目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

Section5-2:ユナの誕生日の花

「お嬢様、お目覚めですか?」


朝の柔らかな日差しが部屋を満たす中、シルヴィアの声がイリスの眠りを優しく揺り起こした。


「ええ」イリスはゆっくりと目を開けた。


王立図書館でのセドリックとの密会から三日が過ぎていた。それ以来、イリスの心は揺れ動いていた。セドリックの言葉、「自由」への誘いさそい、そして、ヴァルトとの間に生まれた言いようのない距離感。


「今日は良い天気ですね」シルヴィアが窓のカーテンを開けながら言った。「庭の薔薇がとても美しく咲いています」


イリスは起き上がり、窓の外を眺めた。確かに、庭の薔薇は色とりどりに咲き誇っていた。彼女の屋敷では珍しく、白以外の色の花も植えられていた。それは母の意向だったと、シルヴィアから聞いたことがある。


「そうね、素敵だわ」イリスは小さく微笑んだ。「今日のスケジュールは?」


「午前中はピアノのレッスン、午後は刺繍の時間です」シルヴィアは手帳を確認しながら言った。「あ、それから…」


「それから?」


シルヴィアは少し躊躇うような様子を見せた。「ユナが今日、少しだけお時間をいただきたいと言っていました」


「ユナが?」イリスは首を傾げた。「何か問題があったの?」


「いいえ、そうではないようです」シルヴィアは優しく微笑んだ。「ただ、今日が彼女の誕生日だそうで…」


「誕生日?」


「はい。屋敷の使用人たちの間では小さなお祝いがあるのですが、ユナはお嬢様にもご挨拶したいと」


イリスは意外な気持ちに包まれた。誕生日——彼女はそれを特別な日として祝ったことがほとんどなかった。父は彼女の誕生日にも冷淡で、単に「また一つ年を取ったな」と言うだけだった。


「ユナ、何歳になるの?」イリスは突然知りたくなった。


「十六歳です」シルヴィアが答えた。「ちょうどお嬢様より一つ年下ですね」


イリスは静かに考え込んだ。ユナは彼女より年下だったのか。いつも明るく元気な彼女は、どこか年上のような印象さえあった。


「シルヴィア」イリスは決心したように言った。「彼女に何かプレゼントを贈りたいの」


シルヴィアの目が少し見開かれた。「プレゼント、ですか?」


「ええ」イリスはきっぱりと言った。「何が喜ぶと思う?」


シルヴィアは驚きを隠しきれない様子だったが、すぐに穏やかな表情に戻った。「ユナはお花が好きだと言っていました。特に野花や山茱萸さんしゅゆのような素朴な花が」


「花…」イリスは窓の外の庭を見た。「庭から少し摘んでもいいかしら?」


「もちろんです」シルヴィアは嬉しそうに言った。「お嬢様ご自身が選ばれたいなら、朝食後にお手伝いしましょう」


イリスは頷いた。彼女の胸に、小さな期待が膨らんでいた。


◆◆◆


朝食を終えたイリスは、シルヴィアに導かれて庭に出た。朝露がまだ残る草の上を歩くのは、新鮮な感覚だった。


「お嬢様、こちらの薔薇はいかがでしょうか?」シルヴィアが白い薔薇の咲く低木を指さした。


「白だけじゃなくて」イリスはゆっくりと庭を見回した。「もっと…色のあるものも混ぜたいわ」


彼女は様々な花々を眺め、ふと足を止めた。庭の隅、日当たりのいい場所に、小さな野の花のような植物が咲いていた。


「あれは?」イリスは指さした。


「ああ、あれは庭師が勝手に植えたもので…」シルヴィアは少し困ったように言った。「雑草に近いのですが…」


「でも、可愛いわ」イリスは近づいていった。


淡い紫と白の小さな花々は、風に揺れて踊るように見えた。控えめだが、確かな存在感を放っている。


「これを摘みたい」イリスは決めた。


「ヤグルマギクですね」シルヴィアが言った。「古来より『優しさ』の象徴とされる花です」


イリスは静かに花を摘み始めた。シルヴィアが差し出したはさみを使って、優しく茎を切る。いくつかの白い薔薇と、可憐な矢車菊やぐるまぎく、そして葉物をバランスよく組み合わせていく。


