朝靄の彼方から姿を現した山々が、まるで新たな世界の幕開けを告げるかのように輝いていた。ラヴェンデル男爵邸を後にした一行は、辺鄙な山道を黙々と歩いていた。
イリスは時折、ヴァルトの方をちらりと見やった。彼の逞しい横顔は相変わらず無表情だったが、その眼差しには確かな温もりが宿っていた。
「あの…」ユナが、不安げに周囲を見回しながら口を開いた。「これからどこへ行くんですか?」
シルヴィアが鷹揚に応じる。
「ミル=グランという村を目指します。王国からは離れた場所ですが、異能者たちが隠れ住む安全な場所よ」
「まさか、そんな場所があったとは」セドリックが眉を上げた。
彼の洗練された立ち振る舞いは、この荒野においてさえ失われていなかった。しかし、その青い瞳の奥には何か翳りのようなものが潜んでいる。イリスはそれに気づいていた。
「あなたは危険いところに巻き込んでしまったわね」イリスがセドリックに向かって謝るように言った。
「いや」セドリックは微笑みを浮かべる。「これは私の選択さ。後悔なんてしていない」
セドリックの言葉に、ヴァルトがわずかに視線を向けた。二人の男の間に一瞬、不思議な緊張が走る。
「でも、セドリック様のご身分で、こんな山道を」ユナが心配そうな顔をする。「王都ではどんな噂が立つか…」
「ふふ」セドリックが軽く笑った。「私がいなくなって初めて気づく人もいるだろうさ。『あれ?あの陽気な貴族、最近見ないな』って」
その自嘲気味な言葉に、イリスは思わず足を止めた。
「セドリック…」
「いいんだ」彼は手を振った。「実は少し話があってね。みんなで休憩しないか?」
セドリックの提案に、一行は小さな空地に腰を下ろした。木洩れ日が彼らの疲れた顔を優しく照らす。
「私は」セドリックが静かに口を開いた。「ここで皆と別れようと思う」
「え?」ユナが目を丸くした。
イリスも驚いて瞳を見開く。ただヴァルトだけは、何か予期していたかのように静かな眼差しを向けていた。
「何を言い出すんですか」シルヴィアが眉をひそめる。「今さら王都に戻るおつもりですか?それは危険です」
「いや、王都には戻らない」セドリックは髪を嗜みながら答えた。「西の国境に向かうつもりだ」
「国境…」イリスが呟く。
「そう」セドリックの瞳に決意の色が宿る。「私はロシュフォール家に確かな後継者がいることを、今こそ証明しなければならない。革命とまでは言わないが…この国の異能者に対する政策を変えるために」
誰もが黙り込んだ。セドリックの言葉には、単なる別れ以上の重責が感じられた。
「あなたは…」イリスが躊躇いがちに口を開く。「そこまでするつもりなの?」
「イリス」セドリックは真剣な表情で彼女を見つめた。「君との出会いが私を変えたんだ。儚い薔薇のような美しさだけを持つ令嬢だと思っていたのに、君の中には強い意志が秘められていた」
カッと顔が熱くなるのを感じながら、イリスは俯いた。それを見て、ヴァルトの眉間にほんの少し皺が寄る。
「私の役目は、最初から『君を自由にする手伝い』だったのかもしれない」セドリックは切なそうに微笑んだ。「政略結婚の相手として現れたはずなのに、皮肉なものだ」
「その…」イリスが何か言いかけると、セドリックは軽く手を振った。
「いや、心配しないで。私は君の選択を尊重している」彼はさりげなくヴァルトの方を見た。「君には守るべき人がいる。そして私には、私の道がある」
「うぅっ…」
ユナがいきなり嗚咽を漏らし始めた。大粒の涙が彼女の頬を伝う。
「ユナ?」イリスが驚いて振り向く。
「だっ、だって…」ユナは袖で涙を拭いながら喚いた。「セドリック様、優しいのに…お別れなんて…ひどすぎます!」
その率直な反応に、場の緊張が少し和らいだ。セドリックは憮然とした表情を浮かべながらも、小さく笑った。
「ユナちゃん、これは別れではないよ。私たちは必ずまた会う」
「本当ですか?」ユナが赤い目で見上げる。
「ああ」セドリックはキッと眼差しを引き締めた。「私は必ず、異能者が蔑まれることのない世界を作る。そしてその時、みんなで王都の華やかな宮廷舞踏会で踊るんだ」
シルヴィアがため息をついた。
「相変わらず大風呂敷を広げますね」
「でも」イリスは真剣な表情でセドリックを見つめた。「私、信じてる。あなたなら、きっとできると」
「ありがとう」セドリックの瞳が潤んだ。「その言葉が何より嬉しい」
イリスは感じていた。彼の決意は、単なる気紛れではない。かつて彼女が見た「どこか諦めたような目をした青年」は、今や確かな炎を宿している。
ヴァルトが突如として立ち上がった。
「行く道は違えど、目指す先は同じかもしれませんね」
意外な言葉に、セドリックは驚いたように目を見開いた。ヴァルトはめったに自分から話しかけることはなかったのだ。
「ヴァルト…」
「あなたはイリス様を守ろうとしてくれた」ヴァルトは剣呑な眼差しを片時も崩さずに言った。「それだけで、私にとってはもう敵ではない」
