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第25話 名前

――――――



 どれほど歩いただろうか。空が白み始めた頃、私は足を止めた。


「ここに来るのも久しぶりだな」


 住宅街を見下ろす小高い丘の上。昔一度、親に連れられて来たこの場所は、あの時と対して変わらない姿でそこにあった。私の原点。始まりの場所。この景色を見るだけで、頭が空っぽになって、新鮮な気持ちになれる。思考が自由になる……はずだった。

なのにどうしてだろう。今はどうしようもなく息が苦しい。何かに囚われたかのように不自由だ。


「忘れたいのに……。あの家も、館のことも」


 逃げ続けて来た現実が、どこまでも追いかけてくる。これじゃあ、ここもあの家と変わらないじゃないか。

――どこにも戻れない。逃げ続けて来た私にはもう、居場所はない。


「    」


 煮凝にこごりみたいに固まって、つっかえた気持ちを、私はそっと飲み込んだ。



――――――



「そっちはどうですか? 見つかりました?」


 シロにオルゴール型通信機をもらった翌日の昼間、私たちは早速、灯子の捜索に乗り出した。遅い時間まで捜せるよう、現実での捜索は、成人済みの牧さんと遠山さんが引き受けてくれた。他の3人は変な話だが、昼寝中だ。灯子を助けるというのに呑気なものだけど、灯子の記憶を探るために館に来る必要があるから仕方がない。

 冒頭に戻り、梶原くんが、オルゴールを持って現実世界に戻った牧さんと遠山さんに話しかける。

オルゴールのハンドルを回すと館の館内放送で、現実世界からの声が聞こえる仕組みだ。もちろん、こちら側の声も2人に聞こえるようになっている。

しかし、朗報が舞い込む訳でもなく、落胆した2人の声が、ノイズ混じりに聞こえるばかりだった。


「やっぱり、館で灯子の記憶を見つけないと難しいか」


居場所の見当すらつかないようでは捜しようもない。

そろそろこちらも記憶探しを始めなければ。



 記憶探しを始めて1時間。めぼしいものは見つからず、探し漁っていた引き出しから視線を外すと、なにか熱心に本棚をいじる亜紀の姿を捉えた。


「何かありそう?」


尋ねてみると、亜紀は本棚から取り出した1冊の本から目を離さずに答える。


「うーん……。今のところは無いけど、灯子、前に言ってたんだ。本が好きで、自分でも書いてるんだって」


私が言ったってことは内緒にしてね、と付け足す亜紀。


「それで本棚か」


「うん。何か見つかるんじゃないかと思って」


 そう言い終わらないうちに、ペラペラと本をめくっていた亜紀の手元から何かがすべり落ちた。亜紀がそれを拾い上げてみると、それは1枚の栞だった。手作りらしく、画用紙に、押し花の貼ったのをラミネートした物だ。挟まれているのは四葉のクローバー、いわゆるシロツメクサと呼ばれる植物だ。


「これ、灯子がよく読んでる本に挟まってた……!」


 それなら、これが灯子の記憶にまつわるヒントに違いない。どうやら亜紀の推測は当たっていたようだ。

私が触れると、記憶を呼び起こしてしまうので、亜紀に持っていてもらうことにした。



「これが春城さんの記憶のヒント?」


 梶原くんに事情を説明し、3人で栞を囲む。


「灯子の許可なく記憶を覗くのは気が引けるけど……」


「それで灯子が見つかるならそれでいい!」


私たち3人は顔を見合わせ、頷く。


「いくよ……」


私が栞に手を触れると、もう見慣れた白い光が、私たちを包み込んだ。



 ――なんだろう。今までと違う。これまでは記憶を俯瞰して見ていたはずなのに、今回はやけに臨場感ある視点だ。それに身体からだが自分の意思で動かない。おまけに亜紀も梶原くんもいない。

私の視界には、ひらけた場所が映る。小高い丘の上、住宅街を見渡せる場所。足元にはシロツメクサが群生している。


 すると、私の身体が、私の意思に反して動き出した。


「わっっっ!」


突然駆け出した身体についていけず、転びそうになりながら、何とか体勢を立て直す。


 そのとき、私はふと気づいた。


――視界が低い。


そうなのだ。いつもの視線の高さじゃない。


……背の低い身体。自分の思い通りにならないこの身体。


「私の身体じゃない……!」


 その事実に気づいたとき、その身体が足を止めた。それと同時に、目の前で座り込む小さな人影に気づいた。その手には小さなメモ帳と万年筆が握られている。


「こんにちは。あなた、名前は?」


また、口が勝手に動き、子供の声で、意図しない言葉が口を出ていった。


 人影は私に気づくと、ゆっくりこちらを振り返って言った。



「……灯子。春城灯子」

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