「お嬢様、とても器用ですね」シルヴィアが感心したように言った。


「母のことを少し思い出したの」イリスは静かに答えた。「彼女も花を摘むのが好きだったって、言ってたでしょう?」


「はい」シルヴィアの目に懐かしさが浮かんだ。「お母様は花言葉にもとても詳しくていらっしゃいました」


イリスは手元の花束を見つめた。「これでいいと思う」


シルヴィアは小さく頷いた。「では、水を入れて少し飾っておきましょう。ユナは午後の刺繍の時間に来る予定です」


二人が屋敷に戻ろうとしたその時、ヴァルトの姿が見えた。彼は庭の入口に立ち、何かを考え込むような表情をしていた。イリスと目が合うと、彼は少し驚いたように見えた。


「お嬢様、シルヴィア」彼は礼儀正しく頭を下げた。


「ヴァルト」イリスは彼に小さく微笑んだ。「おはよう」


「おはようございます」ヴァルトの目が彼女の手にある花束に向けられた。「それは…?」


「ユナへのプレゼントよ」イリスは花束を少し持ち上げた。「今日、彼女の誕生日だって」


ヴァルトの表情が柔らかくなった。「そうでしたか」


「あなたも何か贈るの?」イリスは尋ねた。


「いえ、私は…」ヴァルトは少し言葉に詰まった。「まだ考えていませんでした」


「ユナはあなたのことを尊敬しているわ」イリスは静かに言った。「何か小さなものでも、きっと喜ぶと思う」


ヴァルトは考え込むように庭を見回した。「そうですね…」


イリスはシルヴィアと共に屋敷へと戻ったが、振り返るとヴァルトは庭に残り、何かを探すように低木の間を歩いていた。


◆◆◆


午後の刺繍の時間、イリスは集中できないでいた。ユナのことを考えていたのだ。彼女は使用人でありながら、いつも明るく真っ直ぐな性格で、イリスの心にそっと光を届けてくれる存在だった。


「お嬢様」シルヴィアが声をかけた。「少し指がとどこおっていますよ」


「ごめんなさい」イリスは我に返った。「少し考え事をしていたの」


その時、ドアがノックされた。


「はい?」シルヴィアが答えると、ドアが開き、ユナの顔が覗いた。


「失礼します」彼女はいつもより少し緊張した様子で言った。「お茶の時間ですが…」


「ユナ、入っていいわ」イリスが言った。


ユナは小さくお辞儀をし、お茶のトレイを持って部屋に入ってきた。彼女の茶色い髪は今日はいつもより丁寧に結われ、服装も少しばかり気合いが入っているように見えた。


「お嬢様、シルヴィアさん」ユナはテーブルにトレイを置きながら言った。「あの、今日は…」


「誕生日ね」イリスが静かに言った。「おめでとう、ユナ」


ユナの顔がぱっと明るくなった。「ありがとうございます!覚えていてくださったんですね」


「もちろんよ」イリスは刺繍を置き、立ち上がった。「少し待っていて」


彼女は隣の小部屋に行き、朝摘んだ花束を取ってきた。シルヴィアが丁寧にリボンで結び、小さな花瓶かびんに活けてあったそれは、素朴ながらも美しい佇まいたたずまいだった。


