「お嬢様、ロシュフォール家からの使者がお見えです」
シルヴィアの声に、イリスは手元の刺繍から顔を上げた。舞踏会から一週間が経った午後のこと。窓からは柔らかな春の日差しが差し込み、庭の薔薇が風に揺れているのが見えた。
「ロシュフォール家?」イリスは針を置き、背筋を伸ばした。「父上はご存知?」
「はい」シルヴィアはうなずいた。「侯爵様はご不在ですが、事前に許可をいただいております。セドリック様からの手紙をお持ちしたとのことです」
イリスの心拍が少し速くなった。舞踏会以来、セドリックとは会っていなかった。あの夜、バルコニーで交わした言葉が頭をよぎる。
「お通ししてください」
シルヴィアが退出すると、イリスは立ち上がり、窓辺の
「失礼します」
シルヴィアが戻ってきて、その後ろには紺色の制服を着た若い使者が立っていた。彼は丁寧にお辞儀をし、銀の
「ノクターン家令嬢、イリス様」使者は恭しく言った。「これはロシュフォール家嫡男、セドリック様からのお手紙でございます」
イリスは静かに手紙を受け取った。ロシュフォール家の紋章が押された封蝋が、陽光を受けて微かに輝いている。
「ありがとう」彼女は小さく頷いた。「返事は?」
「セドリック様からは、お目通しいただいた後のご返事をお待ちしていると伺っております」
イリスはシルヴィアに目配せした。「お茶を用意して」
「かしこまりました」シルヴィアは会釈し、退出した。
使者が下がった後、イリスは手紙を開封した。上質な羊皮紙に、流麗な字で記された文面が現れる。
*「親愛なるイリス嬢へ*
*舞踏会以来、お目にかかれぬことを残念に思います。あの夜の会話は、私にとって特別なものでした。*
*もしお時間が許されるなら、明日の午後、王立図書館でお会いできないでしょうか。そこなら私たちは、より静かに、より自由に語り合えるかと存じます。*
*もちろん、貴女のご意向を最優先いたします。もしこの申し出が無理なようでしたら、ご遠慮なくお断りください。*
*お返事をお待ちしております。*
*敬具*
*セドリック・ロシュフォール」*
イリスの目が何度か文面を行き来した。王立図書館での密会——それは明らかに通常の
「待っていたのだわ」イリスは小さく呟いた。
彼女は窓際に立ち、庭を見下ろした。下では、ヴァルトが警備の衛兵たちと話している姿が見える。この一週間、彼との関係は微妙なままだった。あの夜のぎこちない会話から、二人の間には見えない壁が生じてしまったかのようだった。
イリスは深呼吸をした。「明日、王立図書館…」
彼女は生まれて初めて見た社交界。その夜以来、彼女の心は外の世界への
「お嬢様」シルヴィアがお茶を持って戻ってきた。「お決まりになりましたか?」
「ええ」イリスは決意したように言った。「明日、外出したいの」
シルヴィアの表情が僅かに
「王立図書館へ行きたいの」イリスは真っすぐシルヴィアを見た。「父上には、学術書を探すための外出だと伝えて」
「お嬢様…」シルヴィアの声には心配が滲んでいた。「もしかして、セドリック様とのお約束でしょうか」
イリスは小さく頷いた。シルヴィアに嘘をつくことはできなかった。
「秘密裏に、ですか?」
「そうよ」イリスは静かに言った。「でも、約束するわ。ただ話すだけ。それ以上でも以下でもないわ」
シルヴィアは言葉を選ぶように少し間を置いた。「お嬢様が外の世界に興味を持たれるのは自然なことです」彼女は慎重に言った。「ですが、秘密の会合は…」
「お母様は?」イリスが突然尋ねた。「私の母は、こういうことをしたのかしら?」
その質問にシルヴィアの瞳が揺れた。「お母様は…」
「教えて、シルヴィア」イリスは懇願するような目でシルヴィアを見た。「私にはほとんど記憶がないから」