「なんだ」セドリックが嗤った。「君からそんな言葉をもらえるとは思わなかった」
「勘違いしないでください」ヴァルトは素っ気なく言い返した。「単に事実を述べただけです」
「ふふっ」イリスが思わず微笑んだ。「二人とも、本当は似ているのかもしれないわね」
「似ているなんて」
「似ているわけがない」
二人の男が同時に否定したことで、場の空気が一気に和らいだ。ユナはまだ啜り泣いていたが、シルヴィアの口元にも柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「では、この後のことを話しましょうか」シルヴィアが実務的な口調で話し始めた。「セドリック様は西へ、私たちは北東のミル=グラン村へ。道中の安全を考えると…」
しかし、イリスの心はすでにシルヴィアの言葉を聞き流していた。彼女の視線は、ヴァルトとセドリックの間を彷徨っていた。
二人の男性は、どちらも彼女のために戦おうとしていた。一人は影として傍らで、もう一人は遠くから光として。
「セドリック」
シルヴィアの説明が終わると、イリスは静かに声をかけた。
「何かあれば、いつでも力になるわ。私にできることなら」
セドリックは嬉しそうに目を細めた。
「それは心強いね。そうだ、思い出した」
彼はポケットから小さな宝石を取り出した。わずかに青く光るそれは、かつて彼が最初の舞踏会でイリスに贈ろうとしていた首飾りのペンダントだった。
「これをヴァルトに渡そうと思ってね」
「え?」イリスは驚いた。
「私に?」ヴァルトも同様に驚いた様子だった。
「そう」セドリックは厳かな面持ちで言った。「このブルーダイヤには、古代から伝わる護符の呪術が施されている。持つ者の大切な人を守るという」
「そんな…」ヴァルトは困惑した表情を隠せない。「私にはそのような貴重品は…」
「いいから受け取れ」セドリックは強引にヴァルトの手にそれを押し込んだ。「イリスを守るという点では、君の方が私より相応しい」
ヴァルトは黙って宝石を見つめていた。太陽の光を受けて、それは海の底から掬い上げた一滴の水のように輝いた。
「ありがとう」ヴァルトはついに呟いた。「大切にします」
「それでこそ」セドリックは満足げに頷いた。「私の目利に間違いはなかった」
イリスにはわかっていた。セドリックのこの行為は、単なる別れの品を渡す以上の意味があった。それは彼なりの祝福であり、そして決別の証でもあった。
「じゃあ」セドリックは軽い足取りで立ち上がった。「そろそろ行こうか」
「今?」ユナが驚いて声を上げた。「もう少し一緒に…」
「いいや」セドリックは優しく首を振った。「別離は短い方がいい。長々と惜別の言葉を交わしていると、余計に辛くなるだけさ」
彼は一人ひとりに目配せをした。
「シルヴィア、君の機転には本当に助けられたよ」
「ユナちゃん、君の純粋な笑顔をいつまでも忘れないよ」
「ヴァルト、彼女を幸せにしてくれ。それだけだ」
そして最後に、イリスの前で立ち止まった。
「イリス」
セドリックは丁寧に一礼した。それは社交界の形式的な挨拶ではなく、一人の人間としての敬意を表すものだった。
「あなたに出会えて本当に良かった」
「セドリック…」イリスの胸に込み上げるものがあった。「私こそ…あなたに感謝してる」
彼は柔らかく微笑み、そっとイリスの手を取った。その手に軽く唇を触れさせると、すぐに離した。
「さようなら、ではなく」セドリックは朗らかに言った。「また会おう、だ」
そして彼は振り返ることなく、西へと続く山道を歩き始めた。その背中は凛として、どこか潔さすら感じさせた。
思案顔でセドリックの後ろ姿を見送りながら、イリスは小さな溜息をついた。彼女の心には、彼との出会いから今日までの記憶が走馬灯のように駆け巡っていた。
「イリス様」
ヴァルトの静かな声に、彼女は我に返った。
「ええ?」
「行きましょう」ヴァルトは穏やかに言った。「私たちにも、進むべき道があります」
「そうね」イリスは頷いた。
彼女は最後にセドリックの背中を見つめた。彼の姿は既に遠く、山の稜線と重なりつつあった。
(きっとまた会えるわ。次はもっと強くなって)
イリスは心の中でそう誓った。彼女たちの旅路は、まだ始まったばかり。そして、その道がどこへ続くのかは誰にもわからない。
しかし、確かなことが一つだけあった。彼女はもう一人ではないということ。
「行きましょう」イリスは静かに言った。「私たちの居場所を探しに」
ヴァルトは無言で頷き、イリスの横に並んだ。時折擦れ違う二人の腕が、互いの存在を確かめるように。
ユナはまだ涙目で、シルヴィアは慈愛に満ちた眼差しでイリスを見守っていた。四人はミル=グラン村へと向かう山道を、静かに歩き始めた。
青く澄んだ空の下、新しい一歩は、思ったよりも軽やかだった。