王都リュミエールから七日の旅。雪を頂くアーレン峠を越えた先に広がる辺境の集落ミル=グラン。政治的陰謀から逃れ、王都を後にしたイリスとヴァルトが新たな生活を始めてから一月が過ぎたこの地は、異能者たちの隠れ里として密かに知られていた。
冬の気配が色濃く漂う早朝、石と木で組まれた小さな山小屋の窓から漏れる温かな灯りが、雪景色の中で優しく揺らめいていた。かつてノクターン侯爵家の令嬢だったイリスは、白銀の髪を簡素に一つに結い、素朴な亜麻色のワンピースに身を包んでいた。王都での豪奢な生活からは想像もつかない質素な暮らしだが、彼女の淡いラベンダー色の瞳には以前には見られなかった光が宿っていた。
暖炉の前で、黒に近い灰色の髪をした背の高い男性——かつての執事ヴァルトが薪を組んでいる。彼は今や単なる従者ではなく、イリスの守護者であり伴侶だった。動きやすい黒のシャツに革のベストを身につけ、琥珀色の目は以前より自由に光を放っている。
「雪が深くなってきたわね」イリスは窓の外を見ながら言った。
「ええ。この地方の冬は厳しい」ヴァルトは暖炉に火を入れながら答えた。「でも、だからこそ王国の監視の目も届きにくい」
彼らの山小屋は、自然の木々に囲まれたフォルセ谷の小さな集落にあった。石造りの一階と木造りの二階からなる質素な造りだが、暖炉の温もりと二人の存在で満たされ、不思議と温かい空気に包まれていた。
「今日、アラン長老が訪ねてくるのよね?」イリスは暖炉の前に腰掛けながら尋ねた。
「ああ。あなたの異能についての話があるそうだ」ヴァルトの声には緊張感が混じっていた。
「この村のことをもっと教えてもらえるかしら?」イリスは紅茶を二人分注ぎながら尋ねた。「私たちを受け入れてくれた理由も含めて」
ヴァルトは炎を見つめながら深い息を吐いた。「ミル=グランは、表向きは普通の農村だ。しかし実際は、『呪われし者』とされる異能者たちの避難所でもある」
彼は立ち上がり、イリスの隣に腰掛けた。かつての主従関係ならば考えられない距離感だが、今ではそれが自然な形になっていた。
「この集落が始まったのは約80年前、廃王の処刑後だ」ヴァルトは静かに語り始めた。「処刑を免れた廃王の側近たちが、この辺境の地に逃れてきた。王国の目が届かない場所で、彼らは新たな共同体を作り上げた」
「王都とはあまりにも違う世界ね…」イリスは窓の外に広がる雪景色を見つめた。「でも、自由を感じる」
その時、ノックの音が小屋の扉を叩いた。ヴァルトは素早く立ち上がり、警戒の色を浮かべながらも扉に向かった。
「どなたでしょう?」
「わしじゃよ、アランじゃ」温かみのある老人の声が聞こえてきた。
扉を開けると、白髪の老人が杖をついて立っていた。雪をかぶった彼の体は小柄だったが、その背筋はまっすぐで、青い瞳には若々しい光が宿っていた。
「おはようアラン長老」イリスは立ち上がり、丁寧に挨拶した。
「おはよう、イリス嬢。ヴァルト殿」老人は微笑みながら入ってきた。土の匂いと薬草の香りを漂わせるアランは、ミル=グランの指導者であり、異能に関する|博識
「お二人がここに来て一月が過ぎたな」アランは暖炉の前に据えられた椅子に腰掛けながら言った。「そろそろ、この地の本当の姿と歴史を知る時だろう」
イリスとヴァルトは向かい合って座り、老人の話に耳を傾けた。
「この村は単なる避難所ではない」アランは杖をゆっくりと床に置きながら言った。「異能の真の姿を研究し、継承する場所でもあるのじゃ」
「真の姿とは?」イリスが尋ねた。
「異能とは呪いではなく、祝福じゃ」老人の目が炎の光を受けて輝いた。「しかし、祝福には常に代償が伴う。それを理解し、受け入れるのが我々の道」
ヴァルトは無意識に自分の手を握りしめた。彼の異能の代償——獣の姿になるたびに失われる人間性への恐れが、その仕草に表れていた。
「ミル=グランには五つの集落がある」アランは説明を続けた。「サヴィル、カーンベール、アルセ、ノーディン、そしてビエント。それぞれが異なる異能の傾向を持つ者たちの集まりじゃ」
「種類があるのですか?異能にも」イリスは驚いたように尋ねた。
「ああ。大きく分けて五つ」老人は指を折りながら数えた。「自然を操る力、形態を変える力、心に影響を与える力、物を動かす力、そして…未来を垣間見る力じゃ」
ヴァルトは形態変化の異能者として知られていたが、イリスの異能は未だ謎に包まれていた。
「この谷の暮らしは厳しい」アランは窓の外を指差した。「冬は厳寒、食料は限られ、医療設備も乏しい。しかし、異能者たちは互いに助け合い、生きてきた」
「王国からの追手は?」ヴァルトが警戒心を込めて尋ねた。
「時折、王国の『魔法狩り』の一団が近くまで来ることもある」老人は眉を寄せた。「しかし、我らには見張りと警報の仕組みがある。これまで八十年、この里は守られてきた」
「でも、なぜ私たちを受け入れてくれたの?」イリスは静かに問いかけた。「私はノクターン侯爵の娘。異能者を差別してきた貴族の象徴よ」
アランはにっこりと笑った。その笑顔には深い叡智と優しさが満ちていた。
「お嬢さん、この里は過去ではなく、未来を見る場所じゃ。あなたの中に眠る力は、我々の希望になるかもしれん」
「希望?」
「そうじゃ」アランは立ち上がり、イリスの前に立った。「あなたの異能は特別だ。感情を凍結させる力は、裏を返せば感情を解放する力にもなる」
イリスは自分の胸に手を当てた。「私の中の氷を溶かす…」
「だが、すべての力には代償がある」アランの表情が厳しくなった。「あなたの異能の代償はまだ完全には支払われていない。いずれ、選択の時が来るだろう」
ヴァルトがイリスの傍に立ち、彼女の肩に手を置いた。かつての執事の礼儀作法からは想像できない親密な仕草だった。
「どんな選択であれ、私はお嬢様…いや、イリスの側にいる」
「古い絆と新しい絆」アランは二人を見つめ、微笑んだ。「それこそが、この里の真の力じゃ」
老人はゆっくりと杖を持ち上げた。その先端に埋め込まれた青い宝石が、不思議な光を放った。
「さて、今日からミル=グランの真の教えを始めよう。異能者として生きる道と、代償を受け入れる勇気を学ぶのじゃ」
暖炉の炎が大きく揺らめいた。辺境の小さな山小屋で、イリスとヴァルトの新しい人生の章が、静かに幕を開けようとしていた。冷たい雪の外とは対照的に、小屋の中は二人の希望と不安で熱く満ちていた。