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Section6-3:イリスの涙

夜明け前の灰色の空が、ノクターン侯爵邸の尖塔を包み込んでいた。


東の空がわずかに薄紅色に染まり始めたその時、屋敷の裏門に一台の馬車が静かに待機していた。荷物を積み込む音と馬のいななきだけが、静寂を破る。


「準備はよいか?」


執事長シルクの鋭い声が、朝の冷気に切り込むように響いた。彼は手帳を片手に持ち、厳しい目でヴァルトを見つめていた。


「はい」ヴァルトは短く返事をした。


彼は黒い旅装束に身を包み、必要最小限の荷物を一つの鞄にまとめていた。獣人特有の習性で、彼は常に身軽に移動することを好んだ。


空を見上げると、まだ星がいくつか瞬いている。こんな時間に出発させるのは、イリスに気づかれないようにするための策略だとわかっていた。エドガー侯爵の思惑通りだ。


「王都までは半日の道のりだ」シルクは淡々と説明した。「ラヴェンデル男爵邸では既に貴様の到着を待っている」


ヴァルトは無言で頷いた。心の中では、ラヴェンデル男爵の噂について考えていた。異能者を狩る男。なぜエドガーは自分をあえてそこへ送るのか。単にイリスから遠ざけるだけなら、他の場所でもよかったはずだ。


「侯爵様からの最後の指示だ」シルクは手帳を閉じ、冷たい目でヴァルトを見た。「一ヶ月の間、イリス嬢とは一切の接触を禁ずる。手紙も、使者も、いかなる連絡手段も認めない」


「理解しています」ヴァルトは表情を変えずに答えた。


「それから」シルクの声がさらに低くなった。「もし命令に背けば、お前だけでなく、イリス嬢自身にも厄災やくさいが降りかかることになる」


ヴァルトの目が鋭く光った。それは明らかな脅しだった。


「どういう意味です?」


「字義通りの意味だ」シルクは冷笑を浮かべた。「侯爵様は、お嬢様の異常な感情の高ぶりたかぶりに気づいておられる。それが何を意味するか、おわかりだろう?」


ヴァルトの体が一瞬、緊張で強張った。エドガーはイリスの異能に気づいているのか?


「言いたいことはそれだけか」ヴァルトは低い声で問うた。


「ああ」シルクは一歩下がった。「行け。もう時間だ」


ヴァルトは静かに馬車に向かった。心の中では、イリスのことが去来していた。昨夜の別れ、彼女の決意に満ちた瞳、そして「大切なこと」を話すという約束。


「待て」


馬車に足をかけようとしたとき、シルクの声が再び響いた。ヴァルトは振り返らなかった。


「侯爵様が最後に言っておられた」シルクは声に嘲りを含ませた。「お前の居場所は、永遠にここではないと」


ヴァルトはその言葉を黙って受け止め、馬車に乗り込んだ。


御者が鞭を打ち、馬車がゆっくりと動き出す。門をくぐり、ノクターン侯爵邸の敷地を離れていく。ヴァルトは窓から、徐々に小さくなる屋敷を見つめた。


その時、三階の一室の窓に、かすかな光が灯るのを見た。イリスの部屋だ。彼女は今この瞬間も、彼の出発を見ているのかもしれない。


「必ず戻ります」ヴァルトは窓に向かって小さく呟いた。「命に代えても」


馬車は夜明けの霧の中へと消えていった。


◆◆◆


「お嬢様、起きてください」


シルヴィアの声にイリスは目を開いた。しかし、彼女は既に目覚めていた。実際、彼女はほとんど眠っていなかった。夜明け前から窓辺に立ち、裏門から出ていく馬車を見送っていたのだ。


