雨の音が窓を打つ夜。
イリスは寝室のベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。ユナの誕生日から一週間が過ぎ、屋敷の日常は平穏に流れているように見えた。しかし、彼女の心の中は決して平穏ではなかった。
「変わりたい」彼女は小さく呟いた。「でも、どうすれば…」
窓の外では雨脚が強まり、遠くで雷が鳴った。春の嵐は時に激しく襲ってくるものだ。
イリスは身を起こし、窓辺に歩み寄った。夜の闇に降り注ぐ雨は、彼女の内側の混沌を映し出しているかのようだった。
あの舞踏会以来、彼女の中で何かが変わり始めていた。セドリックとの出会い、ユナの笑顔、そしてヴァルトの存在——彼女の周りの人々は、彼女の凍てついた心を少しずつ溶かしていた。
しかし同時に、彼女の中の力も目覚め始めていた。異能と呼ばれるその力は、彼女の感情と連動しているようだった。喜び、悲しみ、怒り——それらの感情が強くなればなるほど、彼女の中の力は制御しがたいものになっていく。
「どうすれば…」
雷鳴と共に、イリスの手から微かな紫色の光が漏れた。彼女はそれに気づき、慌てて手を握りしめた。心を落ち着かせなければ。ヴァルトが教えてくれたように、深く息を吸い、ゆっくりと吐く…。
考えるほどに、ヴァルトの顔が心に浮かんだ。彼がいなければ、この力の存在にさえ気づかなかっただろう。彼がいなければ、制御の方法も知らなかっただろう。彼がいなければ…。
雨音がさらに激しくなり、窓ガラスが揺れた。突然の強風に、窓が大きく開いてしまう。
「あっ…!」
雨が室内に吹き込み、イリスのナイトドレスが一瞬で濡れてしまった。彼女は急いで窓を閉めようとしたが、風が強く、うまく閉められない。
その時、部屋のドアが勢いよく開いた。
「お嬢様!」
ヴァルトの声だった。彼は素早くイリスの側に駆け寄り、強い腕で窓枠を掴み、一気に閉めた。
「大丈夫ですか?」彼の琥珀色の瞳がイリスを心配そうに見つめていた。
「え、ええ…」イリスは小さく頷いた。「ただ、少し濡れてしまったわ」
「風が強くなるという予報でした」ヴァルトは言った。「屋敷中の窓を確認していたところです」
「そう…」イリスは自分のドレスを見下ろした。肩から胸にかけて、生地が雨で濡れて透けかかっている。彼女は無意識に腕を組み、身体を隠そうとした。
ヴァルトはその仕草に気づき、すぐに視線を逸らした。「すぐに乾いたものをお持ちします」
彼は迅速に動き、壁際の
「ありがとう」イリスは小さく言った。
「着替えられている間、廊下でお待ちします」ヴァルトは一礼し、部屋を出ようとした。
「待って」イリスが突然言った。
ヴァルトは足を止め、振り返った。「はい?」
雷光が部屋を一瞬照らし、すぐに闇が戻った。イリスはヴァルトの顔をはっきりとは見えなかったが、彼の存在だけは確かに感じていた。
「いつも…」イリスは言いかけて躊躇った。言葉が喉に詰まる。
「お嬢様?」
「いつも…私のことを、守ってくれてありがとう」
その言葉が、イリスの口から自然に流れ出た。形式的な礼儀ではなく、心からの感謝。彼女自身、そんな言葉を口にするとは思っていなかった。
部屋が静寂に包まれた。ただ雨音だけが、二人の間に流れる。
「…それは」ヴァルトの声が、いつになく柔らかく響いた。「私の務めです」
「そうじゃないわ」イリスはきっぱりと言った。「あなたは、ただの執事以上のことをしてくれている」
ヴァルトは言葉を失ったようだった。彼の沈黙に、イリスは続けた。
「あなたは私の異能のことを教えてくれた。制御する方法も。そして何よりも…私を恐れなかった」
「恐れる理由などありません」ヴァルトはすぐに答えた。
「でも、普通なら恐れるでしょう?」イリスは一歩近づいた。「感情で物を動かしたり、光を放ったり…そんな力を持つ人間を」
「お嬢様は人間です」ヴァルトの声には確信があった。「特別な力を持っているだけで、それがあなたの本質ではありません」
イリスの胸に、温かいものが広がった。彼の言葉は、彼女の不安の核心に触れていた。
「あなたこそ…」イリスは言った。「獣人として差別されながらも、誰よりも人間らしい心を持っている」
その言葉にヴァルトが息を呑む音が聞こえた。
「お嬢様、それは…」
「真実よ」イリスは言い切った。「だから、あなたには感謝しているの。本当に」
雷がまた鳴り、一瞬部屋が明るくなった。その光の中で、イリスはヴァルトの表情を捉えた。彼の目には、彼女が見たことのない感情が浮かんでいた。
「イリス…」
彼が初めて彼女の名前を呼んだとき、イリスの胸が高鳴った。
突然、部屋の灯りが揺らめき、小さな紫色の光が彼女の指先から漏れ始めた。彼女の感情の高まりが、力を呼び覚ましたのだ。
