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Section9-3:ヴァルトとの誓い、「この手で未来を選ぶ」

夕陽が山の端を橙色に染め上げる頃、イリスたちは小さな峠の上に辿り着いた。セドリックと別れてから半日、彼らは黙々と山道を歩き続けていた。


「あれがミル=グラン村です」


シルヴィアが遙か下の谷間を指さす。霞の向こうに小さな民家の屋根が点々と見える。まるで昔話に出てくる隠れ里のような佇まいだ。


「やっと着きました!」


ユナが小さな歓声を上げる。長旅で疲弊していたはずなのに、彼女の瞳は相変わらず輝きを失わない。


「まだ到着ではないわ」シルヴィアがクールに言葉を返す。「この峠を下りるだけで、日が暮れるでしょう」


「えぇっ!」ユナが肩を落とす。「もう歩けないよぅ…」


その仕草に、イリスは小さく笑みを漏らした。かつての箱入り令嬢である彼女でさえ、今では足の痛みを訴えずにここまで来たというのに。


「ここで少し休憩しましょう」


イリスの提案に、皆が頷いた。岩場に腰を下ろした彼女は、眼下に広がる景色を見つめる。これが彼女が選んだ道——自由と引き換えに得た不確かな未来の景色。


ふと気づくと、ヴァルトが少し離れた場所に佇んでいた。


「ヴァルト」


イリスが声をかけると、彼は静かに振り向いた。彼の琥珀色の瞳には、何か思案めいたものが宿っている。


「何かあったの?」


「いえ…」ヴァルトは言いよどんだ。「少し考え事を」


「私に話してくれないかしら?」


イリスが柔らかく尋ねる。かつての彼女なら、執事の考えを詮索するなど考えもしなかっただろう。だが今は違う。彼は彼女にとって、ただの従者ではないのだから。


「お嬢様…いえ、イリス様」


ヴァルトは言葉を選ぶように間を置いた。


「私は…本当にあなたのそばにいても良いのでしょうか」


その真摯な問いに、イリスは少し驚いた。


「どういう意味?」


「あなたは今、自分の意志で歩み始めた」ヴァルトの声は低く、しかし確かだった。「私のような者が傍にいることで、その歩みを邪魔してしまうのではないかと」


イリスは黙って彼の言葉に耳を傾ける。


「私は獣人。いつか村に着いても、人々の蔑みの目にさらされるでしょう。そして…あなたまでもが」


ヴァルトの言葉には悔しさと諦めが混じっていた。彼はイリスのために捕らわれの身となったばかりか、今も彼女の将来を案じているのだ。


「ヴァルト」


イリスはゆっくりと立ち上がり、彼の前に立った。山の風が二人の間を通り抜け、彼女の銀髪を優しく揺らす。


「あなたは何も分かっていないわ」


彼女の言葉に、ヴァルトは少し驚いたように目を見開いた。


「私が自分の意志で選んだのは、『あなたのいる未来』よ」


その言葉は風よりも静かに、しかし岩よりも確かに彼の心に届いた。


「イリス様…」


「蔑まれても構わない。辛いことがあっても構わない」イリスは一歩、彼に近づいた。「あなたがいてくれるなら、私はどんな未来でも恐れない」


ヴァルトの琥珀色の瞳が、夕陽の光を受けて揺らめいた。


「でも、なぜ」彼は囁くように問うた。「なぜ私のような者を…」


「それはね」


イリスは小さく微笑んだ。


「あなたは私を『お嬢様』と呼んでくれたけれど、同時に『イリス』として見てくれた。あなたは私の中の『人形』ではなく、『人間』を見てくれた最初の人だから」


ヴァルトは言葉を失ったように立ち尽くした。イリスは迷わず、彼の手を取った。大きく逞しい彼の手は、彼女の小さな手と不思議なほどしっくりと馴染んだ。


「あなたのおかげで、私は『感情』を知った」イリスは続けた。「怒りも、悲しみも、そして…」


彼女は一瞬言葉を躊躇った。まだ、その感情に名前をつける勇気が持てなかった。


「イリス様、私は…」


ヴァルトの言葉が途切れた瞬間、突然辺りが薄暗くなった。二人が驚いて空を見上げると、黒い雲が急速に幕を広げるように拡がっていた。


「雷雨ですね」シルヴィアが冷静な声で言った。「急いで下山しましょう」


彼女の言葉に、全員が慌ただしく荷物をまとめ始めた。だがその時、山道の向こうから人影が現れた。


「誰か来るわ」イリスが警戒して声を潜める。


