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Section9-4:王都を離れ、新たな道へ

朝の露が草葉を濡らす頃、ソフィアの小屋は慌だしい気配に包まれていた。昨夜の雨は上がり、眩しいほどの朝日が峠の向こうから差し込んでいる。


「お嬢様、お荷物はこれで全てですか?」


シルヴィアが几帳面に荷物を確認する様子に、イリスは微笑んだ。


「ええ、でも…『お嬢様』はもうやめてくれないかしら?」


「それは…」シルヴィアは戸惑いの表情を浮かべた。


「イリスでいいの。もう箱入り令嬢でもなければ、ノクターン家の跡取り娘でもないわ」


イリスの言葉に、シルヴィアは複雑な表情で頷いた。長年の慣習を断ち切ることの難しさが、彼女の目に滲んでいる。


「分かりました、イリス…さま」


「まだ『様』がついているわね」イリスは茶目っ気たっぷりに笑った。「でも、まぁいいわ。少しずつ慣れていきましょう」


ユナが大袋を抱えて駆け込んできた。


「イリスお嬢様!村の人から頂いたお米と干し肉ですよ!」


彼女は相変わらず「お嬢様」と呼ぶが、イリスはもう無理に訂正しようとはしなかった。それもまた、彼女たちの関係の一部なのだから。


「ありがとう、ユナ」


ヴァルトが黙々と荷物を纏めている背中を見て、イリスの胸が温かくなる。昨夜の誓いの言葉と唇の感触が鮮烈に蘇る。思わず頬が熱くなった。


「どうしたんだい、顔が赤いよ?」


ソフィアの意地悪な笑みにイリスは慌てて手で頬を覆った。


「べ、別に!」


「若いっていいねぇ」老婆は含み笑いをした。「さて、そろそろ時間だ。村の広場で集会が始まる。そこで皆に紹介するよ」


「集会?」イリスは少し緊張した表情になる。「私たちは歓迎されるのかしら…」


「大丈夫さ」ソフィアは優しく頷いた。「この村は『逃げてきた者たち』で成り立っている。皆、似たような境遇だ」


彼女は戸口へと向かいながら続けた。


「ただ、覚悟はしておきな。この村には異能者だけでなく、獣人も、落魄した貴族も、様々な人間がいる。全員が最初から心を開くわけじゃない」


ヴァルトが黙って荷物を背負いながら、静かに言った。


「それは当然のことです。信頼は勝ち取るものですから」


ソフィアは意外そうな表情でヴァルトを見つめた。


「あんた、見所があるね」


全ての準備が整い、一行はソフィアの小屋を出た。朝露に濡れた山道を下りながら、眼下に広がるミル=グラン村が徐々に鮮明になっていく。


昨夜の雨で洗われた村は、朝日を浴びて宝石のように輝いていた。茅葺の民家、小さな畑、緩やかに流れる小川世捨て人たちの楽園とでも言うべき景色。


「素敵な村ね…」イリスが呟いた。


「見目麗しく見えるだろう?」ソフィアは含み笑いながら歩き続ける。「でもね、ここに来る道は誰一人として平坦じゃなかった。皆、傷を抱えている」


山道を半分ほど下りたところで、彼らは一団の人々と出会った。村からの出迎えだろうか。十人ほどの男女が立ち、彼らを見上げていた。


「よう、ソフィア」


先頭に立つ髭面の男が手を上げた。粗野な見かけに反して、その声は穏やかだった。


「お客人を連れて来たそうだね」


「ええ、紹介するよ、村長」ソフィアが答える。「これがあの噂の異能者の娘さ。そして彼女の…」彼女はイリスとヴァルトに意味深な視線を送った。「護衛さんたちだ」


村長と呼ばれた男は、特にヴァルトを長い間観察していた。獣人に対する警戒なのか、それとも他に何か理由があるのか。


「ノクターン家の令嬢か」村長が静かに呟いた。「よく来たな。噂は聞いていた」


イリスは思わず眉を寄せた。彼女のことが知られているとは…。


「噂って?」


「王都であった『異能者狩り』のことさ」村長は淡々と説明した。「ノクターン侯爵が自分の娘を売り渡そうとしたこと。そして、彼女と獣人の執事が逃げ出したこと」


イリスは息を呑んだ。彼らの一件が既に噂になっているとは。


「情報の流れは速いんだよ」村長は小さく笑った。「この村には王都との繋がりがある者も多い。迫害された者たちの逃げ道を確保するためにね」


ヴァルトが一歩前に出た。


「私たちを受け入れてくださるのですか?」


真正面から問うその姿勢に、村長は感心したように頷いた。


「獣人が、主人のために自ら囮となった話も聞いている」彼は静かに言った。「そのような忠義を持つ者を排するほど、我々は愚かではない」


イリスは思わず前に出た。


「ヴァルトは私の主人ではありません」彼女は毅然と言い切った。「彼は私の…」


言葉に詰まった彼女の隣で、ヴァルトがそっと彼女の手を取った。その仕草に、村人たちの間から小さな驚きの声が漏れた。


「分かった」村長は頷いた。「そういうことなら、なおさら」


彼は振り返り、村人たちに向かって宣言するように告げた。


「彼らを迎え入れよう。異能者も獣人も、貴族も使用人も、ここでは関係ない。ただの『村の住人』として」


村人たちの表情は様々だった。歓迎の笑顔を浮かべる者、警戒の色を隠さない者、興味津々という者…。しかし全員が敵意を剥き出しにしているわけではない。それだけでも、イリスには大きな安心だった。


