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Section6-1:父の宣言

朝の光が差し込む応接間おうせつまは、重苦しい空気に包まれていた。


イリスは背筋を伸ばし、紅茶のカップをそっと口元に運んだ。その動作は完璧に優雅だったが、彼女の心は穏やかではなかった。突然の呼び出しに、胸騒ぎを覚えていた。


「父上のご帰還は今日だったのですか?」彼女はシルヴィアに小声で尋ねた。


「はい」シルヴィアは静かに答えた。「昨晩遅く、お戻りになられました」


エドガー侯爵はこの一月ほど、王都の政務で屋敷を留守にしていた。彼の不在中、イリスの心は少しずつ変化していた。ユナとの交流、セドリックとの密会、そしてヴァルトとの特別な時間—これらすべてが、彼女の凍てついた心を溶かし始めていた。


そして、その心の変化と共に、彼女の異能いのうも徐々に目覚めつつあった。


「父上は何か仰っていましたか?」イリスは静かに尋ねた。「なぜ朝から私を呼びつけたのか…」


シルヴィアは少し躊躇いがちに答えた。「婚姻の件について、お話があるとだけ…」


イリスの手が微かに震えた。婚姻—その言葉は彼女にとって、鎖のように重く感じられた。


扉が開き、エドガー侯爵が入ってきた。厳格で冷たい表情は変わらず、灰色が混じった黒髪も完璧に整えられていた。


「イリス」彼の低い声が部屋に響いた。


「お帰りなさいませ、父上」イリスは形通りに挨拶し、小さく頭を下げた。


エドガーは彼女を一瞥すると、重々しく自分の席に着いた。「婚約の件で話がある」


「はい」イリスは静かに返事をした。心の奥で何かがきしむような感覚があったが、彼女はそれを表情に出さないよう努めた。


「ロシュフォール家との交渉が決裂けつれつ寸前だった」エドガーが唐突に言った。


「え?」イリスは思わず声を上げた。


「セドリックの父親が、突然条件の変更を持ち出してきた」エドガーの目に憤りいきどおりが浮かんだ。「ノクターン家の領地の一部を持参金じさんきんに含めろと…」


イリスは黙って父の言葉を聞いていた。心の中には複雑な感情が渦巻いていた。セドリックとの婚約が危うくなったということは、彼女にとって何を意味するのだろう?安堵すべきなのか、それとも…


