週明けの月曜日。朝のSHR前、教室は平和そのものに見えた。
「ノート、忘れてないよね?」
紗代子が鼓大郎に声をかける。
「もちろん! 今週はちゃんと宿題やったからな」
そんな会話の中、詩旺埋がいつもの席に静かに座っていた。
だが、彼女の机の上に置かれたノートには――何かが違和感を放っていた。
陸人は、その“違和感”にすぐに気づいた。
彼女が使っているのは、普通のスケッチノートではない。見慣れたはずの表紙に、まるで鉛筆で直接描いたような手描きの目――それが浮かび上がっているのだ。
(……あれ、前からあんなデザインだったっけ?)
視線に気づいたのか、詩旺埋が顔を上げて微笑む。
「どうかした?」
「そのノート……新しいやつ?」
「ううん。前から持ってたやつ。……中、見てみる?」
彼女は、何のためらいもなくノートを開いた。
中には――文字が一切ない。
ただひたすら、“何かを見て描いた”としか思えない鉛筆画が並んでいた。
鏡の中の笑う少女。
開かない扉の裏側。
そして、カーテンの向こうで膝を抱えている“誰か”。
それぞれの絵には、タイトルも説明もない。
だが、そのひとつひとつが、見る者の中に“自分が忘れていたはずの記憶”を呼び起こすような、妙な迫力を持っていた。
「……これ、いつ描いたんだ?」
陸人が尋ねると、詩旺埋は少しだけ目を伏せた。
「――“あそこ”にいた間、ずっと見えてたの。だから……帰ってきたら、消える前に描こうって思った」
「でも、こんなに……はっきり?」
「むしろ、前よりよく見える。今も、時々“見える”から」
その言葉に、空気が変わった。
「今も……って、おい、マジかよ」
克宣が椅子を引きながら立ち上がる。
「じゃあ、お前まだ完全に戻ってきてないってこと?」
「違う。ただ、“見えるようになった”だけ。向こうとこっちの“隙間”に、目が慣れたのかもしれない」
「それ、やばくない?」
鼓大郎が口に出す。
「“見える”人間って、引き込まれるって噂じゃん。自分では気づかないまま、また境界を越えちゃうって……」
詩旺埋は、肩をすくめるように笑った。
「でも、誰かが“見て記録する”役をしなきゃ、また誰かが同じ目に遭うんだよ。……私は、見えるなら描く。それだけ」
彼女の手が、さらさらとノートに鉛筆を走らせていた。
描かれていくのは、まだ見ぬ“何か”。
その背後、ふと日菜が声を上げた。
「……このページ、どこかで見た気がする……」
それは、黒い影が校舎の非常階段を降りていく絵だった。
背景には、確かに校舎の屋上と給水タンク――そして、“非常扉の鍵が開いた音”の文字。
「これ……昨日、開かないはずの非常扉が、誰にも触られてないのに開いたって、SNSで騒ぎになってたやつ……」
海夏人がすぐにスマホで写真を見せた。
そこには、同じ場所、同じ構図――そして、絵と一致する“黒い何か”が映っていた。
「詩旺埋、これは……描いたんじゃなくて、“先に見た”のか?」
彼女はうなずいた。
「“見る前に見た”感じ。……そういうの、増えてるの。たぶん……“向こう”がこっちを“見てる”だけじゃなく、少しずつ、寄ってきてる」
「……どうすれば止められる?」
陸人の声は低く、真剣だった。
詩旺埋は、しばらく黙ったあと、こう言った。
「“向こう”が一番嫌がるのは、“忘れないこと”。記録して、語って、形にすること。だからこのノート、最後のページまで埋めるまで、私は止めないよ」
そう言って彼女が閉じたノートの背表紙――
そこには新たに浮かび上がった文字が、こう書かれていた。
「最終ページに達した者は、“選ばれる”」
その言葉の意味を、誰もまだ理解していなかった。
終