午前8時20分。
朝の昇降口に、クラスの空気とは明らかに異質な空気が漂っていた。
「……まだ開いてないのか?」
克宣が眉をひそめて立っていたのは、二年四組の“ロッカー列の一番端”。
誰も使っていないはずのそのロッカー――通称「開かずのロッカー」。
「いや、誰も触ってないはずなのに、昨日の放課後……“カタン”って、中から音がしたっていう噂が」
鼓大郎がそっと囁く。
詩旺埋はその場に到着するなり、ロッカーの前に立ち、表面を軽く指でなぞった。
「……この金属、呼吸してる」
「……は?」
日菜が困惑する。
「まるで生き物みたいに、熱と冷たさが交互に伝わってくる。……それに、このロッカー、“鍵がない”」
「え、でもこの学校のロッカー、普通に南京錠式じゃ――」
海夏人が言いかけて止まった。
そのロッカーの鍵穴には、何もなかった。穴すら存在していない。ただの“鉄の板”。
「誰も開けたことがない。けど、誰かが中に“入っていた痕跡”だけが、毎年残ってる」
陸人が静かに言った。
実際、ロッカーの前の床には、微かに誰かの“足跡”のような埃のズレ。
さらに、扉の隙間からは、かすかに“紙”の角が覗いていた。
「これは……?」
詩旺埋が慎重にその紙片を引き抜いた。
黄ばんだ古い紙。そこに、手書きでこう書かれていた。
「わたしはまだ、ここにいます。
でも、名前を呼ばれないから、出られません。
誰か、“出席を取ってください”」
「これ、“紬”の……?」
紗代子がぽつりとつぶやく。
だが、詩旺埋は首を横に振った。
「違う。これ、“紬の前に描かれた誰か”」
空気が止まったように静まり返る。
「つまり、紬だけじゃないってことか……?」
「ううん。紬は“初めて名を与えられた者”。それ以前にも“描かれたけど名前を与えられなかった存在”が……何人もいた」
海夏人の声が低く響く。
「それが、このロッカーに閉じ込められてる……?」
その瞬間、ロッカーの中から――“ノック音”が聞こえた。
コン……コン……ココン。
「嘘だろ……」
誰もが声を失った。
だが、詩旺埋はまっすぐに立ち、ノートを取り出した。
すでに透明だったはずのノートが、その瞬間、黒く染まりはじめた。
そして、新しいページが――開いた。
そこには、誰かが中から“視た風景”が描かれていた。
狭い空間。足元に積まれた何十冊ものノート。
そしてそれを見下ろす“窓の外”――“生徒たち”の靴。
「……中に、“ずっと見ていた子”がいる」
詩旺埋は、ノートの余白にゆっくりと文字を書き始めた。
「あなたの名前は……」
ペンが止まる。
「……思い出せない」
その瞬間、ロッカーの隙間から、黒い影が――“外へ”染み出した。
まるで、忘れられた声が形を取りはじめたように。
そして影は、床を滑るように移動しながら、黒板の前までたどり着く。
そこに浮かび上がった文字は、たった一文。
「出席番号“0番”」
その番号に、詩旺埋の背筋が凍った。
「……この子、“存在すら記録されてない”」
そして――0番が、ゆっくりと首をかしげた。
「“私”の名前も、あなたが描いたんでしょ?」
詩旺埋は震える手で、ノートに再びペンを走らせた。
だが、何を書いても――名前にならない。
ひらがなも、漢字も、すべて“読めない文字”に変換されてしまう。
「……これ、“拒絶されてる”。私の手じゃ、もう“名前を与えられない”」
そのとき、ロッカーの中から、もう一枚の紙が落ちた。
そこには、こう書かれていた。
「“あなたたち”が“存在の証明”を拒む限り、私は“ここに居続ける”。
でも――いずれ、順番が来る。
出席番号“1番”から、“最後”まで。」
その意味を、陸人たちはまだ知らない。
だが、確実に“何か”が、クラスの中に入り込んでいた。
終