「あっ…」イリスは慌てて手を握りしめた。
ヴァルトは迷いなく彼女の側に来て、彼女の手を優しく包み込んだ。「落ち着いて。深く息を吸って」
彼の温かな手の感触に、イリスは言われるままに深呼吸した。彼の手には力があった。獣人特有の強さを持ちながらも、彼女を扱うときだけは信じられないほど繊細だった。
「そうです、ゆっくりと」ヴァルトの声は低く落ち着いていた。
少しずつ、紫色の光は消えていった。イリスは安堵のため息をついた。
「ありがとう…」彼女は再び言った。今度はもっと自然に、心からの言葉として。
「どういたしまして」ヴァルトもまた、形式ばらない言葉で返した。
二人は、互いの手がまだ重なっていることに気づいた。ヴァルトが慌てて手を離そうとしたが、イリスは彼の手をしっかりと握り返した。
「まだ…少しだけ」彼女は小さく言った。「怖いの」
「私はここにいます」ヴァルトは静かに言った。「怖くないですよ」
イリスは彼の目をまっすぐ見た。「私を、置いていかないで」
「絶対に」ヴァルトの声には誓いが込められていた。「どんなことがあっても、お側を離れません」
その言葉に、イリスの心が温かさで満たされた。これまで彼女は、自分を守る人々に囲まれながらも、根本的な部分で孤独だった。しかし今、このヴァルトという存在だけは、彼女の孤独に寄り添ってくれる気がした。
「ヴァルト…」イリスは言葉を探した。「あなたは私にとって…」
彼女の言葉が途切れた時、突然扉がノックされた。
「お嬢様?」シルヴィアの声が聞こえた。「物音がしましたが、大丈夫ですか?」
イリスとヴァルトは慌てて距離を取った。二人の間の魔法のような瞬間が破られた。
「大丈夫よ」イリスは声を落ち着かせて答えた。「窓が風で開いてしまっただけ。ヴァルトが閉めてくれたわ」
「そうですか」シルヴィアは安心したようだった。「何かありましたら、いつでも呼んでください」
「ええ」
シルヴィアの足音が遠ざかると、部屋にまた静けさが戻った。しかし先ほどの親密な雰囲気は失われていた。
「お休みになられてください」ヴァルトは礼儀正しく言った。「明日も早いですから」
「そうね」イリスはうなずいた。「おやすみ、ヴァルト」
「おやすみなさい、お嬢様」彼は優しく言い、部屋を出て行った。
ドアが閉まった後、イリスは自分の手をじっと見つめた。まだヴァルトの温もりが残っているような気がした。
「ありがとう…」彼女は誰もいない部屋で、もう一度その言葉を呟いた。
◆◆◆
翌朝、イリスが目を覚ますと、嵐は去り、窓の外には清々しい青空が広がっていた。雨上がりの庭は一層鮮やかに輝いていた。
「おはようございます、お嬢様」
シルヴィアが部屋に入ってきて、カーテンを開けた。朝の光が部屋を満たす。
「おはよう」イリスは起き上がり、窓の外を見た。「嵐は過ぎたのね」
「はい」シルヴィアが言った。「かなり激しい嵐でしたが、幸い屋敷に大きな被害はありませんでした」
イリスは昨夜のことを思い出していた。ヴァルトとの会話、自分から口にした「ありがとう」という言葉、そして彼の温かな手…。
「お嬢様?」シルヴィアが彼女の空想を中断させた。「何か気になることでも?」
「別に…」イリスは視線を逸らした。「ただ、少し考え事をしていただけ」
シルヴィアは微かに微笑んだ。「朝食の準備ができています。今日はベランダでいかがでしょう?雨上がりの庭はとても美しいですよ」
「それがいいわ」イリスはベッドから立ち上がった。
朝の支度を終え、イリスはベランダへと向かった。日差しは暖かく、昨夜の嵐が嘘のように穏やかな朝だった。
ベランダのテーブルには、すでに朝食が用意されていた。そこにはヴァルトの姿があった。彼は背筋を伸ばし、厳格な執事の佇まいで立っていた。
「おはようございます、お嬢様」彼は一礼した。
「おはよう」イリスは小さく微笑んだ。
彼女がテーブルに着くと、ヴァルトが椅子を引き、紅茶を注いだ。すべての動作が完璧で、まるで昨夜の親密な瞬間など存在しなかったかのようだった。
しかし、紅茶を手渡す時、彼の指がイリスの指に触れた。その瞬間、二人の目が合い、昨夜の記憶が鮮明に蘇った。
「ありがとう」イリスは静かに言った。
「どういたしまして」ヴァルトの口元に、小さな微笑みが浮かんだ。
その朝の食事は、いつもと変わらないように見えたかもしれない。しかし、二人の間にある空気は確実に変わっていた。それは言葉にならない、しかし確かに存在する何か。
朝食を終えたイリスは、ヴァルトに声をかけた。「今日は何をするの?」
「午前中はピアノのレッスンです」ヴァルトは答えた。「午後からは…」彼は少し躊躇った。「実は、お嬢様に見せたいものがあります」
