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SideTalk:エドガー=ノクターン、愛なき父の肖像

 イリスの誕生から七年後、ノクターン家に悲劇が訪れた冬の夜——リディア夫人の葬儀が執り行われた翌日のこと。ノクターン侯爵邸の主翼、エドガー侯爵の書斎には静寂だけが支配していた。重厚な暗褐色の扉に囲まれたこの空間は、彼の権力の中心であると同時に、心の牢獄でもあった。


 窓辺に立つエドガー=ノクターン侯爵の姿は、月光に照らされて長い影を床に落としていた。当時四十歳になったばかりの彼は、すでに灰色が混じり始めた黒髪を厳格にオールバックにし、喪服の黒が彼の痩せた体躯をさらに引き締めて見せていた。鋼のような冷たい銀の瞳は、かつてない虚ろさを湛えている。


 彼の手には一枚の肖像画が握られていた——白銀の髪とラベンダー色の瞳を持つ美しい女性、リディア・ノクターンの姿。彼女の微笑みは、エドガーの心を真二つに引き裂いていた。


「リディア…なぜ私に告げずに…」彼の唇から、かすかな言葉が漏れる。「なぜ、その力を使ってしまったのだ」


 書斎の扉がノックされ、それまでの静寂が破られた。


「入れ」彼は素早く肖像画を引き出しにしまい、いつもの冷徹な表情に戻った。


 ◆◆◆


「失礼します、侯爵様」


 扉が開き、シルヴィア・マーナが一礼して入ってきた。彼女はまだ二十代前半だったが、既に亜麻色の髪を厳しく後ろで結い、黒い喪服に身を包み、端正な姿勢で立っていた。若かりし日のリディア夫人の友人であり、今はノクターン家に仕える家庭教師として、彼女の目には悲しみと疲労の色が濃く滲んでいた。


「何の用だ」エドガーは窓から振り向くことなく言った。


「お嬢様のことで…」シルヴィアは慎重に言葉を選んだ。「イリス様が朝から何も口にされず、ずっと母君の肖像画を見つめておられます」


 エドガーの背筋がわずかに強張った。


「そして…」シルヴィアは続けた。「先ほど、お嬢様の部屋の窓ガラスが突然…亀裂が走りました」


 この言葉に、エドガーは素早く振り向いた。「何だと?」


「はい。お嬢様が泣いておられた時に…」


「泣いていた?」エドガーの声が低く危険な調子になった。「あの子が?」


「はい。母君を失った悲しみで…」


「連れて来い」エドガーは命じた。「今すぐ、イリスをここへ」


 シルヴィアは一瞬躊躇ったが、頷いて部屋を出た。エドガーは再び窓辺に立ち、拳を強く握りしめた。


「やはり始まったか…」彼は低くつぶやいた。「リディアの血を引く者の宿命が…」


 ◆◆◆


 十分後、小さな足音と共に、八歳のイリスが書斎に連れてこられた。白銀の髪を持つ小さな少女は、黒い喪服姿で、その瞳は泣き腫らしていた。しかし、父親の前に立つと、彼女は必死に背筋を伸ばし、感情を抑えようとしていた。