シルヴィアの表情が柔らかくなった。「お母様も、若い頃は自由を求めておられました」彼女はついに打ち明けた。「時には、侯爵様の目を盗んで、街に出られることもありました」
イリスの目が輝いた。「本当?」
「はい」シルヴィアは小さく微笑んだ。「でも、お母様はいつも身の安全には気をつけておられました。常に信頼できる付き添いと共に」
「私も気をつけるわ」イリスは約束した。「だから、お願い…」
シルヴィアはため息をついた。「わかりました。ですが、条件があります」
「何?」
「ヴァルトさんを護衛としてお連れすること」シルヴィアはきっぱりと言った。「それと、二時間以上は滞在しないこと」
イリスの表情に迷いが浮かんだ。「ヴァルト…」
彼女とヴァルトの間に生じた微妙な距離感を考えると、彼を同行させることに躊躇いがあった。しかし、彼の護衛能力は誰よりも信頼していた。
「わかったわ」イリスは決意した。「その条件で」
シルヴィアは安堵の表情を見せた。「では、明日の準備をいたします。お返事は?」
イリスは羽ペンを取り、返書を書き始めた。
*「セドリック様*
*ご連絡ありがとうございます。*
*明日の午後三時、王立図書館の東館でお会いできることを楽しみにしております。*
*敬具*
*イリス・ノクターン」*
短い返事だったが、これで十分だろう。イリスは手紙を封じ、使者に渡すようシルヴィアに頼んだ。
「お嬢様」シルヴィアが手紙を受け取りながら言った。「もし侯爵様がお帰りになられたら…」
「その時は私が責任を取るわ」イリスはきっぱりと言った。「もう子供じゃないもの」
シルヴィアの目に複雑な感情が浮かんだ。「確かに…お嬢様は成長されました」
◆◆◆
翌日の午後、イリスは薄い青色の外出用ドレスに身を包み、小さな
「お嬢様、お支度はよろしいですか?」
振り返ると、ヴァルトが礼服を着て立っていた。いつもより一層厳格な装いで、彼の琥珀色の瞳は真剣だった。
「ええ」イリスは小さく頷いた。
二人の間の空気は少し重かった。シルヴィアが外出の計画をヴァルトに伝えた時、彼はどんな反応をしただろう?イリスはそれを知らなかったが、彼の表情の堅さから察するに、喜んではいないようだった。
「馬車は用意ができています」ヴァルトは淡々と言った。「シルヴィアからは二時間以内の帰宅を言いつけられております」
「わかっているわ」イリスは静かに答えた。「ヴァルト…あなたは反対?」
ヴァルトの表情が一瞬硬くなった。「私の意見は重要ではありません」彼は形式的に答えた。「お嬢様の
「でも、あなたの考えが知りたいの」イリスは彼を見つめた。
ヴァルトは深く息を吸い、それから静かに言った。「正直に申し上げれば…不安です」
「不安?」
「はい」彼は慎重に言葉を選んだ。「秘密の会合には、常に危険が伴います。特に、あなたのような立場の方には」
イリスは彼の言葉の奥に、言い表されない何かを感じた。それは単なる護衛としての懸念を超えたものだったが、彼はそれ以上を明かそうとはしなかった。
「わかったわ」イリスは小さく頷いた。「だから、あなたに一緒に来てもらうの。あなたなら、私を守ってくれるから」
その言葉に、ヴァルトの目が微かに揺れた。「必ず」彼は低い声で言った。
二人は屋敷を出て、用意された馬車に乗り込んだ。ヴァルトは運転台のすぐ後ろの護衛席に座り、イリスは車内に座った。窓から見える風景は、彼女にとって新鮮な驚きに満ちていた。
王都リュミエールの昼下がりは、彼女が想像していた以上に活気に溢れていた。通りには様々な人々が行き交い、市場からは威勢のいい声が聞こえてくる。色とりどりの旗や看板が風に揺れ、魔法の灯りが昼間でも店先を彩っていた。
「これが世界…」イリスは窓に顔を近づけ、その光景を目に焼き付けた。
馬車が曲がると、壮大な建物が視界に入った。白大理石で造られた王立図書館は、七つの尖塔を持ち、何層にも重なる階段が正面に広がっていた。窓からは
