだ。通話時間のカウントが始まると同時に、怒りや混乱と戦いつつも、冷静さを失わない少女の声が耳に響く。
「悠陽さんが……襲われた……!!」
澪と悠陽は、駅のホームで別れようとした。夕方の帰宅時間帯で、駅は混み始めている。少しは明るい話題も出さなければ、とは思うが話題が無い。
「またね」
の言葉を残し、互いに踵を返す2人。しかし、不穏な予感がした澪の瞳は悠陽の背を捉える。ロングヘアの少女は厚手のコートを着た男とすれ違い……急に倒れた。
「ゆ……!?」
ボブカットを揺らす澪は、柱の非常ボタンを殴り、地面を蹴る。
「待ちなさい!!」
その声に男は反応しない。居合わせた人は誰も、悠陽の介抱も男の妨害もしない。誰もが自分まで被害に遭うのを避けたいのだ。
あたしが捕まえなければ、そう思った澪は鞄からシルバーの銃を取り出す。銃声こそ聞こえなかったが、銃を持っている可能性も有るからだ。
……あの時点で男に背を向けていたのは、悠陽でなく澪。それなのに、悠陽を狙った。単に近いからか、最初から彼女を狙う気でいたのか。後者、澪はそう読んだ。
男はホームの端で、澪に体を向ける。手には長方形の武器。
「スタンガン……!!」
澪は呟く。
高電圧の電気で相手を麻痺させる制圧手段の一つ。ただ使う場所によっては、気絶させることすらできる。その場に捨て、銃を取り出す危険性も孕んでいる。
……銃は護身専用。それ故、先に銃口を向けてはいけない。それが絶対ルール。刑事の娘は、そのことを誰より判っている。先手必勝が通じないのが、この銃社会で犯人を捕まえるためのセオリーだった。
「彼女に恨みでも有るの!?」
と声を張り上げる澪の懐を狙い、男は突進する。澪は右に避けながら、男へ背を向けないよう意識する。
駅員が悠陽に駆け寄る。遅れて来たもう1人の手には、AEDが握られている。
「心停止……!?」
澪の口から、最悪の予感が漏れた。
スタンガンを胸部に当てると、心臓の動きを司る電気信号が体外からの高電圧に干渉されて脈などの異常を起こし、心臓に影響を与える危険性が指摘されている。最悪の場合は心停止。
AEDが持ち出されたことは、澪に最悪の事態を予感させた。
……悠陽とは知り合って4日目、しかし澪にとっては既にフレンドだ。何時かの流雫と似た暗い陰を抱える少女を、放っていられなかった。
「悠陽さん……!」
自分が口にした名前を引き金に、殺意すら滲ませた眼差しで男を睨む澪。
絶対に捕まえる、そう決めた少女に見せ付けるように男は、懐から銃を取り出した。スタンガンよりも断然危険な凶器。その銃口が澪に向く。しかし、刑事の娘はピンチと思っていない。
「正当防衛、成立」
そう呟いた澪は、しかし口径の大きさでは不利な銃を構えない。左手を飾るブレスレットにキスしながら
「流雫……」
と、最愛の少年の名を吐息交じりの微かな声で紡ぐ。それが、この場所で死なないと誓う儀式。
「デスゲームでも始める気?」
と言った澪に、男は
「アレは神に逆らう女だ……」
と言い返す。
結奈から聞いた話、EXCの原作となったエグゼコードは、社会を司るAIを神格化する教団と、その裏の陰謀に立ち向かう少年と少女のストーリーだ。その主役が、神に逆らう存在だとして蔑まれているのだが、その真似なのか……?
「神?」
「感情を挟まない新たな神が、ついにこの世に現れた」
「……AIのこと……」
と澪は口にする。
自ら学習と出力を繰り返す高度な自律型AIでも、物事を機械的に処理することしかできない。逆に言えば、感情を持たないからこそ、何に対しても公平だ。悪意のコードでトレーニングされていない限り。
最も公平なるもの、つまりAIを神と崇める。そして公平な判断による、世界と個々の安寧を実現させる。そう言っている集団もいる。ただ、フィクションの話だと澪は思っていた。まさか現実にいるとは。
「アレがやっていることは、神への冒涜だ!お前もグルか!」
と男は声を張り上げる。澪は
「グルよ。彼女のフレンドだもの!」
と言い返す。グル認定されて危険が及んでも、味方でいられるなら本望。時々危なっかしい一面も有るが、それが澪の強さの一つだった。
「命を軽視する神は神じゃない!!」
その言葉への返答は、銃声だった。
顔2つ分外れた銃弾に動じない澪。怖くて動けないだけだ、と思った男は近寄りながら
「これは殺人じゃない。救済だ!!」
と銃口を向ける。澪は銃を数センチだけ浮かせ、銃身を掴む。その一部始終を目にした男の頭に、疑問符が生まれる。それ自体がブラフだと気付くには、時間が無さ過ぎた。
シルバーのグリップが男の指の関節を砕く。
「がっ!!ぉっぁ……っ!!」
醜い声を絞り出す男は顔を酷く歪め、前屈みになる。
スライドに護られているとは云え、万が一バレルが変形しては弾詰まりを起こして爆発する。だから、本来鋭器に分類される銃を鈍器として扱うにはバレルを握り、グリップ部分で叩くのがセオリーだ。
「人を殺そうとした罰は受けないとね」
と澪は不敵な表情で言い、再度持ち替えた銃の引き金に触れる。
「ふ……ざけ……っ……」
男が声を上げ、痛みと闘いながら銃を上げようとする。
あのままなら、線路に飛び下りて逃げ切れたハズだ。しかし今は、ホームの上で女子高生相手に苦戦している。このまま逃げられないなら、殺して逃げるだけのこと。
「殺す……!!」
そう声を張り上げた男は澪に銃口を向け、引き金を引く。
5発の銃声が周囲に反響する、しかし痛みに気を取られて照準が合わず、セーラー服を纏った悪魔を仕留めるには至らない。
スライドは動かなくなった。銃弾を使い果たした。男に残された武器は、スタンガンだけだ。澪は咄嗟に銃を構え、引き金を引く。
小さな銃声が2発。男は更に顔を歪め
「ぐぅっ……!!」
と苦悶の声を絞り出す。赤く染まるズボンの上から患部を押さえる、しかし倒れない。ただこれで、戦闘力はほぼ削げた。後は警察官に引き渡すだけ……そう思った澪に、スタンガンが飛んできた。銃身で弾く間に、男は足を引きずりながらホームドアに手を掛け、体を乗り出す。
「待ちなさい!!」
と澪が叫ぶが、男はその反対側へ落ち、線路に転がった。
「待て!!」
と叫び、駅員が線路へ下りる。隣の線路に移った男に向けて、けたたましい警笛が鳴る。澪は思わずその場にしゃがみ、目を閉じて耳を塞ぐ。
……或る意味、後味最悪の結末。1分がその何倍にも感じられる。澪は耳から手を離し、スマートフォンを手にする。今から耳にするだろう音から逃れたい。
「悠陽さんが……襲われた……!!」