目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第十一章 放送室のマイクは誰の声を拾ったのか

 午後3時42分。

 校舎の五階、普段誰も近寄らない“放送室”の前に、詩旺埋と陸人、海夏人の3人が立っていた。

 鍵はかかっていない。

 古びた取っ手を回すと、音もなく扉が開く。

 中は埃っぽく、椅子がひとつ、録音機材と古いマイクが置かれていた。

 放送機器の赤いランプは点灯しておらず、誰かが使った形跡も見えない。

 だが――マイクの先には、確かに“何かが”座っていた痕跡があった。

 椅子の座面には、くっきりと人の形に沈んだ跡。

 そして机の上には、一本のチョーク。

 本来ここには置かれていないはずの“教室の黒板用チョーク”。

「ここで……“彼女”が何かを話したのかもしれない」

 詩旺埋がマイクの前に座る。

 静かにスイッチを入れると、スピーカーはノイズ音とともに“録音の再生”を始めた。

 ……ザァ……ザ…………

 そして、

「――きこえますか?」

 誰かの、少女の声。

 けれどその声は、現在の誰の声とも一致しなかった。

「ここは、誰のもの? 私の席はどこ? 名前を呼ばれたことは、一度もなかったんです」

 録音は、まるで“感情”の断片そのものだった。

「ねえ、記録されるって、嬉しいことじゃなかったの? “描かれる”って、“残される”って、そういうことだったんじゃないの?」

「……なのに、なんで私だけ、“消された”の?」

 そこまで聞いたところで、録音がぷつりと切れる。

 しんとした部屋の中で、詩旺埋がそっとマイクに手を伸ばし、自分の声で呟いた。

「……ごめんね。私、あなたを……最初に描いた。でも、名前をつけなかった。だから、あなたは……存在できなかった」

 その瞬間、モニターに何も映していなかった録音機器が、突如再起動した。

 画面に浮かんだのは――

「存在“できなかった”のではない。今、“存在している”のだ。」

「おまえたちの世界の中に。」

 その表示に、海夏人が震えた声で言う。

「これ……向こうから、“メッセージを返してる”。人の声じゃない、意思そのものが“こちらに残ってる”」

「じゃあ、“彼女”は――このマイクを通して、“今もここにいる”ってことか?」

 陸人の言葉に、詩旺埋はうなずく。

「放送室……“学校全体に伝える声”の場所。つまり、“自分の存在を刻み込むための最終地点”。――彼女はここに、“名前が欲しい”って記録を残してる」

 机の引き出しを開けると、ノートが一冊入っていた。

 中は空白――だが、最後のページにだけ、かすかな文字があった。

「わたしのなまえを、あなたがかいて」

 詩旺埋の手が震える。鉛筆を取る。

「……でも、書いた瞬間、“彼女”が実体を持つ可能性もある」

「それが、危険だとしても?」

 海夏人の声は鋭かった。

 詩旺埋は、ゆっくりと筆を走らせる。

「紬」――つむぎ。

 そう書いた瞬間、放送室のスピーカーから“ありがとう”という声が響いた。

 優しく、微かに笑っていた。

 そして、スピーカーが焼けるような音を立てて壊れた。


 午後4時。

 校舎全体の照明が、ゆっくりと明滅し始める。

 校内放送のスピーカーが、一斉にノイズを吐き出したあと、止まる。

 誰も、理由を知らなかった。

 だがその日以降、窓際の空席には、誰も座ろうとしなくなった。

 ただ――そこには、かすかに微笑んだ“紬”の姿が、窓の外に、確かに映っていた。

 終


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?