「これを贈りたいの」イリスは花瓶を持ってユナの前に立った。「あなたへの感謝を込めて」


ユナは信じられないという表情で花を見つめた。「お嬢様…これを私に?」


「ええ」イリスは静かに微笑んだ。「誕生日おめでとう」


ユナの目に涙が浮かんだ。「こんな素敵なものを…しかも、お嬢様ご自身が?」


「お嬢様が今朝、庭で選ばれたのですよ」シルヴィアが優しく言った。


「お嬢様…!」ユナの声が震えた。「ありがとうございます!こんな嬉しいことは…」


彼女の言葉が詰まり、頬を伝って涙が零れ落ちた。


「泣かないで」イリスは少し戸惑いながらも言った。


「でも、嬉しくて…」ユナは袖で涙を拭った。「生まれて初めて、こんな素敵な贈り物をもらったんです」


イリスは胸が熱くなるのを感じた。たかが花束なのに、ユナにとってはそれほど価値のあるものなのか。彼女の反応は、イリスの予想を遥かに超えていた。


「気に入ってくれて良かったわ」イリスは静かに言った。


「大切にします!」ユナは花瓶を両手で持ち、まるで宝物のように抱きしめた。「私の部屋の窓辺に置いて、毎日お水をかえて…」


「明るい場所に置くといいわ」イリスはアドバイスした。「そうすれば、少しは長持ちするはず」


「はい!」ユナの顔が輝いた。


その時、再びドアがノックされた。


「どうぞ」イリスが答えると、ヴァルトの姿が現れた。


「失礼します」彼は一礼した。「ユナ、ここにいたのか」


「ヴァルトさん!」ユナは驚いたように振り返った。「すみません、お茶の配達が遅れて…」


「いや、そのことではない」ヴァルトの表情がいつもより柔らかだった。「聞いたぞ、今日は誕生日なんだって?」


ユナの顔が赤くなった。「はい…」


「おめでとう」ヴァルトは静かに言い、懐から小さな包みを取り出した。「これを」


「え?」ユナは目を丸くした。「私に?」


「ああ」


震える手で包みを受け取ったユナは、恐る恐る開いた。中からは、細い革紐に通された小さな木彫りのペンダントが現れた。


「わぁ…」ユナは息を呑んだ。「これは?」


幸運こううん護符おふだだ」ヴァルトは少し照れくさそうに言った。「獣人の間では、大切な人に贈る伝統がある」


「ヴァルトさんが…作ったんですか?」


「ああ」彼は静かに頷いた。「下手だが、気持ちだけでも」


「素敵です!」ユナの声が弾んだ。「大切にします、一生!」


彼女の純粋な喜びは、部屋中を明るくするようだった。


イリスはそっとヴァルトを見た。彼の表情には優しさと、何か懐かしさのようなものが混じっていた。彼もまた、ユナの太陽のような存在を温かく見守っているのだと気づいた。


「つけてみたら?」イリスがユナに勧めた。


「は、はい!」ユナは急いでペンダントを首にかけようとしたが、震える指では紐がうまく結べなかった。


「私が手伝うわ」イリスは言い、ユナの背後に立った。彼女の首元で紐を結びながら、イリスはふと思った。こんな風に誰かに触れ、何かをしてあげるのは、とても不思議な感覚だった。これまで彼女は、いつも「される側」だったのだから。