「しかし」エドガーの声が彼女の思考を中断させた。「最終的に合意に達した。お前はセドリック・ロシュフォールと結婚する」


その言葉が宣告のように降りかかった。イリスの心臓が一瞬止まったかのように感じた。


「いつ…ですか?」彼女はかろうじて尋ねた。


「三ヶ月後」エドガーは冷淡に答えた。「お前の十八歳の誕生日を待ち、その一週間後に式を挙げる」


わずか三ヶ月—その短さにイリスは息を呑んだ。彼女の人生の残りすべてを決めてしまう運命までの時間が、あまりにも少ない。


「式の準備はすでに始まっている」エドガーは続けた。「ロシュフォール家の者たちがしばしば訪れることになるだろう」


イリスは無言でうなずいた。彼女の心は混乱していた。セドリックは彼女に「選択肢」について語ったが、今や彼女の未来は完全に決められてしまったように思えた。


「それから」エドガーの視線が鋭くなった。「あの獣人じゅうじんの執事について、言っておきたいことがある」


イリスの背筋が緊張で真っ直ぐになった。「ヴァルトのことですか?」


「そうだ」エドガーの目には明らかな不快感が浮かんでいた。「お前は最近、あまりにも彼と親しくしているという報告を受けた」


イリスの胸の奥で、何かが痛んだ。誰かが彼女とヴァルトの交流を父に告げ口していたのだ。


「彼は私の執事です」イリスは静かに言った。「警護や日常の世話をするのは当然のことです」


「警護と世話だけなら問題ない」エドガーの声は低く危険だった。「だが、あの獣と二人きりで庭の奥に行ったり、密談したりするのは別問題だ」


イリスは言葉を失った。彼らの菫の花畑への訪問も、知られていたのか。


「父上…」


「黙れ」エドガーが手を上げた。「聞け。お前はノクターン家の令嬢だ。まもなくロシュフォール家のよめとなる身だ。そんな者が、賤しい獣人と親しくするなど許されん」


その言葉にイリスの中で何かが反発はんぱつした。ヴァルトを「賤しい」と呼ぶ父の言葉に、彼女の心が怒りで震えた。


「ヴァルトは賤しくありません」彼女は思わず口にした。


部屋に沈黙が広がった。エドガーの目が危険な光を放った。


「何と言った?」


イリスは自分の大胆だいたんさに驚いていたが、言葉を取り消せなかった。「ヴァルトは優秀な執事です。彼がいなければ、あの誘拐事件の時も…」


「実績があるのは認める」エドガーが言葉を切った。「だからこそ、まだ屋敷に置いているのだ。だが、それと親しくすることは別問題だ」


イリスは唇を噛んだ。これ以上反論すれば、ヴァルトの立場が危うくなることは明らかだった。


「今日から」エドガーが続けた。「あの獣人は、女官長か他の使用人の同伴なしに、お前の部屋に入ってはならない。また、屋敷の庭を越えて、お前と二人きりになることも禁ずる」


イリスの心が沈んだ。それはほとんど、ヴァルトと彼女を引き離すことに等しかった。


「それから」エドガーは冷笑れいしょうを浮かべた。「二週間後、セドリックがお前に会いに来る。その時、あの獣人には別の任務を与えておく」


「別の任務?」イリスは思わず尋ねた。


「王都の用事だ」エドガーは簡潔に答えた。「詳細を知る必要はない」


嘘だ—そう彼女は感じた。ただヴァルトと彼女を引き離すためだけの口実。その日程が、たまたまセドリックの訪問日と重なるはずがない。


「わかりました」イリスは静かに頭を下げた。しかし、彼女の心は静かな怒りで燃えていた。


「最後に」エドガーは立ち上がった。「お前の振舞ふるまいに異変があるという報告も受けた」


イリスは息を呑んだ。「異変、ですか?」


「感情の露出ろしゅつが多くなったと」エドガーの目が危険に細められた。「感情を表に出すと何が起きるか、お前は知っているはずだ」


イリスは無意識に自分の手を見た。そこから時々漏れ出す紫色の光、彼女の異能いのうの兆候。父は知っているのか?


「感情は不要だ」エドガーは冷たく言った。「特に今は。結婚の準備の間、余計なことで混乱を招くな」


「はい、父上」イリスは形式的に答えた。


エドガーは満足げに頷き、「今日から、シルヴィアがお前の行動を逐一報告することになっている」と言い残して部屋を出た。


扉が閉まると、部屋に重い沈黙が残された。


「お嬢様…」シルヴィアが心配そうに近づいてきた。


「あなたが…報告するの?」イリスは静かに尋ねた。


シルヴィアは悲しげに首を振った。「私は決してお嬢様の不利になるようなことは報告しません」彼女は真剣な目でイリスを見た。「しかし、別の者が見張りとして付けられることも…」


