廃王の庭園から逃れ、半ば崩壊した洞窟内に身を隠したイリスとヴァルト。異能の暴走から一夜が過ぎたこの朝、イリスは高熱に苦しんでいた。白銀の髪が汗で額に張り付き、淡いラベンダー色の瞳は熱に浮かされて潤んでいる。破れた裾のドレスは血と汚れで穢れ、かつての令嬢の面影はほとんど残っていなかった。
「水を…」か細い声でイリスが呟いた。
廃屋の一室、埃を被った寝台に横たわる彼女の傍らで、ヴァルトが額に冷たい布を当てている。黒に近い灰色の髪はさらに乱れ、執事服は袖が引き裂かれていた。彼の琥珀色の瞳には疲労と心配が浮かんでいる。
「すぐに持ってきます」
水を含ませた布をイリスの唇に運ぶと、彼女はかすかに目を開いた。「ヴァルト…夢を見たの…」
「夢、ですか?」彼は彼女の髪をそっと撫でた。もはや主従の礼節など気にしている余裕はなかった。
「私が…笑っていた夢…」
高熱の中で、イリスは十年以上前の記憶の海へと沈んでいった——
◆◆◆
柔らかな春の日差しが差し込むノクターン侯爵邸、東棟の小さな庭園。七歳のイリスは膝に擦り傷を作り、珍しく大粒の涙を零していた。彼女の隣には、亡き母リディア・ノクターンが腰を下ろしていた。
「痛いの?イリス」母の優しい声が心に染み入る。
「う、うん…でも、泣いたらダメよね。父様が、貴族の娘は泣いちゃいけないって…」小さなイリスは必死に涙を拭った。
母リディアは長い白銀の髪を風になびかせ、娘を抱きしめた。彼女もまた淡いラベンダー色の瞳を持ち、イリスの面影そのものだった。ただ、その表情には豊かな感情が宿り、柔らかな微笑みが常に浮かんでいた。
「イリス、聞いて」母はイリスの目を覗き込んだ。「感情は隠すものではないの。それは心の宝物よ」
「宝物?」
「そう。悲しみも、喜びも、怒りも、すべてあなたという人を作る大切なもの」リディアは娘の頬に優しく触れた。「あなたの感情は、決して恥ずかしいものじゃないわ」
「でも、父様は…」
「お父様は少し…厳しいのよ」母の瞳に一瞬、影が過った。「でも約束して。どんなことがあっても、自分の心に正直でいること」
小さなイリスは頷いた。その時、彼女は知らなかった——この会話が母との最後の思い出になることを。
◆◆◆
季節は移り、冬の冷たい風がノクターン邸を包む夜。母の葬儀から一週間後、八歳になったイリスは父の書斎に呼び出されていた。
「イリス」エドガー・ノクターン侯は、灰色が混じった黒髪を厳格にオールバックにし、冷たい銀の瞳で娘を見下ろした。「お前は泣いていないな」
「はい、父様」イリスは黒の喪服に身を包み、小さな背筋を伸ばして答えた。
「よい心がけだ」父は硬い表情で頷いた。「我がノクターン家の嫡女として、感情に流されるような真似は許されん」
イリスは黙って頷いた。心の奥底では母を失った悲しみが渦巻いていたが、父の前では一滴の涙も見せなかった。
「お前は私の作品となるのだ」父は書斎の窓から夜空を見つめながら告げた。「完璧な芸術品として、感情という不要な装飾は捨て去れ」
「はい、父様」
「笑いも、涙も、怒りも…すべて無駄なものだ」父は振り返り、イリスの前に立った。「お前は人形のように美しく、静かに育つべきだ」
その言葉が、イリスの心に楔として打ち込まれた瞬間だった。
◆◆◆
一年後の夏の日。九歳になったイリスは庭師の少年から一輪の薔薇を贈られていた。
「ノクターン嬢のために、特別に育てました」少年は照れくさそうに花を差し出した。
イリスは一瞬だけ、微笑みかけた。母との思い出が蘇り、心が温かくなる感覚を覚えた。
「ありがとう…」彼女は小さな声で言った。
その光景を書斎の窓から見ていたエドガー侯は、翌日、少年を屋敷から追放した。
「イリス」父は書斎で娘を厳しく叱責した。「感情を向ける相手を間違えるな。使用人など、我らの世界の塵に過ぎん」
「はい、父様」
「二度と笑うな。みっともない」
「はい、父様」
「お前は人形だ。美しい、冷たい、完璧な人形になれ」
その日から、イリスは二度と笑わなくなった。母の死とともに始まった感情の封印が、完全なものとなった瞬間だった。
◆◆◆
夢の中で、イリスは母の言葉を思い出していた。
「感情は心の宝物よ…」
十歳の誕生日。父はイリスに母の形見の詩集を燃やすよう命じた。
「不要なものだ」父はそう言った。「感傷は捨てろ」
イリスは表情一つ変えずに詩集を暖炉に投げ入れた。しかし、その夜、誰にも見られない自室で、彼女は一冊だけ密かに隠していた詩集を取り出した。
「母様…」
彼女は「人形が心を持つ童話」のページを開き、そこに描かれた絵を見つめた。心を取り戻した人形が笑顔で踊る姿に、何かを感じるものがあった。
だが、すぐにその感情も氷の中に閉じ込められた。イリスは詩集を箪笥の奥深くに隠し、もう二度と取り出すことはなかった。
彼女の心は完全に凍りついた——父の望む「完璧な人形姫」として。
◆◆◆
「お嬢様!イリス様!」
ヴァルトの必死の呼びかけが、イリスを夢から現実へと引き戻した。熱に浮かされた彼女の頬には、涙の跡があった。
「ヴァルト…私、泣いたの?」
彼は静かに頷いた。「ええ、眠りの中で」
「変ね…」イリスは弱々しく呟いた。「私は涙を流せないはずなのに」
「人形は涙を流しません」ヴァルトは柔らかな声で言った。「しかし、あなたは人間だ」
「母様が…夢に出てきたの」イリスは震える手で自分の頬に触れた。「母様は私に、感情を大切にしなさいって…」
ヴァルトはイリスの手を取った。かつては決して許されなかった行為だが、今は二人の間に新しい絆が芽生え始めていた。
「あなたの中の氷は、少しずつ溶け始めている」彼は静かに言った。「それは、異能の目覚めと共に」
「でも怖いわ」イリスは初めて素直な感情を口にした。「もし感情を取り戻したら、私は壊れてしまうかもしれない」
「壊れることもあるでしょう」ヴァルトは彼女の髪を優しく撫でた。「しかし、それが人間というものです。壊れても、また立ち上がる」
「あなたは…どうして私のそばにいるの?」
ヴァルトの琥珀色の瞳が、柔らかな光を宿した。
「あなたが私を選んだからです」彼は微笑んだ。「そして今は、私があなたを選んでいる」
イリスの唇がかすかに震えた。それは笑顔の予兆のようでもあり、泣き顔の始まりのようでもあった。
「熱が下がったら、一緒に辺境へ向かいましょう」ヴァルトは言った。「王都からは遠く離れた、自由に感情を表現できる場所へ」
イリスは弱々しく頷いた。亡き母の言葉と共に、凍てついた心の奥深くで、小さな炎が灯り始めていた。
感情を忘れた人形姫が、少しずつ人間に戻る旅が、いま始まろうとしていた。