目を覚ましたのは、見覚えのない白い部屋の中だった。
天井も壁も、シーツも白。だが病院のような無機質さとは違い、どこか子供部屋のようなぬくもりと静けさがあった。
詩旺埋は、まばたきを一度してから、ゆっくりと起き上がった。
体に痛みはなかったが、空気が変だった。
“匂い”がない。まるで全ての五感が一枚ずつ、フィルター越しになってしまったような感覚。
(ここ……どこ?)
部屋の中央には、小さな木製の机と椅子。
その上に置かれていたのは、一冊のスケッチブックだった。
彼女はそれを手に取り、表紙をめくった。
最初のページに、こう書かれていた。
「ようこそ、“忘れられた者”の部屋へ」
詩旺埋は唇を噛み締める。
(……あれ?)
何かが、おかしい。
自分の名前が――
思い出せない。
(……わたし……誰?)
彼女は手元のスケッチブックを抱えたまま、部屋を出た。
白い廊下が続いている。壁にも床にも、何一つ目印がない。
ただ、少し歩いた先に、ひとつだけ“音”が聞こえていた。
「……詩旺埋?」
その声は――佐紀子だった。
「佐紀子……!」
とっさにその名が口からこぼれるが、それと同時に、自分の名が思い出せないという事実が改めてのしかかってきた。
佐紀子は、やせ細った体で立っていた。目元にはうっすらと涙の跡。
「……ここに、長くいたせいで、名前を忘れそうだった。でも、陸人たちのことを思い出して、やっと、君の声が届いた」
「……ここって、どこ?」
「“境界の部屋”って呼ばれてるらしい。“向こう”に帰れなくなった人が閉じ込められる場所。“忘れられたもの”はここで、名前と記憶を失って、ただ部屋の一部になっていくんだって」
その言葉に、詩旺埋――名前を思い出せない彼女の背筋が凍る。
「でも、まだ間に合う」
佐紀子が力強く言った。
「私たちのことを“誰かが覚えてる”うちは、ここから出られる。“向こう”との接続が残ってる今なら、きっと……!」
そのとき、廊下の奥から“笑い声”が聞こえた。
「うふふふふ……」
それは、か細く、揺らぎながらも“この空間の主”を思わせる何かだった。
「隠れて!」
佐紀子が手を取り、彼女を近くの部屋へ引き込む。
部屋の中は、誰かの少女時代を模したかのような空間。
古い人形、壊れたオルゴール、飴の包み紙。
部屋の中央に置かれた鏡台が、一際存在感を放っていた。
「この鏡、昨日も……」
思い出しかけて、言葉を飲み込む。
鏡の中に――もう一人の自分が映っていた。
目が合った瞬間、鏡の中の“彼女”が口を開いた。
「あなた、名前を忘れたの?」
「……!」
「なら、わたしが教えてあげる」
鏡の中の彼女は、少しずつ笑いながら、詩旺埋の名前を囁いた。
しかしその声を遮るように、佐紀子が手を伸ばし、鏡を布で覆う。
「だめ! それに教えてもらったら、“向こう”に引き込まれる!」
鏡の中の“詩旺埋”が、口元だけでゆっくり笑った。
「この場所に残っても、あんたは“誰”でもなくなる。今しかないよ?」
詩旺埋は、スケッチブックを開いた。
そこには、名前も顔もないはずの“自分”が描かれていた。
髪型、服装、表情――そして、隣には陸人たちの姿。
ページの下に、かすかに名前が書かれていた。
「……し、お、ま、い」
その瞬間――彼女の記憶が、一気に戻ってきた。
「……詩旺埋(しおまい)!!」
叫んだ瞬間、白い世界が砕け散った。
光が彼女を包み、佐紀子の手が強く握り返してくる。
「帰るよ……みんなのところへ!」
目を覚ましたとき、彼女たちは廃屋の床に倒れていた。
陸人たちが、涙ぐみながら囲んでいた。
「戻ってきた……本当に、戻ってきたんだ!」
詩旺埋と佐紀子は顔を見合わせ、そっと笑った。
だが、部屋の隅に残された“鏡”だけが、静かに、じっと、笑っていた。
終