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第九章 音のしないチャイムが鳴ったら

 翌朝、教室には奇妙な静けさが漂っていた。

 生徒の人数が少ない――わけではない。皆いる。笑って話している。普段通りに見える。

 だが、“音”がなかった。

 チャイムは鳴っているはずなのに、聞こえなかった。

「……今、チャイム鳴った?」

 陸人の言葉に、鼓大郎が首をかしげる。

「え? 鳴ったろ、さっき」

「でも、聞こえなかった。誰も動かなかった。……なんか、“時間”が始まった実感がなかった」

 そのとき、詩旺埋が教室に入ってきた。

 彼女はスケッチノートを持っていなかった。

 いや、“持っている”ようにも見えるが、腕に抱えているのは――ただの空気。

 だが、その空気を見て、海夏人がごくりと喉を鳴らした。

「……それ、見える」

「えっ?」

「詩旺埋……“持ってる”んだよ、ノート。俺には見える。けど、輪郭が透けてる。……まるで、“存在しちゃいけないもの”みたいに」

 詩旺埋は何も答えなかった。

 ただ、ゆっくりと席につき、静かに黒板を見つめる。

 黒板には、昨日までなかった“言葉”が書かれていた。

「音のしないチャイムが鳴ったら、まだ帰ってはいけません」

 誰が書いたか、誰もわからない。

 教師さえも、それに触れようとしない。

 その文字は、時間が止まったように、朝の光を浴びて、じっとこちらを見つめていた。

 昼休み。

 日菜は詩旺埋にそっと近づき、小声で訊ねた。

「ねえ……あんた、昨日、何か見たんでしょ?」

「……最後のページ、“見せられた”。その結果、“見えるもの”が変わった」

 詩旺埋の声は小さく、けれど確実に“あちら側”と繋がっていた。

「今の学校、“重なってる”。現実の校舎と、“もうひとつの層”が」

「層……って?」

「音が消えるのは、“層の切れ目”に近づいたサイン。たとえば……あのチャイム。“聞こえない”のは、私たちが“こっち側”に足を踏み入れた証拠」

「じゃあ……戻れないの?」

「まだ、完全には越えてない。けど、遅かれ早かれ、全員が境界を超える。“その日”が近づいてる」

 そう言って詩旺埋は、机の中から“白紙のノート”を取り出した。

「描いてない。何も。でも――“浮かび上がってくる”。文字でも絵でもない、ただの“気配”が」

 彼女の言葉に、日菜の唇が震える。

「それって……“この中の誰かがもう向こうにいる”ってこと?」

 詩旺埋は、はっきりとうなずいた。

「……私たちの中に、もう“帰ってきてない誰か”が紛れてる」

 その言葉の意味を、理解できた者はいなかった。

 だが、陸人は無言で周囲を見渡し、かすかに眉をしかめた。

(誰だ……? 誰が、“違う”んだ?)

 その日の放課後。

 非常階段を上る生徒の姿が、映像としてSNSに投稿された。

 制服を着た女子――顔はブレていて見えない。

 だが、最後の一コマ。

 校舎の最上階、誰もいないはずの給水塔の隅に、“カーテンが揺れている”のが、映っていた。

 その動画を見た詩旺埋が、ぽつりと呟いた。

「……まだ、窓は開いてる」

 終


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