全員が緊張する中、姿を現したのは、皺だらけの顔をした老婆だった。彼女はイリスたちを見ると、杖をついた侭立ち止まった。


「まぁ、こんな所で若い人たちに会うとはね」老婆は賑やかな声で言った。「あんたたち、ミル=グランに行くところかい?」


「はい」シルヴィアが慎重に答える。「私たちは…」


「異能者だろ?」老婆がくすりと笑った。「分かるさ。この老眼でも、その子の瞳の色は特別だってことくらい」


イリスを指す老婆の指に、皆が緊張した。しかし、老婆は穏やかな笑みを崩さない。


「心配せんでもいいよ。私もこの村の住人さ。こんな山奥まで来る奴は、みんな同じ理由よ」


その言葉に、少しだけ緊張が解れた。


「雷雨になるよ」老婆は空を見上げた。「私の小屋まで来なさい。村までは遠いからね」


「でも…」イリスが躊躇いを見せる。


「信用できるか心配かい?」老婆はくすくすと笑った。「ま、獣の若いの」彼女はヴァルトを見た。「あんたなら分かるでしょ?私が嘘をついてるか」


ヴァルトは静かに老婆を睨みつけ、そして小さく頷いた。


「敵意はないようです」


「でしょ?」老婆は愉快そうに言った。「さあ、急ぎなさい。もうすぐ土砂降りよ」


老婆に導かれ、一行は山道を下り始めた。果たして、彼女の言葉通り、程なくして大粒の雨が降り始めた。


「ほら、あそこよ!」


老婆が指さす先に、小さな藁葺きの小屋が見えてきた。皆は急いで小屋に駆け込んだ。


中は意外にも広く、暖炉の火が温かな明かりを灯していた。壁には薬草が吊るされ、どこか懐かしい香りが漂う。


「さ、濡れた服を脱ぎなさい」老婆が手際よく毛布を取り出す。「風邪をひいたら面倒だからね」


イリスは躊躇いがちに毛布を受け取った。「ありがとうございます…その、お名前は?」


「ソフィアと呼んでおくれ」老婆——ソフィアは微笑んだ。「昔は『風読みのソフィア』なんて呼ばれたもんさ」


「風読み?」ユナが好奇心いっぱいの眼差しで尋ねた。


「異能の一つよ」ソフィアは当たり前のように答えた。「風の囁きが聞こえるんだ。今日はね、風が『客人が来る』って教えてくれたんだよ」


皆は言葉を失った。まさか、この老婆もまた異能者だったとは。


「それじゃあ、あなたもこの村に…」


「そうさ」ソフィアは頷いた。「この村には私みたいのがたくさんいるよ。王国で居場所をなくした者たちがね」


ソフィアは暖炉の火を掻き立てながら続けた。


「でも、あなたたちは少し違うね。特にあんた」彼女はイリスを見た。「貴族の娘だね?」


イリスは少し驚いたが、素直に頷いた。「ええ、でも今は…」


「今は関係ないさ」ソフィアが笑った。「ここじゃ皆平等よ。異能も、身分も、種族も関係ない」


彼女はヴァルトにも目配せをした。「獣人も珍しくないんだ、この村じゃね」


ヴァルトの表情に、わずかな驚きが走った。


「皆様」シルヴィアが丁重に頭を下げた。「私たちを受け入れていただけますか?」


「それはね」ソフィアは意味深な笑みを浮かべた。「あんたたち次第さ。特に」彼女はイリスとヴァルトを見た。「あんたたち二人の覚悟次第だね」


「覚悟」イリスが問う。


「そうさ」ソフィアは重々しく頷いた。「この村には掟があってね。『自分の運命は自分の手で切り拓く』これが私たちの生き方さ」


彼女は窓の外、雨の音に耳を澄ませるように少し黙り込んだ。


「皆、少し休みなさい」ソフィアは急に立ち上がった。「夕飯の支度をするよ。若い二人は、ちょっと外の土間に薪を取りに行っておくれ」


彼女の唐突な提案に、イリスとヴァルトは戸惑いの色を浮かべた。しかし、ソフィアの目配せとシルヴィアの微かな頷きに、二人は従うことにした。


外の土間は屋根付きで、雨を凌ぐことができた。山の雨は凄まじく、まるで天が泣いているかのような音を立てている。


「あの方、不思議な人ね」イリスが呟いた。


「ええ」ヴァルトは静かに応えた。「しかし、嘘はついていないと思います」


二人は薪を拾い集め始めた。それは建前に過ぎず、ソフィアが彼らに「二人だけの時間」を与えてくれたのだとイリスには分かっていた。


「ヴァルト」


イリスが思い切って口を開いた。


「さっきの話の続きをしてもいいかしら」


ヴァルトの手が一瞬止まった。彼は黙ったまま薪を抱え、イリスの真正面に立った。


「イリス様」彼の声は真剣だった。「私はあなたのために命を懸けることを選びました。それは執事としての義務からではなく…」