「到着いたしました」馬車が止まり、ヴァルトが扉を開けた。
彼の手を借りて降りたイリスは、図書館の壮大さに息を呑んだ。「信じられないほど美しいわ…」
「東館は階段を上がって右手です」ヴァルトが静かに案内した。「私はお嬢様の後ろから付いていきます」
「ありがとう」イリスは深呼吸をして、階段を上り始めた。
図書館内部は、外観同様に
東館は比較的静かで、読書スペースが設けられていた。大きな窓に面したテーブルの一つに、セドリックの姿があった。
金髪の青年は窓際に座り、一冊の本を開いていた。彼は周囲より少し質素な服装をしており、舞踏会の時の華やかさはなかった。しかし、それでも
イリスが近づくと、セドリックは顔を上げ、彼女に気づいた。彼の青い目が驚きと喜びで輝いた。
「イリス嬢」彼は立ち上がり、静かに一礼した。「本当に来てくださったんですね」
「約束したでしょう」イリスは小さく微笑んだ。
セドリックは彼女の背後にいるヴァルトに気づき、少し表情を硬くした。「お連れがいらしたのですね」
「私の護衛です」イリスは説明した。「ヴァルト・グレイハウンド」
ヴァルトは礼儀正しく頭を下げた。「ロシュフォール様」
「ああ、舞踏会の時も…」セドリックは思い出したように言った。「失礼、紹介が遅れました」
「ヴァルト」イリスが彼を振り返った。「少し離れたところで待っていてくれる?私たちだけで話したいの」
ヴァルトの表情に一瞬迷いが浮かんだが、彼は静かに頷いた。「かしこまりました。あちらの書棚の近くにおります」彼は数メートル離れた場所を指さした。「何かあればすぐに呼んでください」
イリスが頷くと、ヴァルトは指定した場所へと下がった。彼は離れながらも、常にイリスが視界に入る位置を選んでいた。
「心配性の護衛ですね」セドリックが小声で言った。
「彼は…私を守ることに命をかけているの」イリスは静かに答えた。
「それは素晴らしい忠誠心です」セドリックは言ったが、その声にはわずかな皮肉が混じっていた。
イリスは席に着き、セドリックもそれに倣った。彼らの間にはいくつかの本が置かれていた。
「『異国の物語』」イリスは本の表紙を読んだ。「これを読んでいたの?」
「ええ」セドリックの表情が柔らかくなった。「私のお気に入りの一つです。東の国々についての旅行記なんです」
「本当に旅行が好きなのね」イリスは微笑んだ。
「あなたにも見てほしいんです」セドリックは本を開いた。「ここに書かれている世界は、私たちの知っている王国とはまったく違います」
二人は本を挟んで頭を寄せ合った。イリスはページに描かれた絵に見入った。高い山々、広大な砂漠、未知の生き物たち…。彼女の想像を遥かに超える世界の姿がそこにはあった。
「素晴らしい…」彼女は息をのんだ。
「行ってみたいと思いませんか?」セドリックの声は真剣だった。「この本に描かれた場所に」
イリスは彼の顔を見た。「行きたいわ。でも…」
「でも、それは許されない」セドリックが彼女の言葉を完成させた。「令嬢として、義務がある」
「ええ」イリスは静かに頷いた。「あなたも同じでしょう?後継者として」
セドリックは窓の外を見やった。「時々考えるんです」彼は小声で言った。「もし別の誰かに生まれていたら、自由に世界を旅できただろうかって」
その言葉に、イリスは強く共感した。「私も同じよ」
「イリス」セドリックが彼女の名前を初めて敬称なしで呼んだ。「実は今日、あなたに会いたかったのは、旅の話だけではないんです」
「何かしら?」
セドリックは周囲を見回し、誰も聞いていないことを確認すると、さらに声を落とした。「私たちの婚約について、どう思っていますか?」
イリスは一瞬言葉に詰まった。「それは…」
「正直に答えてください」セドリックの青い目が彼女をまっすぐ見つめた。「誰も聞いていません。あなたの本当の気持ちを」