「シルヴィア」イリスは窓から振り返らずに言った。「彼は行ってしまったのね」


シルヴィアは驚いたように目を見開いた。「ご存知だったのですか」


「ええ」イリスは静かに頷いた。「見送りたかったけど、そうすれば父上の怒りを買うだけだから」


シルヴィアは黙ってイリスの側に立ち、彼女の肩に優しく手を置いた。


「無事に戻ってくると信じましょう」


「ええ」イリスは首に掛けていたヴァルトの護符を握りしめた。「必ず」


「さて」シルヴィアは話題を変えるように言った。「今日はセドリック様がいらっしゃいます。準備をしなければ」


「何時に来るの?」イリスは窓から離れ、鏡台に向かった。


「午後の茶会の時間です」シルヴィアは彼女のドレスを用意しながら答えた。「お父様も立ち会われます」


イリスは鏡に映る自分の顔を見つめた。顔色は少し青白く、目の下には疲れの影が見える。昨夜の密会と、その後の不安で十分な休息が取れなかったせいだ。


「これを着せて」イリスは衣装棚から薄紫色のドレスを選んだ。普段、彼女は父の意向で白か淡いブルーのドレスを着ることが多かった。


「これですか?」シルヴィアは少し驚いた様子だった。


「ええ」イリスはきっぱりと言った。「今日は、私の色を着たいの」


シルヴィアは小さく微笑んだ。「よくお似合いになりますよ」


朝食をとりながら、イリスはセドリックとの対面に向けて心の準備をしていた。彼がいう「選択肢」とは何だろう。そして、彼女はそれを受け入れるべきなのか。ヴァルトの警告の言葉が頭に浮かんだ。


「逃げることが、本当に自由になることなのか。それとも、別の檻に入るだけなのか」


考えているうちに、体から微かな紫色の光が漏れそうになったが、イリスは深呼吸をして落ち着かせた。ヴァルトのおかげで、彼女は少しずつ自分の力をコントロールできるようになってきていた。


「お嬢様」


振り返ると、ユナが小走りでやってきた。彼女の顔には心配の色が浮かんでいた。


「ユナ」イリスは微笑んだ。「どうしたの?」


「あの…」ユナは周囲を見回し、小声で言った。「ヴァルトさん、行っちゃったんですね」


「ええ」イリスもまた声を落とした。「見送ったの?」


「いいえ」ユナは残念そうに首を振った。「でも、これ…」


彼女は小さな包みつつみをイリスに差し出した。


「何これ?」


「ヴァルトさんから」ユナは小声で説明した。「昨夜、私に渡されたんです。『絶対にお嬢様に』って」


イリスは驚いて包みを受け取った。シルヴィアがちらりと視線を送ってきたので、彼女は急いでそれをドレスのふところに隠した。


「ありがとう、ユナ」イリスは心からの感謝を込めて言った。「誰にも言わないでね」


「はい!」ユナは元気よく頷いた。「私、口堅いですから!」


イリスは思わず笑みを浮かべた。ユナの明るさは、どんな暗い気持ちも少しは晴らしてくれるようだった。


◆◆◆


午後、屋敷の応接間には緊張感が漂っていた。


イリスは背筋を伸ばし、父エドガーの冷たい視線を感じながら、紅茶のカップを静かに手に取った。彼女の選んだ薄紫のドレスは、部屋の重厚な調度品の中で一際目立っていた。


「セドリックはまだか」エドガーが不機嫌そうに尋ねた。


「もうすぐかと」シルヴィアが丁寧に答えた。


イリスは窓の外を見ていた。父が彼女の側をヴァルトから引き離したことへの怒りと、これから会うセドリックへの期待と不安が入り混じって、彼女の心は複雑だった。


「イリス」エドガーが突然声をかけた。「今日はロシュフォール家からの特別な申し出がある。セドリックとの結婚式の前に、彼らの別荘で二週間過ごすという話だ」


イリスは驚いて父を見た。「別荘?」


「ああ」エドガーの表情からは何も読み取れなかった。「セドリックとより親しくなるためだと言っていた」


結婚前に二人きりで過ごすなんて、それは社交界の常識からすれば破格はかくの提案だった。一体何を企んでいるのか。


「そんな…」イリスは言葉を選びながら言った。「通常ではないことですね」


「確かに異例だ」エドガーは同意した。「しかし、より強い同盟関係を望むロシュフォール家の意向だ。私は既に承諾した」


またも彼女の意見を聞くことなく決めていた。イリスは内心で怒りを覚えたが、表情には出さなかった。


「いつからですか?」彼女は静かに尋ねた。


「明後日」エドガーの答えは簡潔だった。


「そんなに早く?」イリスは思わず声を上げた。


その時、執事が扉をノックし、「ロシュフォール家、セドリック様がお見えです」と告げた。


「通しなさい」エドガーが命じた。


扉が開き、セドリックが華やかな笑顔で入ってきた。彼は青と金の上品な服装で、手には小さな花束を持っていた。


「エドガー侯爵、イリス嬢」彼は優雅に一礼した。「お邪魔します」


「よく来た、セドリック」エドガーは満足げに言った。「さあ、座りなさい」


セドリックはイリスの向かいの席に着き、彼女に花束を差し出した。「あなたに」


「ありがとう」イリスは静かに受け取った。花束は白と紫のアネモネで構成されていた。その選択に、彼女は少し意外に思った。アネモネは「期待」と「別れ」の両方の意味を持つ花だった。


