イリスの社交界デビューから二ヶ月前、春の終わりを告げる雨音がノクターン侯爵邸の窓を打ちつけていた。東棟の使用人通路、新しく雇われた奉公人が控える小部屋で、ユナ=カールベリーは不安に震える手で制服の襟元を直していた。
十五歳になったばかりの少女は、栗色の髪を丁寧に三つ編みにし、茶色の制服メイド服に身を包んでいた。丸い顔にはそばかすが散り、琥珀色の瞳は緊張と希望を同時に宿している。小柄で細めの体つきは貧民街育ちの証だが、その背筋はシルヴィア女官長に教わった通り、一生懸命伸ばしていた。
「今日から、あの『人形姫』のお世話係になるんだ…」ユナは小さく呟いた。
王都リュミエールの下町から、名門ノクターン家へ——その距離は単なる地理的なものではなかった。姉の病気の治療費を稼ぐため、読み書きを必死に覚え、ようやく手に入れた奉公の機会。彼女の運命は、今日、大きく変わろうとしていた。
◆◆◆
「ユナ」シルヴィア女官長の落ち着いた声が小部屋に響いた。「準備はいいかしら?」
亜麻色の髪を後ろで厳格に結い上げ、黒のメイド長服に身を包んだシルヴィアが入ってきた。黒縁眼鏡の奥のブルーグレーの瞳は優しさと厳しさを併せ持っている。
「は、はい!準備できました!」ユナは慌てて立ち上がった。
「緊張しているのね」シルヴィアは微笑んだ。「大丈夫よ。あなたならお嬢様のお気に入りになれるわ」
「本当ですか?でも、『人形姫』って…みんな怖がってるし…」
シルヴィアの表情が少し曇った。「お嬢様をそう呼ぶのは止めなさい。イリス様は…特別な方なの」
「すみません!」ユナは慌てて頭を下げた。
「いいのよ」シルヴィアは少女の肩に手を置いた。「ただ、覚えておいて。お嬢様は表情が乏しいだけ。感情がないわけではないわ」
「はい…」
「さあ、行きましょう。お嬢様への初めてのご挨拶よ」
二人は東棟から中央棟へと進んだ。高い天井に彫刻が施された廊下、薔薇のモチーフの装飾、重厚な絵画が並ぶ壁…全てがユナには眩しいほど豪奢だった。
「す、すごい…」思わず声が漏れる。
「ノクターン家は十二代に渡る名門よ」シルヴィアは静かに説明した。「この邸宅も、百年以上の歴史があるの」
彼らが白い大理石の階段を上り、西棟の入り口まで来たとき、シルヴィアは足を止めた。
「ユナ」彼女は真剣な表情で言った。「ここから先は、ノクターン家の令嬢が住まう『薔薇の籠』よ。特別な許可なく入れる使用人は限られているわ」
「わたし、入っていいんですか?」
「あなたは特別に選ばれたの。イリス様の身の回りのお世話をする役目だから」
ユナは緊張で唾を飲み込んだ。「どうして、わたしが…」
「あなたの素直さが気に入ったのよ」シルヴィアは微笑んだ。「さあ、行きましょう」
西棟の廊下は東棟よりもさらに静かで、重厚な沈黙が支配していた。窓から差し込む光も柔らかく拡散され、まるで別世界のような雰囲気。ユナの心臓は早鐘を打っていた。
最後に彼らは、薔薇の浮き彫りが施された白い扉の前で立ち止まった。
「お嬢様」シルヴィアは丁寧にノックした。「新しいメイドをお連れしました」
「入りなさい」静かで感情のない声が返ってきた。
扉が開くと、広々とした部屋が現れた。薄い青と白を基調とした内装に、銀の装飾が施された家具。大きな窓からは庭園が見え、その前の窓辺の椅子にイリス=ノクターンが座っていた。
十七歳のイリスは、白銀の長い髪を優雅に結い上げ、淡い青のドレスに身を包んでいた。陶器人形のような整った顔立ちと白い肌、そして感情の欠片も見えない淡いラベンダー色の瞳。彼女は本を閉じ、静かに二人を見つめた。