イリスは深呼吸をした。「まだ、わからないわ」彼女は正直に言った。「あなたのことを知ったのは最近だし、結婚についてはほとんど考えていなかった」
セドリックはうなずいた。「そうですよね。私たちは両家の都合で婚約させられただけですから」
「でも」イリスは迷いながらも続けた。「舞踏会であなたと話して、少し…親近感を覚えたわ」
「僕も同じです」セドリックの表情が明るくなった。「あなたは他の令嬢たちとは違う。表面的な社交辞令ではなく、本当の言葉を交わせる」
彼はテーブルの上で、イリスの手に触れようとしたが、途中で思いとどまった。「でも、それでも、これは私たちが望んだ結婚ではない」
「そうね」イリスは静かに認めた。
「イリス」セドリックの声が急に真剣になった。「もし…もし私たちに選択肢があるとしたら?」
「選択肢?」
セドリックは身を乗り出した。「私には計画があります」彼は小声で言った。「この婚約、そして私たちを縛る全ての
イリスの心臓が激しく鼓動した。「何を言っているの?」
「詳しくは今は話せません」セドリックは周囲を警戒するように言った。「でも、もし機会があれば、本当の自由を手に入れることができるかもしれない」
「自由…」イリスはその言葉を噛みしめた。
「まだ何も決めなくていい」セドリックは急いで付け加えた。「ただ、可能性があることを知っておいてほしかった。私たちの人生は、親の決めた道だけではないということを」
イリスは黙ってセドリックを見つめた。彼の言葉は危険だった。反抗に等しい。しかし同時に、彼女の心の奥深くにある願望と共鳴した。
「考えておくわ」彼女はようやく言った。
セドリックはほっとしたように微笑んだ。「それで十分です」
彼らの会話は本の話題に戻り、東の国々の不思議な風習や珍しい食べ物について語り合った。時間が過ぎるのを忘れるほど、イリスはその話に心を奪われていた。
「イリス嬢」突然、ヴァルトの声が響いた。
振り返ると、彼は少し焦りを含んだ表情で立っていた。「約束の時間です」
「もうそんな時間?」イリスは驚いた。
「はい」ヴァルトは静かに言った。「帰らなければ」
セドリックは残念そうに立ち上がった。「時間が経つのは早いですね」
「ええ」イリスも席を立った。「今日はありがとう、セドリック。とても楽しかったわ」
「こちらこそ」セドリックは優雅に一礼した。「また会えますか?」
イリスはヴァルトの方をちらりと見た。彼の表情は硬かったが、彼女に決断を委ねているようだった。
「ええ」イリスは決意した。「また連絡するわ」
セドリックは満足げに微笑んだ。「お待ちしています」
ヴァルトに促されるまま、イリスは図書館を後にした。外に出ると、既に夕暮れが始まっていた。馬車に戻る途中、イリスの胸は複雑な思いでいっぱいだった。
セドリックの言葉。選択肢。自由。それは彼女の心に強く響く言葉だった。
しかし同時に、彼女はヴァルトの存在も強く意識していた。彼は黙って彼女を護衛していたが、その沈黙の中に何か言いたいことがあるようにも感じられた。
「ヴァルト」馬車に乗り込む前に、イリスは彼を呼び止めた。「今日のこと、どう思う?」
ヴァルトは一瞬躊躇ったが、やがて静かに答えた。「お嬢様が何かを決断されるなら、十分に考えてからにしてください」
「それだけ?」
「私はただの使用人です」彼は言った。「しかし…」
「しかし?」
「お嬢様の
その言葉に、イリスの胸が熱くなった。「ありがとう、ヴァルト」
馬車は夕闇の中、屋敷へと戻っていった。窓から見える王都の灯りを見つめながら、イリスは思った。
彼女の前には、二つの道が開かれようとしている。
セドリックと共に新しい自由を求める道。そして、もう一つは…
彼女はヴァルトの後ろ姿をじっと見つめた。