「素敵なドレスですね」セドリックが彼女の服装に目を留めた。「紫がとてもお似合いです」


「ありがとう」イリスは小さく微笑んだ。


「セドリック」エドガーが話を切り出した。「別荘の件、イリスに話したところだ」


「ああ、そうですか」セドリックの青い目がイリスに向けられた。「僕たちの結婚前に、少し二人きりの時間を持てたらと思って」


「素敵な考えね」イリスは表面上は穏やかに答えたが、内心では警戒していた。これがセドリックのいう「選択肢」と関係があるのだろうか。


「ロシュフォール家の別荘は、北の湖畔にあるんだ」セドリックは熱心に説明した。「とても静かで美しい場所だよ。きっと気に入ると思う」


エドガーは満足げに二人を見ていた。「イリス、これは良い機会だ。未来の夫と親しくなれる」


イリスはうなずいた。「ええ、父上」


茶会は形式的に進んだ。エドガーとセドリックが政治や経済の話をする間、イリスは黙って聞いていた。しかし、彼女の意識は別のところにあった。ヴァルトからの包みつつみのことや、この突然の別荘行きの提案のことで頭がいっぱいだった。


「少し庭を散歩しませんか?」


セドリックの提案に、イリスは我に返った。


「ええ、いいわ」


「私も付き添おう」エドガーが言った。


「いえ、侯爵様」セドリックが丁寧に制した。「お忙しいでしょう。僕たちだけで大丈夫です」


エドガーは少し考えた後、「シルヴィア、付き添いなさい」と命じた。


「かしこまりました」シルヴィアがうなずいた。


三人は屋敷の庭へと出た。春の陽光が薔薇の庭を明るく照らしている。イリスが薄紫のドレスで歩く姿は、まるで庭の妖精のようだった。


「少し遅れてください」セドリックがシルヴィアに小声で言った。


シルヴィアは一瞬迷ったようだったが、イリスの小さな頷きを見て、少し距離を置いて歩くことにした。


「イリス」セドリックの声が急に真剣になった。「話せる時間がなくて申し訳ない」


「何が言いたいの?」イリスはまっすぐ彼を見た。


「あの別荘行きは、僕からの提案ではないんだ」セドリックは周囲を警戒しながら言った。「父が急に言い出したことで…」


「つまり?」


「何か企んでいる」セドリックの青い目に不安の色が浮かんだ。「僕たちの結婚を急いでいるんだ」


イリスは息を呑んだ。「なぜ?」


「わからない」セドリックは首を振った。「でも、これは僕たちにとって良い機会かもしれない」


「どういう意味?」


セドリックは声をさらに落とした。「別荘は北の国境に近い。もし私たちが望むなら…国を出ることも可能だ」


イリスの心臓が高鐘を打った。「国を…出る?」


「ああ」セドリックの目に決意の色が宿った。「あの時言った『選択肢』だよ。自由を手に入れる方法」


「でも、それは…」イリスは言葉を選んだ。「逃亡よ。父上も、あなたの父親も、私たちを探すわ」


「確かに」セドリックは認めた。「でも、北の国には私の友人がいる。彼らが私たちを匿ってくれるはずだ」


「それが、あなたの計画?」イリスは静かに尋ねた。


「君が望むなら」セドリックは彼女の手を取った。「僕は君と一緒に自由になりたい」


イリスの心は激しく揺れ動いた。セドリックの申し出は魅力的だった。政略結婚から逃れ、自分の人生を自分で選ぶ機会。でも、それは本当に彼女の望む自由なのだろうか?