「お嬢様」シルヴィアは一礼した。「本日より、お身の回りをお世話する新しいメイドです。ユナ=カールベリーと申します」
ユナは震える足で前に出て、ぎこちなくお辞儀をした。「ユ、ユナ=カールベリーと申します!どうぞよろしくお願いいたします!」
声が予想以上に大きく出てしまい、ユナは顔を赤らめた。しかし、イリスの表情は微動だにしなかった。
「ユナ」イリスの声は静かで冷たかった。「シルヴィアが選んだのね」
「は、はい!一生懸命頑張ります!」
イリスはわずかに顔を傾げた。「他の使用人のように、私を恐れないの?」
その質問は、感情のない声でありながら、どこか寂しさを滲ませていた。
「え?」ユナは思わず素直に答えた。「怖いって言われてましたけど…お嬢様、とっても綺麗で…怖くないです!」
シルヴィアは小さく息を呑んだ。使用人が令嬢にこんなに率直に話すことは、通常許されないからだ。だが、イリスの反応は意外だった。
「そう」彼女はほんの少し、眉を緩めた。「あなたは変わった子ね」
「すみません!変なこと言っちゃいました?」ユナは慌てた。
「いいえ」イリスは窓の外を見た。「明日から朝の七時に来て。髪を結う手伝いをして」
「はい!喜んで!」ユナは明るく答えた。
部屋を出た後、シルヴィアはユナを見つめ、小さく微笑んだ。
「よくやったわ。初めてお嬢様に受け入れられた使用人よ」
「え?でも、何もしてないです…」
「あなたの素直さがお嬢様の心に触れたのよ」シルヴィアの声は優しかった。「他の使用人はみな、お嬢様を『人形姫』と呼び、恐れている。だけど、あなたは違った」
ユナはまだ理解できていない様子だった。
◆◆◆
翌朝、約束の七時ちょうど。ユナは緊張しながらもイリスの部屋を訪れた。
「お、おはようございます、お嬢様!」
部屋に入ると、イリスは既に起きて窓辺に立っていた。朝日を浴びる彼女の白銀の髪がまるで輝いているように見え、ユナは思わずため息をついた。
「おはよう、ユナ」イリスは振り向いた。「髪を結ってくれる?」
「はい!やらせてください!」
イリスは鏡台の前に座り、ユナは彼女の後ろに立った。近くで見ると、イリスの髪はさらに美しく、絹のように滑らかだった。
「あの…どんな風に結びましょうか?」
「普段通りでいいわ」イリスは鏡越しにユナを見た。「シルヴィアに教わったでしょう?」
「はい!でも…」ユナは少し躊躇った後、思い切って続けた。「お嬢様、今日はお花みたいな感じにしてみませんか?こう、サイドを少し編み込んで…」
イリスの瞳に、かすかな驚きが浮かんだ。「あなた、髪を結うのが上手なの?」
「はい!下町の子達の髪をよく結ってあげてました」ユナは誇らしげに言った。「お嬢様の髪は本当に美しいので、もっと素敵にできると思うんです!」
イリスは長い間黙っていた。やがて、彼女はかすかに頷いた。
「やってみて」
ユナの顔が喜びで輝いた。「はい!絶対綺麗にします!」
彼女は丁寧にイリスの髪を梳かし始めた。その時、思わず口走った。
「お嬢様って、あったかい手してるんですね!」
イリスの目が大きく見開かれた。「何を言っているの?」
「あ、すみません!」ユナは慌てた。「ただ、『人形姫』って言われてるから、冷たいのかなって思ってたんです…でも、お嬢様は生きた人間なんだなって…」
静寂が部屋を満たした。イリスの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなったように見えた。