「見せたいもの?」イリスは好奇心に目を輝かせた。
「はい」ヴァルトは言葉を選びながら言った。「もし、お時間が許されるなら…」
「見たいわ」イリスはすぐに答えた。「どんなもの?」
「それは…」ヴァルトが小さく微笑んだ。「驚きのためにも、秘密にしておきます」
イリスは不思議そうに首を傾げたが、すぐに頷いた。「わかったわ。楽しみにしているわ」
午前中のピアノのレッスンは、イリスにとって長く感じられた。彼女の心は、ヴァルトが用意している「驚き」に向かっていた。
ようやくレッスンが終わると、イリスはシルヴィアに午後の予定を伝えた。
「ヴァルトに連れて行ってもらうの」彼女は言った。「何か見せたいものがあるそうよ」
シルヴィアの目に、理解の色が浮かんだ。「そうですか」彼女は静かに微笑んだ。「お嬢様、心を開くことは素晴らしいことです」
「心を開く?」イリスは少し戸惑った。「そんなつもりはないわ。ただ、好奇心があるだけよ」
「もちろんです」シルヴィアは優しく言った。「どうぞお楽しみください」
ヴァルトは庭の入口で待っていた。彼は普段の執事服ではなく、もう少しカジュアルな装いだった。しかし、それでも彼の
「お嬢様」彼は一礼した。「ご準備はよろしいですか?」
「ええ」イリスはうなずいた。「で、どこに行くの?」
「屋敷の裏手、小さな林の中です」ヴァルトが言った。「少し歩きますが、大丈夫でしょうか?」
「問題ないわ」イリスは答えた。「行きましょう」
二人は庭を抜け、屋敷の裏にある小さな林へと続く小道を歩き始めた。春の日差しが木々の間から漏れ、地面には小さな野の花が咲いていた。
「昨日の雨で、今日がちょうど見頃になったんです」ヴァルトは説明した。
「何が見頃なの?」イリスが尋ねた。
「もうすぐわかります」彼は小さく微笑んだ。
小道を進むと、やがて小さな
空き地一面に、
「これは…」イリスは言葉を失った。
「
「美しい…」イリスは一歩、二歩と進み、花畑の中に立った。
「菫は…」ヴァルトが続けた。「獣人の間では『新しい始まり』の象徴とされています」
イリスは彼を見た。「新しい始まり?」
「はい」ヴァルトはうなずいた。「冬の厳しさを耐え忍び、最初に春を告げる花だからです」
イリスは周りを見回した。確かに、他の花はまだほとんど咲いていないのに、この菫だけは勇敢に咲き誇っているようだった。
「獣人の伝説では」ヴァルトは続けた。「心に傷を持つ者が菫を見ると、新しい希望を見出せると言われています」
イリスはそっと一輪の菫を手に取った。小さな花は、彼女の手のひらでか細く、しかし力強く輝いていた。
「私に…見せたかったのは、これ?」彼女は静かに尋ねた。
「はい」ヴァルトの目に、温かな光が宿っていた。「お嬢様が少しずつ変わっていくのを見て、この花を思い出したんです」
「変わっていく?」
「はい」彼はまっすぐ彼女を見た。「冬の寒さに耐えながら、少しずつ春の光を求めるように」
その言葉に、イリスの胸が熱くなった。彼は彼女の中の変化を見ていたのだ。彼女自身も気づかなかった、心の中の小さな成長を。
「ヴァルト…」イリスは言葉を探した。「これは、あなたの特別な場所なの?」
「はい」彼は静かにうなずいた。「誰にも教えたことのない場所です」
「なぜ私に?」彼女の声は小さくなった。
ヴァルトは少し考え、それから心を決めたように言った。「あなたは…私にとって特別だからです」
その言葉は、春風のように優しく、しかし確かにイリスの心に届いた。彼女は菫を見つめながら、言った。
「ありがとう、ヴァルト」
今度の「ありがとう」は、昨夜よりもさらに自然だった。まるで彼女がずっとその言葉を言い慣れていたかのように。
「私も…あなたに見せられるものがあればいいのに」イリスは続けた。「でも、私には何もないの」
「それは違います」ヴァルトは静かに言った。「お嬢様の笑顔は、どんな花よりも美しいですよ」
イリスは驚いて顔を上げた。そして、思わず小さく笑みを浮かべた。それは控えめで、まだぎこちない笑顔だったかもしれないが、確かに彼女の心からの表情だった。
「これでいい?」彼女は少し照れたように尋ねた。
ヴァルトの表情が柔らかくなった。「完璧です」
二人は菫の花畑の中に静かに佇んでいた。言葉にはならない何かが、二人の間に流れていた。それは友情よりも深く、主従関係とは違う、名前のない感情。
「ここにいると、心が落ち着くわ」イリスは静かに言った。「あの異能の力も、静かになる気がする」
「それなら、いつでもここに来てください」ヴァルトは言った。「私がお連れします」
イリスは頷き、もう一度彼に微笑みかけた。「ありがとう」
その「ありがとう」は、形だけの言葉ではなく、彼女の心からの感謝の言葉だった。