「セドリック、あなたは本当に…」


「イリス嬢、セドリック様」


二人の会話を遮るように、シルクの声が響いた。執事長が庭の入口に立っていた。


「侯爵様がお呼びです」シルクは冷たく言った。目は二人を疑わしげに見ていた。


「わかりました」セドリックは表情を取り繕った。「行きましょう」


屋敷に戻る途中、セドリックは小声でイリスに言った。「考えておいて。明後日まで時間はある」


イリスは黙ってうなずいた。彼女の心は混乱していた。


◆◆◆


その夜、イリスは自室のベッドに座り、ヴァルトからの包みつつみを開いていた。


中には小さな短剣たんけんと一通の手紙が入っていた。短剣は指の長さほどで、鞘には獣人の呪術じゅじゅつ的な模様が刻まれていた。


彼女は手紙を広げた。


*「イリス様へ*


*この手紙を読んでいるということは、私は既に屋敷を離れていることでしょう。心配しないでください。必ず戻ります。*


*同封した短剣は、獣人の間で「守りの刃」と呼ばれるものです。危険を感じたとき、この刃を持っていれば、その危険を察知できると言われています。もちろん、迷信かもしれませんが…少しでもお守りになればと思います。*


*どうか無理はなさらないでください。あなたの中の力はまだ不安定です。感情が高ぶったとき、深呼吸と共に私の教えた瞑想めいそうを思い出してください。*


*そして、何よりも。どんな選択をされるにしても、それがあなた自身の望みであることを確かめてください。誰かに導かれるのではなく、あなた自身の心に従ってください。*


*一ヶ月は長く感じるかもしれませんが、必ず戻ります。その時まで、どうかご無事で。*


*忠実なる執事より」*


イリスは手紙を胸に抱きしめた。ヴァルトらしい言葉だった。彼は自分の意見を押し付けるのではなく、彼女自身の判断を尊重している。


彼女は短剣を手に取り、その冷たさを感じた。「守りの刃」——ヴァルトの気持ちが込められたお守り。


明後日、彼女はセドリックと共に別荘へ向かう。そして、そこでの決断が彼女の人生を大きく変えることになるだろう。


「どうすればいいの…」イリスは窓の外の月を見上げながら呟いた。


ノックの音がして、シルヴィアが入ってきた。彼女はイリスの様子を見て、すぐに手紙と短剣に気づいたが、何も言わなかった。


「お嬢様、お休みの時間です」彼女は静かに言った。


「シルヴィア」イリスが尋ねた。「あなたなら、どうする?自由を求めて全てを捨てる道と、安全だけど望まない道…」


シルヴィアは長い間黙っていた。そして、静かに言った。「私はかつて、安全な道を選びました。それは間違いではなかったと思います。でも、時々考えるのです…もし勇気があれば」


「勇気…」イリスはその言葉を反芻した。


「でも、お嬢様」シルヴィアが続けた。「自由とは何でしょう?本当の自由とは、ただ逃げることではなく、自分の心に正直に生きることなのかもしれません」


イリスはヴァルトの手紙を思い出した。「自分自身の望みであることを確かめてください」


「ありがとう、シルヴィア」イリスは微笑んだ。「考えてみるわ」


シルヴィアが部屋を出た後、イリスはベッドに横になったが、眠れなかった。彼女の心は様々な思いで渦巻いていた。


ヴァルトは今どこにいるのだろう?無事に王都に着いただろうか?ラヴェンデル男爵の邸宅は、本当に彼にとって危険な場所なのだろうか?