「ユナ」イリスはゆっくりと言った。「あなたは不思議な子ね」
「そう、でしょうか?」ユナは首を傾げた。
「ええ。私に、普通に話しかけるなんて」
ユナは髪を編みながら答えた。「だって、お嬢様も人間ですもん。みんなが怖がるのがわからないです」
イリスは鏡越しにユナを見つめた。その瞳は、まだ感情を表してはいなかったが、どこか温かみを帯びているように感じられた。
「ここにいる人たちは、みんな私を『人形』として扱う」イリスは静かに言った。「父上は特に」
「それは…悲しいですね」ユナは素直に答えた。「わたしは、お嬢様のお話をもっと聞きたいです。笑顔も見てみたいです」
イリスは何かを言いかけたが、やめた。代わりに彼女は鏡に映る自分の姿を見つめた。ユナの手によって、彼女の髪は見事な編み込みスタイルになっていた。普段の厳格な髪型とは違い、優しさと柔らかさを感じさせるデザイン。
「これは…」イリスの声がわずかに震えた。
「お嬢様に似合うと思って!」ユナは誇らしげに言った。「どうですか?」
イリスはゆっくりと手を上げ、髪に触れた。「美しいわ」
その言葉は、いつもの無感情な調子とは違っていた。
「明日も、違う髪型してみましょうか?」ユナは希望に満ちた声で尋ねた。
「ええ」イリスは静かに頷いた。「明日も頼むわ」
◆◆◆
それから一週間、ユナは毎朝イリスの部屋を訪れ、彼女の髪を結った。最初は緊張していたが、次第に二人の間には不思議な関係が生まれていった。イリスは決して笑顔を見せることはなかったが、ユナの前では少しずつ心を開くようになっていた。
「ユナ」ある朝、イリスは突然尋ねた。「あなたはなぜ、このノクターン家で働いているの?」
「お金のためです」ユナは正直に答えた。「姉が病気で、治療費が必要で…」
「そうなの」イリスは窓の外を見た。「家族のため」
「はい!」ユナは明るく答えた。「姉を助けたいんです。それに、わたし、このお屋敷で働くのが夢だったんです!」
「夢?」
「はい!小さい頃、お母さんに連れられて、このお屋敷の前を通ったことがあるんです」ユナは懐かしそうに言った。「その時、窓から見えた白い髪の女の子…それがお嬢様だったんですよね」
イリスの瞳が微かに揺れた。「覚えていないわ」
「当然です!でも、わたしはずっと覚えてました」ユナは髪を結びながら続けた。「白いドレスを着た、お人形みたいに綺麗な女の子。いつか会いたいって思ってたんです」
「そして、願いが叶ったのね」
「はい!だから、わたし、毎日がとっても幸せなんです!」
イリスは鏡越しにユナを見た。「幸せ…か」
「お嬢様は幸せじゃないんですか?」ユナは思わず尋ねた。
イリスは長い間黙っていた。やがて、彼女はわずかに肩をすくめた。
「私には幸せがどんなものか、わからないわ」
ユナは髪を結う手を止め、イリスの肩に手を置いた。「わたし、お嬢様を幸せにしたいです!」
イリスの目が大きく開いた。使用人が令嬢に触れることは、厳格に禁じられていたからだ。しかし、彼女は何も言わなかった。
「ごめんなさい!」ユナは慌てて手を引っ込めた。「調子に乗りました…」
「いいのよ」イリスの声は、いつもより少し柔らかかった。「あなたは…特別な子ね」
その言葉を聞いて、ユナの目に涙が浮かんだ。彼女は一生懸命それを堪え、髪を結う作業を続けた。
「お嬢様の笑顔、いつか必ず見せてもらいますからね!」
イリスは何も言わなかったが、彼女の瞳に、かすかな光が宿ったように見えた。下町から来た素直な少女のひと匙の勇気が、氷の城に春の風を運び始めていた。