「わかったわ」イリスは疲れたように言った。「父上の目がいつも私たちを見ているのね」


シルヴィアは彼女の肩に優しく手を置いた。「お嬢様、どうされますか?」


その問いに、イリスは窓の外を見た。春の陽光が庭を照らし、鳥たちが枝から枝へと飛び回っていた。自由な鳥たち—彼女とはあまりにも対照的な存在。


「ヴァルトに会いたい」彼女は静かに言った。「これから何が起きるか、彼に伝えなければ」


「それは…」シルヴィアは難しい表情をした。「難しいかもしれません。侯爵様の命令で、ヴァルトさんは今日一日、屋敷の外壁の警備に配置されています」


「意図的に私から遠ざけているのね」イリスは苦々しく言った。


「しかし」シルヴィアは小声で言った。「今夜、警備の交代時なら、短時間でも会えるかもしれません。図書室なら人目につきにくいでしょう」


イリスはシルヴィアを見つめた。彼女は味方だったのだ。「ありがとう」


◆◆◆


一日が過ぎるのは、今日に限って異様に遅く感じられた。


イリスは午前中のピアノのレッスン、午後の刺繍の時間、そして夕食と、すべての活動を機械的にこなした。彼女の心は別の場所にあった。


ようやく夜の帳が降り、屋敷が静まり返った頃、イリスはシルヴィアの案内で図書室へと向かった。


「十分だけです」シルヴィアは小声で言った。「それ以上いると、執事長のシルクに気づかれるかもしれません」


「わかったわ」イリスはうなずいた。


図書室に入ると、すでにヴァルトが窓際に立っていた。月明かりが彼の鋭峻えいしゅんな横顔を照らしていた。


「ヴァルト」イリスが小声で呼びかけると、彼は振り返った。


「お嬢様」彼の目に安堵の色が浮かんだ。「無事でしたか」


イリスは少し驚いた。「無事?なぜそんなことを?」


「侯爵様が戻られたと聞き、心配していました」ヴァルトの声には真摯な心配が込められていた。「何か…ありましたか?」


イリスは深呼吸をして、今朝の出来事を簡潔に伝えた。結婚の決定、三ヶ月後の婚礼、そして—父がヴァルトと彼女を引き離そうとしていることも。


ヴァルトの表情は話を聞くにつれて硬くなっていった。特に彼が「賤しい獣人」と呼ばれたことを聞いた時、彼の目に一瞬、怒りの炎が灯ったように見えた。


「お嬢様」彼は静かに言った。「私のことで、侯爵様と対立なさらないでください」


「でも、あなたは賤しくない」イリスは熱っぽく言った。「あなたは誰よりも優しくて、誰よりも…」彼女は言葉を切った。言おうとしていた言葉に自分でも驚いたからだ。


ヴァルトの目が彼女をじっと見つめた。「お嬢様、私はただの使用人です。あなたのために、その立場を受け入れています」


「だからといって、侮辱されるいわれはないわ」


「侮辱は慣れています」ヴァルトは淡々と言った。「私が心配なのは、あなたのことです」


彼の言葉に、イリスの胸が熱くなった。常に彼女を一番に考えるヴァルト。それなのに、父は彼をさげすんでいた。


「もう会えなくなるかもしれないの」イリスは苦しい思いで言った。「父上は私たちを引き離そうとしている」


「どんなに距離が離れても」ヴァルトは静かに、しかし力強く言った。「私はあなたの執事です。あなたの安全と幸せを願う気持ちは変わりません」


イリスは彼の琥珀色の瞳をまっすぐ見つめた。「私はセドリックとの結婚に、まだ納得していないわ」


ヴァルトの表情がわずかに動いた。「しかし、それが…」


「セドリックは『選択肢』について話したの」イリスは小声で言った。「もしかしたら、私たちには別の道があるかもしれない」


「それは…」ヴァルトの声が緊張を帯びた。「どういう意味ですか?」


イリスは部屋の隅を見回し、さらに声を落とした。「彼は、この婚姻から逃れる方法があるかもしれないと言ったの」


ヴァルトの目が大きく見開かれた。「お嬢様、それは非常に危険な考えです」


「知ってるわ」イリスはうなずいた。「でも、このまま父の操り人形あやつりにんぎょうでいるのも…」


「二週間後」ヴァルトが突然言った。「侯爵様が私を王都に送ると言ったそうですね」


「ええ」イリスはうなずいた。「セドリックの訪問日と同じ日よ」


「明らかに意図的ですね」ヴァルトは冷静に分析した。「私がいない間、何かが起きるのでしょう」


「何が起きると思う?」


「わかりません」ヴァルトは首を振った。「しかし…」彼は言葉を選ぶように間を置いた。「セドリック様が本当に『選択肢』について語ったのなら、それは二週間後かもしれません」


イリスは息を呑んだ。彼の推測は、彼女も考えていたことだった。


「お嬢様」ヴァルトの表情が真剣になった。「私が一つだけお願いしていいですか?」


「何でも言って」


「何かを決断なさる前に、十分にお考えください」彼の目には懸念と心配が浮かんでいた。「特に、セドリック様の言う『選択肢』が何を意味するのか、よくお考えになってから」


「どういう意味?」


「逃げることが、本当に自由になることなのか」ヴァルトは静かに言った。「それとも、別のおりに入るだけなのか」


その言葉に、イリスは考え込んだ。確かにセドリックの言う「選択肢」の詳細はまだわからなかった。彼は本当に彼女の自由を考えているのだろうか?それとも単に、彼自身の願望を通すために彼女を利用しようとしているのだろうか?


