その後、私たちは遠山さんの記憶世界から脱出し、月影の館へと帰還した。
「本当にごめんなさい」
館に帰るなり、頭を深々と下げ、謝罪の意を口にしたのは、遠山さんだった。
その頭は、深く下げすぎて、もはや床に刺さりそうなほどだ。表情は隠れていて見えないが、声の震えや、強く握りしめた拳からは、彼が心底後悔していることが窺えた。
「許されないことをしたのは分かってる。僕は、僕の欲望を満たすためにみんなを……利用した」
彼は握りしめた拳に、より一層力を込めた。手のひらに爪が食い込んでいて痛々しい。
「でももし……もし、まだみんなが、僕のことを受け入れてくれるなら、僕の話を聴いてくれないかな。みんなには、本当の僕を知って欲しいんだ」
本当の自分を曝け出すこと。それがきっと、彼なりの贖罪であり、決意表明であるのだろう。
しばらくの沈黙ののち、亜紀が静かに頷く。私たちもそれに異論はなかった。
そんな私たちに応じるように、彼もまた、首を縦に振る。そして1つ、大きく息を吐くと、ぽつり、ぽつりと語り出した。
「僕は、その……世間一般で言うところの、
「クエスチョニング?」
聞き慣れない単語に、亜紀が訊き返す。
「あ、俺、授業で聞いたことある。自分の性とか、好きになる性が決まっていない人たちのことだよね。LGBTQってやつ」
と、梶原くんの補足が入る。
「そう。僕の場合、僕自身の性別の認識が曖昧なんだ。男っていうのも、女っていうのも、しっくりこなくて。その上、性自認が不安定だからなのか、僕、昔から、趣味がその……、女の子っぽいんだ。こんな言い方もあまり好きじゃないけど」
――なるほど、彼の趣味嗜好にはそういう経緯があったのか。
「でも、僕の周りの人たちの目には、そんな僕は「異物」として映ったみたいだ。僕には「男らしい」人間であって欲しかった。みんなが僕の記憶で見た通りだよ」
「そんな……」
私たちは無意識のうちに、彼の記憶を思い出した。
絶え間なく浴びせられる拒絶の言葉、嘲笑……。
彼の心を、長きにわたって押さえつけてきたもの。
「だからさっき、藤本さんが僕を、僕の「好き」を個性だって言ってくれた時、本当に嬉しかった。心に絡まってた糸が、解けたような気持ちになったんだ」
「でも……、大勢と違うことは怖くて、なんだか悪いことをしているようで……。自分を突き通す覚悟が、僕にはない」
彼はそういうと、項垂れた。
「…………」
この人は、このまま、本当の自分を隠して生きていくのだろうか。やっと、今の自分を認めることができたのに……。
「私、色々な音楽を聴くんです」
「え?」
――しまった。
ろくに考えも練らずに、頭によぎった答えが口をついて出てしまった。ほぼ、衝動的な行動だった。周りを見ると、みんなも突然のことに驚き、こちらを向いている。
――っ! もう、どうにでもなれ!
「私っ……、音楽に関しては雑食で、アーティストとかジャンル関係なく、色々なものを聴くんです。好きだなって思ったものを。それは……、えっと、どうしてかっていうと、新しい「好き」を見つけるためだと思うんです」
遠山さんが顔を上げ、こちらを凝視する。
「最近だと、70年代のロックバンドの曲なんかをよく聴きます。周りにはそういう人、いないんですけど、好きな曲を見つけると、幸せな気分になります。だから……」
私の言葉は、一旦途切れた。絡まった思考を解くために。話すことに慣れない私には、これが精一杯だった。
「だから、なにも、何かに囚われた価値観の中で、好きなものを見つけようとする必要は無いんじゃないですか? 好きなものを「らしさ」に囚われずに追い求めることが、悪いことだなんて、私は到底思えません」
――よかった、言えた。
そう安心する反面、彼に伝わったかと、心配になり始め、恐る恐る遠山さんの顔を見る。
彼は、面食らったような顔で、呆然としていた。
一瞬、見当違いなことを言ってしまっただろうかと思い、心臓が大きく脈を打った。
しかしそれは杞憂だったようで……
彼の表情はみるみるうちに変化して、
――やがて、いつものように柔和な笑みを浮かべ、私に応えた。
◇
翌晩、私は1人、まだ誰もいない館を訪れた。というのも、まだ見つかっていない私の記憶を探すためだ。それに、以前見つけた持ち主不明の記憶――CDのことも気になる。それら謎を解き明かす為に、さらなる手がかりが必要なのだが……。
喰魔化の問題も解決のしようがなく、大々的な探索がしづらい状況のため、仕方なく1人で探し続けていた。
――他の人たちに秘密っていうのも後ろめたいけど……。
そう考えながらも、私は2階の空き部屋の扉を開けた。
「あ……」
するとそこには、不自然に床に転がるサックスが。
今まで、館は一通り探索したが、こんなものは無かったはずだ。
――もしかしたら……。
私はしゃがみ込み、それに手を伸ばした。
――見えてきたのは、小さなステージ。その上には顔のぼやけた男性が1人、手にしたサックスと共に立っている。
観客席には、私と、もう1人――女性だけが座っていた。
演奏が終わったのか、男性がお辞儀をする。しかし、観客から贈られるはずの拍手も、歓声も無かった。
私を除けば、唯一の観客だった女性も
――いつのまにか消えてしまった。
◇
――っは!!
記憶はそこで途切れた。楽器関係のことなら、私の記憶かもしれないと期待したが、やはり身に覚えがない。
多少がっかりしながら、部屋の時計を見ると、
……22時。
そろそろみんなが来る時間だ。私は部屋を出ると、急いで広間へと向かった。
◇
みんなが1人、また1人と、館に集まっていく間も、私はさっき見た、観客の女性のことを考えていた。
――あの人、CDの記憶で見た……。
そう、以前記憶の中で見た、男の子の母親に髪型や背格好が酷似しているのだ。
それから、男の子が見ていた楽器店のショーケースの中身も、サックスだった。
――やはり、CDとサックスの記憶は繋がっている。
その時、2階からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。驚いて上を見上げると、吹き抜けに、息を切らした亜紀の姿があった。
「助けてっ! 灯子が……灯子がいなくなったの!!」