夜。
時計は23時47分を示していた。
街は寝静まり、住宅の明かりもまばらになっていく中、詩旺埋の部屋のカーテンはまだ閉じられていなかった。
机に広げられているのは、例のスケッチノート。
鉛筆はすでに何本も削り落とされ、消しゴムのカスが紙の隅に寄っていた。
「……あと一枚」
残されたページは、たった一枚。
そのページだけがなぜか、最初から紙質が異なっていた。薄く、透けていて、他のページとは明らかに違う“質感”を持っている。
(これを描き切ったとき、何が起こるんだろう)
思えば、最初は「忘れたくないから」描いていた。
だけど今は――「見えてしまうから」描かざるを得ない。
ノートの最後のページは、まだ“白”のままだが、何かがすでに“裏から書かれている”ような気配がする。
その時――窓の外で、“何か”が動いた。
「……っ」
反射的に詩旺埋が顔を上げる。
カーテンは閉まっていない。だが、そこには何もいないように“見える”。
しかし、見えていないものほど、こちらを見ている。
不意に、ノートの最後のページが“自動的に”めくられた。
「……!」
そこには、彼女がまだ描いていないはずの絵が、すでにあった。
学校の教室。
夜の校舎。
ひとつの机に広げられたスケッチブック。
そして――その背後に立つ、目のない少女。
その少女が、ページの隅でこう書いていた。
「あなたに描かれる前から、私はここにいる」
詩旺埋の背中を冷たい汗が流れる。
(私……描いてたんじゃない。描かされてた?)
ページの下、余白には自分の文字でこう記されていた。
「最終ページに達した者は、“選ばれる”。それは“観察者”から“媒介者”への移行を意味する。」
「ようこそ、“境界の書き手”へ」
その瞬間、ノートの紙が脈を打った。
まるで心臓の鼓動のように、ページが“生きている”と訴えてくる。
詩旺埋の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
気づけば、彼女は自室にいながら、教室の机に座っていた。
夜のはずなのに、チャイムが鳴る。
黒板には、ひとつの言葉。
「出欠を取ります。“残っている人”だけ、手を挙げて」
その言葉のあと、机の横の“窓”がすっと開いた。
風もないのに、カーテンが揺れる。
「……描かなきゃ」
詩旺埋の指が、無意識に鉛筆を握り、最終ページに“新たな絵”を描き始める。
しかし、彼女の手ではない。
鉛筆は“勝手に”動いていた。
描かれていくのは――クラスメートたちの顔。
陸人、日菜、海夏人、克宣、鼓大郎、紗代子、佐紀子。
そして、最後に、鏡の中の笑う少女。
その笑顔がページいっぱいに広がった瞬間、ノートが“閉じた”。
ぴたり、と現実が戻る。
気づけば、詩旺埋は机に突っ伏していた。
だが――彼女の手元にあったノートは、白紙だった。
いや、“中身が全部抜け落ちていた”。
ページはある。だが、すべてが空白。
「……うそ」
その時、部屋のドアがゆっくり開いた。
誰もいないはずの家。
だが、開いたドアの奥から、かすかな足音がする。
詩旺埋はノートを握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
ページは白紙――だが、“記録”は終わっていない。
次の夜、“新しい絵”が描かれる。
終