「似合うわ」イリスは結び終え、ユナの肩に軽く手を置いた。


「ありがとうございます…」ユナは胸元のペンダントに触れながら、涙ぐんだ。「お二人とも、本当に…」


シルヴィアは温かな目でその光景を見守っていた。「ユナ、お茶が冷めてしまうわ」彼女は優しく促した。「皆でいただきましょう」


「あ、はい!」ユナは我に返ったように、急いでお茶の準備を始めた。


四人は、いつもとは少し違う雰囲気の中で、共にお茶の時間を過ごした。ユナは誕生日のお祝いに、特別にお菓子も用意していたという。


「手作りクッキーです!」彼女は少し恥ずかしそうに言った。「不格好ですが…」


「美味しそうね」イリスはクッキーを手に取った。シンプルな形の焼き菓子だったが、心のこもった贈り物だということが伝わってきた。


「料理人のメアリーさんに教えてもらって、三回も焼き直したんです」ユナは照れくさそうに言った。


イリスはそっとクッキーを口に運んだ。素朴な甘さが口いっぱいに広がった。「とても美味しいわ」


「本当ですか?!」ユナの目が輝いた。


「ご馳走さま」ヴァルトもクッキーを口にして言った。「上手く作れたな」


ユナの顔は幸せそうに輝いていた。「みんなに喜んでもらえて、最高の誕生日です!」


その時、イリスの胸に不思議な感覚が広がった。この温かな空気、純粋な喜び——これが「普通」の人々の生活なのだろうか。彼女がこれまで知らなかった、あるいは忘れてしまっていた何か大切なものを、ユナが彼女に教えてくれているような気がした。


「ユナ」イリスは静かに言った。「あなたは、よく笑うわね」


「え?」ユナは少し驚いたように首を傾げた。


「いつも明るくて、素直で」イリスは言葉を選びながら続けた。「それが…羨ましい」


部屋が静かになった。ユナの表情が驚きから、理解へと変わっていく。


「お嬢様」彼女はいつになく真剣な声で言った。「私、思うんです。笑顔って、贈り物みたいなものだって」


「贈り物?」


「はい」ユナはうなずいた。「誰かが笑顔だと、見ている人も嬉しくなって、その人もまた笑顔になる。だから、私の笑顔が少しでもお嬢様の力になれば…それが私の願いなんです」


イリスは言葉を失った。ユナの純粋な気持ちに、胸が熱くなる。


「ユナ…」


「あ、でも」ユナは急に我に返ったように慌てた。「生意気なこと言ってすみません!私なんかが…」


「いいえ、ありがとう」イリスは真摯に言った。「あなたの言葉…大切にするわ」


ユナの表情が明るくなり、再び笑顔が戻った。


この小さなお祝いの時間は、イリスにとって、普段とは違う特別なひとときとなった。使用人と主人という関係を超えて、ただ人として触れ合う温かさ。それは彼女の人生において、非常に珍しい経験だった。


◆◆◆


夕方、ユナが部屋を去った後、イリスは窓際に立ち、沈みゆく太陽を眺めていた。


「お嬢様」シルヴィアが静かに近づいてきた。「今日は素敵な一日でしたね」


「ええ」イリスはうなずいた。「ユナ、本当に喜んでくれたわ」


「お嬢様の優しさが、彼女の心に届いたのでしょう」シルヴィアは微笑んだ。


「優しさ…」イリスはその言葉を反芻した。「私は優しくなんかないわ」


「そんなことはありません」シルヴィアはきっぱりと言った。「今日のお嬢様は、とても優しかった」


イリスは静かに首を振った。「私は…何もわからないの。どう感じればいいのか、どう表現すればいいのか」


「それでも、お嬢様の心は動いています」シルヴィアは優しく言った。「少しずつ、氷が溶けていくように」


イリスは自分の胸に手を当てた。確かに、何かが変わりつつあった。彼女の中で長く眠っていた感情が、少しずつ目覚めつつあるのを感じていた。


「シルヴィア」イリスは突然尋ねた。「私も…笑えるようになるかしら?」


「もちろんです」シルヴィアの目に優しい光が宿った。「お嬢様はもう、その道を歩み始めていますよ」


イリスはシルヴィアの言葉を胸に刻んだ。ユナの笑顔、ヴァルトの真剣な眼差し、そしてシルヴィアの変わらぬ支え——彼女を取り巻く人々は、彼女の中の変化を見守り、時に手を差し伸べてくれていた。


夕暮れの光が部屋を赤く染める中、イリスは小さな決意を固めた。彼女もいつか、ユナのように心から笑えるようになりたい。誰かを温かく包み込めるような、純粋な笑顔を持ちたい。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?