「考えるわ」イリスは約束した。「でも、あなたは何を…」


「お嬢様」部屋の外からシルヴィアの小声が聞こえた。「もうそろそろです」


時間が来てしまった。イリスはヴァルトを見た。「また会える?」


「必ず方法を見つけます」彼は決意を込めて言った。「どんな命令であれ、あなたを見守り続けます」


その言葉に、イリスの胸が締め付けしめつけられるような感覚を覚えた。彼女は思わず一歩近づき、衝動的にヴァルトの手を取った。


「約束して」彼女は囁いた。「私を一人にしないで」


ヴァルトの手が彼女の手を優しく握り返した。「誓います」


二人の手が重なった瞬間、イリスの指先から微かな紫色の光が漏れた。感情の高まりが、彼女の異能いのうを呼び覚ましたのだ。


「お嬢様」ヴァルトが警戒するように言った。「落ち着いて」


イリスは深呼吸をして、彼が教えてくれた方法で感情を抑えた。光はすぐに消えた。


「また会うわ」彼女は手を離した。「必ず」


「必ず」ヴァルトも約束した。


イリスは図書室を後にし、シルヴィアと共に自室へと戻った。彼女の心は複雑な感情で満ちていたが、一つだけ確かなことがあった。


彼女はもう、言われるままに生きる人形ではなかった。


父の宣言、セドリックの提案、そしてヴァルトの忠誠—これらすべての中で、彼女は自分自身の道を見つけなければならない。そして、その決断の時が刻一刻と近づいていた。


◆◆◆


翌朝、イリスが部屋で一人、窓の外を眺めていると、ノックの音が聞こえた。


「どうぞ」彼女が答えると、ユナが明るい笑顔で入ってきた。


「お嬢様、おはようございます!」ユナはトレイを持って中に入った。「今日は特別に、キッチンからお花のクッキーをいただいてきました!」


イリスはユナの無邪気な笑顔に、少し和らいだ気持ちになった。「ありがとう、ユナ」


「あの…」ユナが少し声を落とした。「侯爵様がお戻りになって、大変でしょう?」


イリスは微かに微笑んだ。「そうね…少し」


「でも大丈夫ですよ!」ユナは元気よく言った。「お嬢様は強いですから!」


強い—その言葉にイリスは心を動かされた。彼女はこれまで、自分を「弱い」存在だと思っていた。感情を表現できず、自分の意志で動けない人形のような存在。でも、ユナは彼女を「強い」と言った。


「ユナ」イリスは静かに尋ねた。「もし…選ばなければならないとしたら、どうする?安全だけど、自分の望まない生き方と、危険だけど、自分の望む生き方…」


ユナは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに真剣な表情になった。「それは…難しい質問ですね」


彼女は少し考え、それから言った。「私なら、たぶん…」


「たぶん?」


「勇気を出して、自分の望む方を選びます」ユナはまっすぐイリスの目を見た。「だって、一度きりの人生ですもの」


一度きりの人生—その言葉が、イリスの心に響いた。


「でも」ユナは続けた。「大切な人たちを傷つけてまで、自分の望みを通すのは違うと思います」


イリスはユナの言葉を胸に刻んだ。彼女の純粋な考えには、時に大人では見失ってしまう真実があった。


「ありがとう、ユナ」イリスは静かに言った。「あなたの言葉、大切にするわ」


ユナは明るく微笑んだ。「お役に立てたなら嬉しいです!」


彼女が部屋を出た後、イリスは窓の外を見ながら、自分の未来について考え続けた。


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