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第八章 最後のページが書き変わる夜

 夜。

 時計は23時47分を示していた。

 街は寝静まり、住宅の明かりもまばらになっていく中、詩旺埋の部屋のカーテンはまだ閉じられていなかった。

 机に広げられているのは、例のスケッチノート。

 鉛筆はすでに何本も削り落とされ、消しゴムのカスが紙の隅に寄っていた。

「……あと一枚」

 残されたページは、たった一枚。

 そのページだけがなぜか、最初から紙質が異なっていた。薄く、透けていて、他のページとは明らかに違う“質感”を持っている。

(これを描き切ったとき、何が起こるんだろう)

 思えば、最初は「忘れたくないから」描いていた。

 だけど今は――「見えてしまうから」描かざるを得ない。

 ノートの最後のページは、まだ“白”のままだが、何かがすでに“裏から書かれている”ような気配がする。

 その時――窓の外で、“何か”が動いた。

「……っ」

 反射的に詩旺埋が顔を上げる。

 カーテンは閉まっていない。だが、そこには何もいないように“見える”。

 しかし、見えていないものほど、こちらを見ている。

 不意に、ノートの最後のページが“自動的に”めくられた。

「……!」

 そこには、彼女がまだ描いていないはずの絵が、すでにあった。

 学校の教室。

 夜の校舎。

 ひとつの机に広げられたスケッチブック。

 そして――その背後に立つ、目のない少女。

 その少女が、ページの隅でこう書いていた。

「あなたに描かれる前から、私はここにいる」

 詩旺埋の背中を冷たい汗が流れる。

(私……描いてたんじゃない。描かされてた?)

 ページの下、余白には自分の文字でこう記されていた。

「最終ページに達した者は、“選ばれる”。それは“観察者”から“媒介者”への移行を意味する。」

「ようこそ、“境界の書き手”へ」

 その瞬間、ノートの紙が脈を打った。

 まるで心臓の鼓動のように、ページが“生きている”と訴えてくる。

 詩旺埋の視界が、ぐにゃりと歪んだ。

 気づけば、彼女は自室にいながら、教室の机に座っていた。

 夜のはずなのに、チャイムが鳴る。

 黒板には、ひとつの言葉。

「出欠を取ります。“残っている人”だけ、手を挙げて」

 その言葉のあと、机の横の“窓”がすっと開いた。

 風もないのに、カーテンが揺れる。

「……描かなきゃ」

 詩旺埋の指が、無意識に鉛筆を握り、最終ページに“新たな絵”を描き始める。

 しかし、彼女の手ではない。

 鉛筆は“勝手に”動いていた。

 描かれていくのは――クラスメートたちの顔。

 陸人、日菜、海夏人、克宣、鼓大郎、紗代子、佐紀子。

 そして、最後に、鏡の中の笑う少女。

 その笑顔がページいっぱいに広がった瞬間、ノートが“閉じた”。

 ぴたり、と現実が戻る。

 気づけば、詩旺埋は机に突っ伏していた。

 だが――彼女の手元にあったノートは、白紙だった。

 いや、“中身が全部抜け落ちていた”。

 ページはある。だが、すべてが空白。

「……うそ」

 その時、部屋のドアがゆっくり開いた。

 誰もいないはずの家。

 だが、開いたドアの奥から、かすかな足音がする。

 詩旺埋はノートを握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。

 ページは白紙――だが、“記録”は終わっていない。

 次の夜、“新しい絵”が描かれる。

 終


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