「守ってあげられない」イリスは悔しさで胸が痛んだ。「私が守られるばかりで、あなたを守ってあげられない」


彼女のその思いと共に、指先から紫色の光が漏れ始めた。イリスはそれに気づき、慌てて深呼吸をした。


「落ち着いて…」彼女は自分に言い聞かせた。「ヴァルトが教えてくれたように…」


彼女が呼吸を整えていると、突然、ノックの音なしにドアが開いた。


「イリス」


エドガー侯爵の姿が現れた。イリスは驚いて身を起こした。父が彼女の部屋に来るなど、めったにないことだった。


「父上?」


「何をしている」エドガーの視線が鋭く彼女の手元に向けられた。


イリスは慌てて短剣と手紙を隠そうとしたが、遅かった。


「何だそれは」エドガーが冷たく言った。「見せなさい」


「これは…」イリスは言い訳を考えようとしたが、父は既に彼女の手から短剣を奪っていた。


「獣人の護符おふだか」エドガーの顔に怒りの色が浮かんだ。「あの獣から贈られたものか」


「返してください」イリスは勇気を振り絞って言った。


「まさか」エドガーは短剣を握りしめた。「お前はノクターン家の令嬢だ。こんな下賎なものを持つべきではない」


「それは私の大切なものです」イリスの声が強くなった。


「大切?」エドガーの目が危険に細められた。「あの獣とお前の間に、何があったんだ?」


「何もありません」イリスはきっぱりと言った。「ただ、私の執事として敬意を持っているだけです」


「執事だと」エドガーは冷笑した。「執事は道具だ。敬意を持つべき対象ではない」


「ヴァルトは道具じゃありません」イリスは声を上げた。「彼は人間です。獣人だけど、誰よりも人間らしい心を持っています」


エドガーの表情が一瞬で憤怒ふんぬに変わった。「イリス、お前はどうしてしまったんだ」


「父上こそ」イリスは立ち上がった。「どうして人を人とも思わないのですか。ヴァルトが獣人だというだけで、そんなに蔑むなんて」


「黙れ!」エドガーが怒鳴った。「そんな言葉遣い、どこで覚えた。あの獣のせいで、お前は壊れてしまった」


「壊れた?」イリスは悲しげに笑った。「違います。私はむしろ、初めて目を覚ましたんです」


エドガーはイリスを睨みつけた。その目には怒りだけでなく、恐怖のようなものも浮かんでいた。


「これ以上はないぞ」彼は低く恐ろしい声で言った。「明後日、お前はロシュフォール家の別荘に行き、セドリックと過ごす。そして、あの獣との縁は完全に断つ」


「父上、お願いします」イリスの声が震えた。「短剣だけでも返してください」


「二度と言うな」エドガーは短剣を握りしめたまま、部屋を出ようとした。


その瞬間、イリスの中で何かが決壊した。長年抑え込んできた感情、父への恐れ、ヴァルトへの思い、そして自分自身の無力さへの怒り。


「返してください!」


彼女の叫びと共に、部屋中の物が揺れ始めた。窓ガラスが震え、鏡台の上の小物が床に落ちる。そして、イリスの全身が薄紫色の光に包まれた。


エドガーは呆然と彼女を見つめた。「まさか…」


「この人だけは奪わないで…」イリスの目から涙が溢れた。「もう何も奪わないで!」


紫色の光がさらに強くなり、部屋中の物が宙に浮き始めた。イリスは自分でも何が起きているのか理解できなかった。ただ、心の中の感情が制御不能に溢れ出しているのを感じていた。


