午後3時42分。
校舎の五階、普段誰も近寄らない“放送室”の前に、詩旺埋と陸人、海夏人の3人が立っていた。
鍵はかかっていない。
古びた取っ手を回すと、音もなく扉が開く。
中は埃っぽく、椅子がひとつ、録音機材と古いマイクが置かれていた。
放送機器の赤いランプは点灯しておらず、誰かが使った形跡も見えない。
だが――マイクの先には、確かに“何かが”座っていた痕跡があった。
椅子の座面には、くっきりと人の形に沈んだ跡。
そして机の上には、一本のチョーク。
本来ここには置かれていないはずの“教室の黒板用チョーク”。
「ここで……“彼女”が何かを話したのかもしれない」
詩旺埋がマイクの前に座る。
静かにスイッチを入れると、スピーカーはノイズ音とともに“録音の再生”を始めた。
……ザァ……ザ…………
そして、
「――きこえますか?」
誰かの、少女の声。
けれどその声は、現在の誰の声とも一致しなかった。
「ここは、誰のもの? 私の席はどこ? 名前を呼ばれたことは、一度もなかったんです」
録音は、まるで“感情”の断片そのものだった。
「ねえ、記録されるって、嬉しいことじゃなかったの? “描かれる”って、“残される”って、そういうことだったんじゃないの?」
「……なのに、なんで私だけ、“消された”の?」
そこまで聞いたところで、録音がぷつりと切れる。
しんとした部屋の中で、詩旺埋がそっとマイクに手を伸ばし、自分の声で呟いた。
「……ごめんね。私、あなたを……最初に描いた。でも、名前をつけなかった。だから、あなたは……存在できなかった」
その瞬間、モニターに何も映していなかった録音機器が、突如再起動した。
画面に浮かんだのは――
「存在“できなかった”のではない。今、“存在している”のだ。」
「おまえたちの世界の中に。」
その表示に、海夏人が震えた声で言う。
「これ……向こうから、“メッセージを返してる”。人の声じゃない、意思そのものが“こちらに残ってる”」
「じゃあ、“彼女”は――このマイクを通して、“今もここにいる”ってことか?」
陸人の言葉に、詩旺埋はうなずく。
「放送室……“学校全体に伝える声”の場所。つまり、“自分の存在を刻み込むための最終地点”。――彼女はここに、“名前が欲しい”って記録を残してる」
机の引き出しを開けると、ノートが一冊入っていた。
中は空白――だが、最後のページにだけ、かすかな文字があった。
「わたしのなまえを、あなたがかいて」
詩旺埋の手が震える。鉛筆を取る。
「……でも、書いた瞬間、“彼女”が実体を持つ可能性もある」
「それが、危険だとしても?」
海夏人の声は鋭かった。
詩旺埋は、ゆっくりと筆を走らせる。
「紬」――つむぎ。
そう書いた瞬間、放送室のスピーカーから“ありがとう”という声が響いた。
優しく、微かに笑っていた。
そして、スピーカーが焼けるような音を立てて壊れた。
午後4時。
校舎全体の照明が、ゆっくりと明滅し始める。
校内放送のスピーカーが、一斉にノイズを吐き出したあと、止まる。
誰も、理由を知らなかった。
だがその日以降、窓際の空席には、誰も座ろうとしなくなった。
ただ――そこには、かすかに微笑んだ“紬”の姿が、窓の外に、確かに映っていた。
終