「さあ、村へ行こう」村長が手招きした。「これから諸々の手続きと、住まいの相談をしよう」


一行は村人たちと共に山道を下り始めた。シルヴィアとユナは村人たちと会話を始め、緊張が徐々に解れていく様子がうかがえた。


ヴァルトとイリスは少し遅れて歩き、二人だけの時間を持った。


「大丈夫かしら」イリスが小声で訊いた。「あなたが想像していたよりも、私たちのことが知られているみたい」


ヴァルトは沈思黙考した表情を浮かべながらも、彼女の手を握る力は頼もしかった。


「確かに想定外ではありますが」彼は静かに答えた。「むしろ好都合かもしれません。最初から隠し事がないほうが、信頼関係は築きやすい」


そう言いながら、彼は村の方へと視線を向けた。


「ただ、油断はできません。多くの者が受け入れてくれても、中には敵意を持つ者もいるでしょう」


「それは覚悟しているわ」イリスは力強く頷いた。「だって、これが私たちの選んだ道だもの」


ヴァルトの琥珀色の瞳が、朝の光を受けて輝いた。


「イリス」


彼が呼ぶ声音に、彼女の胸が高鳴る。まだ慣れない、敬称のない呼び方。


「昨夜の誓いを覚えているか?」


「もちろん」彼女は微笑んだ。「忘れるわけないじゃない」


「今から辛いことも多いだろう」ヴァルトは真剣な表情で続けた。「しかし、二人ならばきっと乗り越えられる」


「ええ」イリスは確信を持って答えた。「一緒ならどんな困難も恐くないわ」


足下の道が次第に広くなり、村の外れが見えてきた。小さな畑、遊ぶ子供たち、煙を上げる家々。心地よさそうな日常の風景に、イリスは胸が熱くなるのを感じた。


「見て、ヴァルト」彼女は囁いた。「あれが私たちの新しい家になるのね」


「ええ」彼も静かに応えた。「共に築いていこう、新しい日々を」


村の入口に差し掛かったとき、ユナが駆け戻ってきた。


「イリスお嬢様!ヴァルトさん!大変です!」


彼女の興奮した様子に、二人は顔を見合わせた。


「どうしたの?」


「村にある家の話なんですけど」ユナは目を輝かせながら説明する。「なんと!一軒を四人で使えるんですって!小さいけど素敵な家で、川のそばで、裏庭まであって…」


彼女の無邪気な喜びに、イリスは思わず笑みを浮かべた。ユナの変わらない明るさが、どれほど心強いか。


「それは素敵ね」イリスは心から言った。「早く見てみたいわ」


一行は村の中心へと向かった。道すがら、様々な視線を感じた。好奇心に満ちた目、警戒の目、中には温かな歓迎の目もある。全てが新しい体験だった。


シルヴィアが一行の後方から歩み寄ってきた。


「イリス…さま」彼女はまだ名前の呼び方に戸惑いながらも、落ち着いた声で告げた。「王都の情報なのですが…」


「何かあったの?」


「貴族院で小さな騒動があったそうです」シルヴィアは慎重に言葉を選んだ。「父上ノクターン侯爵が、『娘の追跡を中止せよ』と王宮に直訴したそうです」


イリスは足を止めた。


「父が…?」


「はい」シルヴィアは頷いた。「詳細は不明ですが、王宮は『異能者捜索計画』を一時的に凍結するよう命じたとか」


イリスの胸に複雑な感情が沸き上がる。憎しみと諦めしか感じられなかった父が、なぜ今になって…。


「父は…」彼女は思わず呟いた。「少しは私のことを…」


「あくまで噂レベルの情報ですが」シルヴィアは慎重に言い添えた。「信憑性は高いと思います」


ヴァルトが静かに口を開いた。


「父上の中にも、変化が生じているのかもしれませんね」


「変化」イリスは遠くを見るような目をした。「人は変われるのね」


「全ての人がね」ヴァルトは静かに応えた。「あなたが最も大きく変わったように」


イリスは微笑んだ。彼女自身、王都を離れた箱入り令嬢から、自らの道を選ぶ一人の女性へと変わった。そして今もなお、変化は続いている。


村の広場が見えてきた。そこには多くの村人が集まり、新参者を迎える準備をしているようだった。緊張と期待が入り混じる感情を胸に、イリスは深く息を吸った。


「行きましょう」彼女は皆に声をかけた。「新しい人生の第一歩を踏み出しに」


広場へと足を踏み入れた瞬間、イリスの銀髪が朝日に輝いた。もはや牢獄のような屋敷に閉じ込められた人形姫ではなく、自らの意志で未来を切り拓く一人の女性として。


そして彼女の隣には、常にヴァルトがいた。執事としてではなく、愛する人として。


「新しい門出ね」イリスは彼に囁いた。


「ええ」ヴァルトも優しく応える。「私たちの物語は、ここから始まります」


様々な困難が待ち受けているだろう。しかし、イリスはもう怖くなかった。自分の手で未来を選んだのだから。そして、その選択にヴァルトという確かな存在がいるのだから。


山々に囲まれた小さな村。箱入り令嬢と獣の執事の物語は、新たな一章へと歩みを進めていく——。

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