「やはり、お前も…」エドガーの声には恐怖と怒りが混じっていた。「お前の母親のようだ」


「母のよう?」イリスは混乱した目でエドガーを見た。


その時、部屋のドアが勢いよく開き、シルヴィアが飛び込んできた。


「お嬢様!」彼女はすぐにイリスの側に駆け寄った。「落ち着いて!」


「シルヴィア…」イリスの声は震えていた。「どうして…止まらないの」


「深呼吸をして」シルヴィアはイリスの両肩をしっかりと掴んだ。「ヴァルトさんが教えた通りに」


エドガーは震える部屋の中で、娘の異能の発現を目の当たりにして立ち尽くしていた。彼の顔には怒りと恐れが入り混じっていた。


「これがあの獣の教えか」彼の声が氷のように冷たかった。「やはり、あやつはお前を…」


「黙ってください!」イリスの叫びと共に、部屋の窓ガラスに亀裂きれつが入った。「ヴァルトのせいじゃない!私の感情は、あなたが…父上があなたが押さえつけたから!」


紫色の光が周囲の空気を震わせていた。シルヴィアはイリスを落ち着かせようと必死だった。


「お嬢様、お願いです」彼女は静かに、しかし力強く言った。「ヴァルトさんのことを思い出して。彼がここにいたら、何と言うでしょう?」


イリスは目を閉じた。ヴァルトの顔、彼の穏やかな声、彼の教え。「感情に飲み込まれるのではなく、それを受け入れる」


少しずつ、彼女の呼吸が整い始めた。光も徐々に弱まっていく。


「それでいいのです」シルヴィアが優しく言った。「そのまま…」


部屋に落ち着きが戻り始める中、エドガーは冷たい目でイリスを見ていた。


「やはり出たか」彼はまるで恐ろしいものを見るかのように言った。「お前の中の呪いのろいが」


「呪いではありません」シルヴィアが突然、強い声で言った。「お嬢様の力は、ノクターン家に代々伝わる宿命しゅくめいです」


「黙れ」エドガーがシルヴィアを睨みつけた。「お前も同罪だ。これを知っていながら、隠していたな?」


「お母様の意志を守っていただけです」シルヴィアは怯むことなく言い返した。


「母の…?」イリスの目に驚きの色が浮かんだ。


エドガーは短剣を握りしめたまま、冷たく言った。「もう選択肢はない。明日にでも魔法監視局まほうかんしきょくに連絡する。イリスの力を封印してもらうしかない」


「封印?」イリスは恐怖で顔が青ざめた。「何を言ってるの?」


「お前の母もそうだった」エドガーは苦々しく言った。「あの力を制御できず、暴走させた。最後には自らを滅ぼした」


「母が…私と同じ?」


「だから私は」エドガーはきっぱりと言った。「お前を感情から遠ざけようとした。感情が高ぶれば、力も暴走する。お前を守るためだったのだ」


イリスは信じられない思いで父を見つめた。「私を守るため?私をずっと人形のように扱って?」


「それが最善だった」エドガーは冷淡に言った。「だが、あの獣があなたの心を乱した。これ以上ないな」


彼は部屋に背を向け、扉に向かった。


「父上!」イリスが叫んだ。「短剣を返して!」


エドガーは振り向きもしなかった。「これは処分する。もうお前とあの獣の間に繋がりは必要ない」


「父上、お願いします」イリスの声が切羽詰まってきた。「この人だけは…この人だけは奪わないで」


その懇願に、エドガーはわずかに足を止めた。しかし、すぐに歩き出した。


「もう遅い」彼はドアを開けながら言った。「明日までに部屋の修復を終わらせ、明後日には予定通り別荘へ向かう。それまでお前はこの部屋から出てはならない」


ドアが閉まる音が、イリスの心に重く響いた。


「お嬢様…」シルヴィアが心配そうに彼女を見つめた。


イリスはベッドに崩れ落ち、顔を両手で覆った。「もう…どうすればいいの」


「まずは落ち着きましょう」シルヴィアは彼女の隣に座った。「今起きたことは…」


「母のことを知っていたのね」イリスは彼女を見た。「私と同じ力を」


シルヴィアは長い間黙っていた。そして、ゆっくりと頷いた。「はい。お母様もまた、感情と連動する異能を持っておられました」


「父が言った『自ら滅ぼした』って、どういう意味?」


「お母様は…」シルヴィアの目に悲しみが浮かんだ。「ご自分の力を制御できず、最後には自らをむしばんでしまったのです」


イリスは言葉を失った。母の死因を「病」としか聞かされてこなかった彼女にとって、これは衝撃的な真実だった。


「だから父は…私を感情から遠ざけようとしたの?」


「侯爵様なりの愛情だったのかもしれません」シルヴィアは静かに言った。「しかし、それは間違っていました。お母様も同じことを言っておられました」


「母が?」


「はい」シルヴィアの顔が柔らかくなった。「お亡くなりになる前、お母様は『イリスには感情を抑えるのではなく、受け入れることを教えて』と」


その言葉に、イリスの胸が熱くなった。それはまるで、ヴァルトが彼女に教えていたことと同じだった。


「でも、今となっては…」イリスは窓の外の夜空を見つめた。「ヴァルトは遠くに行ってしまった。短剣も奪われた。私は…」


「お嬢様」シルヴィアが決意を込めて言った。「まだ諦めるには早いです」


「どういう意味?」


「侯爵様が魔法監視局まほうかんしきょくに連絡する前に、私たちにできることがあります」


「何?」


シルヴィアは立ち上がり、自分の胸元から小さな鍵を取り出した。「お母様からの遺品があります。あなたにお見せするべき時が来たようです」


イリスは驚いてシルヴィアを見つめた。「母からの…?」


「はい」シルヴィアは微かに微笑んだ。「そして、それがあなたの選択の助けになるかもしれません」


「選択?」


「セドリック様の申し出を受けるか、それとも…」シルヴィアは窓の外を見た。「別の道を選ぶか」


イリスの心に希望の灯りが点った。まだ終わりではない。彼女にはまだ、選択する力がある。


「シルヴィア」イリスは立ち上がり、彼女の手を握った。「教えて。私に何ができるの?」


二人の間に静かな決意が流れた。窓の外では、夜空に星が煌めいていた。


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