彼は言葉を探すように間を置いた。


「私の意志として」


イリスの胸が高鳴った。


「だから」ヴァルトは続けた。「あなたがどんな道を選ぼうとも、私は傍にいることを許してほしい。それが私の願いです」


彼の真摯な眼差しに、イリスの心は震えた。これまで誰も彼女にこんな風に懇願したことはなかった。権力でも、命令でもなく、ただ一人の人間としての願い。


「ヴァルト…」


イリスは勇気を振り絞った。今言わなければ、きっと二度と言えない気がした。


「私はね、あなたに会って初めて知ったの」


彼女は真直に彼の目を見つめた。


「『心が温かくなる』ということを」


ヴァルトの瞳が揺れた。


「あなたが私を守ってくれるように、私もあなたを守りたい」イリスは一歩、彼に近づいた。「だから…一緒に歩いてほしい。これからの道を」


彼女の言葉に、ヴァルトの逞しい体が微かに震えた。その琥珀色の瞳に、感情の炎が灯る。


「イリス様…それは」


「執事と主人としてではなく」イリスは遮るように言った。「一人の人間として、あなたと共に生きたいの」


雨の音が激しさを増す。まるで二人の鼓動に合わせるかのように。


「では…誓いを」ヴァルトが静かに言った。


「誓い?」


「ええ」彼は薪を脇に置き、真剣な表情で彼女の前に膝をついた。まるで騎士が主君に忠誠を誓うように。


「イリス」


彼は初めて、敬称なしで彼女の名を呼んだ。その声音に、イリスの全身が震えた。


「私はあなたに誓います」ヴァルトの声は低く、しかし確かだった。「どんな時も、あなたの側にいることを。あなたの選ぶ道を、共に歩くことを」


彼は片手を胸に当て、もう片方の手を彼女に差し出した。


「そして…一人の男として、あなたを愛することを」


その言葉に、イリスの頬に熱いものが伝った。それは涙だった。彼女は彼の差し出した手に、自分の手を重ねた。


「ヴァルト」彼女は震える声で応えた。「私も誓うわ。この手で未来を選び、そしてその未来をあなたと共に生きることを」


彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ヴァルトは立ち上がり、イリスを抱きしめていた。彼の腕の中は温かく、安全で、そして何故か懐かしいような感覚さえあった。


「イリス…」


ヴァルトが彼女の名前を囁いた。その声音は、今までのどんな言葉よりも甘く、深い愛情に満ちていた。


イリスは顔を上げ、彼を見つめた。今まで冷静沈着だったヴァルトの顔に、切ない感情が浮かんでいる。


彼は静かに身を屈め、彼女の唇に自分の唇を重ねた。


その瞬間、イリスの中で何かが花開いた。温かな光が全身を包み込むような感覚。これが「愛」という感情なのだと、彼女は初めて理解した。


唇が離れたとき、二人の間に微かな紫の光が灯っていた。イリスの異能が、彼女の感情に応えて現れたのだ。しかしそれは暴走ではなく、穏やかな祝福のような光だった。


「あなたを愛してる、ヴァルト」


イリスは初めて、その感情に名前をつけた。


「私も、イリス」ヴァルトは彼女の額に優しく唇を押しあてた。「これからも、ずっと」


二人の誓いを、雨の音だけが証人として聞いていた。しかし、それだけで十分だった。


「お、いいところに来たねぇ」


突然の声に、二人は慌てて離れた。入口には、楽しそうに目を細めるソフィアが立っていた。


「薪はどうしたの?」彼女は意地悪く笑った。「まぁいいさ。夕食ができたよ。早く入っておいで」


そう言うと、彼女は意味深に笑って中へと戻って行った。


二人は顔を見合わせ、思わず笑いが込み上げた。イリスの笑顔は、人形のように作ったものではなく、心からの喜びに満ちていた。


「行きましょう」イリスはヴァルトの手を取った。「みんなが待ってるわ」


二人は共に小屋へと戻った。雨はまだ降り続けていたが、彼らの心は晴れやかだった。


明日から始まる村での暮らし。それがどんなものになるかは誰にもわからない。しかし、イリスはもう恐れてはいなかった。


彼女は自分の手で未来を選んだのだから。そしてその未来には、確かにヴァルトがいるのだから。

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