「父様、お呼びでしょうか」幼いながらに落ち着いた声で、イリスは言った。


 シルヴィアは心配そうに二人を見つめ、部屋を出た。扉が閉まる音が響き、父と娘が向き合った。


「イリス」エドガーは厳しい口調で言った。「お前は泣いていたそうだな」


「はい…母様が恋しくて…」イリスは正直に答えた。


 エドガーの表情が硬くなった。「そして、窓ガラスに亀裂が入ったそうだな」


 イリスは驚いたように目を見開いた。「わたくし…何もしていません」


「意図せずとも、お前がしたのだ」


 エドガーはゆっくりと娘に近づき、彼女の前に膝をついて目の高さを合わせた。普段なら決してしない行為だった。


「イリス、よく聞け」彼の声は不思議と柔らかくなっていた。「お前の中には、特別な力が宿っている。それは母親から受け継いだものだ」


「力…ですか?」


「そうだ。感情と結びついた力だ」エドガーの目は遠い記憶を見つめているようだった。「喜び、悲しみ、怒り…特に強い感情を抱くと、その力は制御を失う」


 イリスは黙って父親の言葉を聞いていた。幼いながらに、何か重大な話だと感じていた。


「お前の母は…」エドガーの声が僅かに震えた。「その力のために命を落としたのだ」


「え…?」イリスの顔から血の気が引いた。「母様は病気で…」


「違う」エドガーは冷たく言い切った。「お前の母は、未来を見る力を持っていた。そして、その代償として命を落としたのだ」


 エドガーは立ち上がり、書斎の本棚に向かった。一冊の古い革装丁の本を取り出す。


「これを見せるつもりはなかったが…」彼はページを開いた。「これがノクターン家の秘史だ。代々、女系に流れる異能の記録が記されている」


 幼いイリスには難しい内容だったが、彼女は本に描かれた図版を見て息を呑んだ。白銀の髪を持つ女性たちの絵と、周囲で起こる様々な現象——氷の結晶、光の輪、裂けた大地。


「すべての力には代償がある」エドガーは続けた。「感情を凍らせる力、感情を解き放つ力、そして…未来を見る力。それぞれに恐ろしい代償がある」


「わたくしも…そうなるのですか?」イリスの声は震えていた。


 エドガーは本を閉じ、娘をじっと見つめた。その目には、普段見せない複雑な感情が宿っていた——恐れ、苦しみ、そして…愛情。


「ならないようにする」彼は決然と言った。「お前を守るために、必要なことをする」


「父様…」


「イリス、これから言うことをよく聞け」エドガーの声は再び厳しさを取り戻した。「今日から、感情を捨てるのだ」


「感情を…捨てる?」


「そう。喜びも、悲しみも、怒りも…すべてだ」彼は淡々と言った。「感情がなければ、力は目覚めない。それがお前を守る唯一の方法だ」


 イリスの瞳に涙が浮かんだが、エドガーは厳しい目で娘を見下ろした。


「泣くな」彼は命じた。「これが最後の涙だ。これからはノクターン家の嫡女として、完璧に振る舞うのだ」


「でも、母様は…感情は大切だと…」


「お前の母は死んだ!」エドガーの声が突然高くなった。「感情に従った結果がどうなるか、お前は目の当たりにしたのだ!」


 エドガーの怒声に、書斎の水差しが突然ひび割れた。イリスは恐れに目を見開いた。


「見たか」エドガーは水差しを指さした。「これがお前の力だ。制御できなければ、周囲のすべてを破壊する」


 イリスは震える小さな手で自分の胸に触れた。「どうすれば…」


「私の言う通りにするのだ」エドガーは冷たく言った。「感情を捨て、完璧な人形のように振る舞え。それだけだ」


 その言葉が、イリスの心に深く刻まれる。彼女はゆっくりと頷き、涙を拭った。それが彼女の最後の涙となることを、まだ知らずに。


 ◆◆◆


 イリスが去った後、エドガーは疲れたように椅子に沈んだ。引き出しから再びリディアの肖像画を取り出し、しばらく見つめていた。


「やむを得なかった」彼は肖像画に語りかけるように言った。「あの子を守るためだ」


 扉がノックされ、シルヴィアが再び入ってきた。彼女の顔には非難の色が浮かんでいた。


「侯爵様、あんな小さなお嬢様に、感情を捨てろとは…」


「黙れ」エドガーは冷たく言い放った。「お前にはわからん」


「でも、リディア様は…」


「リディアは死んだ!」エドガーは突然立ち上がり、肖像画を握りしめた。「彼女は私に何も言わずに、その力を使った。そして…」


 エドガーの声が途切れた。彼の目に、滅多に見せない感情の色が浮かんでいた。


「侯爵様…」シルヴィアは静かに言った。「リディア様が最期に見た未来とは何だったのですか?」


 長い沈黙の後、エドガーはようやく口を開いた。


「イリスの死だ」


 シルヴィアの顔から血の気が引いた。


「リディアは…イリスが異能に目覚め、そして命を落とす未来を見た」エドガーは苦しげに続けた。「そして、その運命を変えるために、自らの命と引き換えに…」


「そんな…」


「だから私は決めたのだ」エドガーの顔が再び冷酷な仮面に戻った。「イリスの感情を封じ、その力を永遠に眠らせることを。それが、妻への私なりの報いだ」


 シルヴィアは黙って立っていた。彼女には、エドガーの決断を否定する言葉が見つからなかった。


「あの子を人形に変えてまで守るつもりですか?」やがて彼女は静かに尋ねた。


「人形のほうが生き延びる」エドガーは冷淡に答えた。「人間は感情に溺れ、滅びる」


「それは、侯爵様ご自身も同じではないですか?」シルヴィアは勇気を振り絞って言った。「リディア様を失ってから、あなた様も感情を捨てられた」


 エドガーの目が鋭く光った。しかし、否定はしなかった。代わりに彼は肖像画を再び引き出しにしまい、鍵をかけた。


「出て行け」彼は命じた。「そして覚えておけ。イリスは私が守る。たとえ、彼女に恨まれようとも」


 シルヴィアは深々と頭を下げ、部屋を出た。扉が閉まった後も、エドガーはしばらく動かなかった。窓の外では、雪が静かに降り始めていた。


「リディア…」彼はつぶやいた。「私は正しいことをしているのだろうか?」


 答えはなかった。ただ壁に掛けられた先祖代々のノクターン侯爵たちの肖像画が、冷たい目で彼を見下ろしているだけだった。彼もまた、いつか肖像画となり、その冷たい視線で後世を見つめることになるのだろう——愛を知りながら愛を捨てた男として、感情を封じることでしか娘を守れなかった父親として。


 それが、エドガー=ノクターンの選んだ道だった。


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