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【選択】の章

Section10-1:辺境の町での静かな暮らし

 ミル=グラン村は、まるで時間が立ち止まったかのような静謐に包まれていた。


 イリスは小さな木造の小屋の窓から、朝もやに霞む山々を眺めていた。王都の邸宅で見ていた景色とはあまりにも違う。でも、その違いが今の彼女には心地よかった。


「お嬢様、朝食の準備ができました」


 軋む床板の音とともに、ヴァルトが部屋に入ってきた。彼は相変わらず執事としての佇まいを崩さない。けれど、その瞳の奥には、かつてないほどの温かさが宿っていた。


「まだ『お嬢様』って呼ぶの?」


 イリスがくすりと笑う。彼女の仕草は、数週間前までの「人形姫」の面影など微塵もなかった。


「ですが…」


「『イリス』でいいって言ったでしょう?」


 ヴァルトの頬が微かに赤く染まる。獣のように鋭い彼が、こんな風に頬を染めるのを見るのは、イリスにとって密かな喜びだった。


「わかりました…イリス」


 その呼び方は、まだぎこちない。けれど、彼女の名前を呼ぶ彼の声は、世界で一番美しい音色に聞こえた。


「それで、朝食は何?」


「ミル=グランの名物、山菜の粥と、ソフィアさんからいただいた野イチゴのジャムです」


「まあ、贅沢ね」


 イリスは微笑んだ。かつての彼女なら、こんな質素な朝食に「贅沢」などと口にすることはなかっただろう。でも今は違う。シンプルな暮らしの中にこそ、本当の豊かさがあることを知ったのだから。


「ユナとシルヴィアは?」


「シルヴィアさんは村長のところへ、ユナは村の子供たちと井戸水を汲みに行きました」


「あの子、すっかり馴染んでるのね」


「ええ」ヴァルトが珍しく柔らかな表情を見せる。「彼女の明るさが、私たちの橋渡し役になっています」


 二人は小さな台所へと移動した。そこには昨日彼らが採ってきた野苺がたっぷり入ったジャムと、湯気の立つ粥が並んでいた。


「少し熱いですが、おいしいですよ」


 ヴァルトが椅子を引いてイリスを座らせる。この所作は、いくら関係が変わっても、彼が決して忘れない執事としての誇りだった。


「ありがとう」


 イリスは粥を一口すすった。素朴な味わいの中に、何とも言えない旨味がある。


「おいしい…」


 その言葉に、ヴァルトの顔に満足げな表情が浮かんだ。彼女の喜ぶ顔を見ることが、彼にとって何よりの報酬なのだ。


「そうそう、今日は村の集会があるんだって」


 イリスは話題を変えた。


「ええ。異能者の集まりです。ソフィアさんが誘ってくれました」


「少し緊張するわね」


「大丈夫です」ヴァルトは彼女の手に自分の手を重ねた。「皆さん、親切ですから」


 その時、勢いよく扉が開き、汗ばんだ顔のユナが飛び込んできた。


「お嬢様!ヴァルトさん!大変です!」


「どうしたの?」


 イリスが驚いて立ち上がる。ヴァルトも身構えた。


「いえ、そんな恐ろしいことじゃなくて…」ユナは息切れしながらも嬉しそうだ。「村の子供たちが、お嬢様の異能を見たいって!」


「え?」


 イリスは目を丸くした。これまで異能は「隠すもの」「恐れられるもの」だった。それが今、「見せてほしい」と言われるなんて。


「それは…」


「大丈夫よ」


 シルヴィアも姿を現した。彼女は少し疲れた様子だったが、目は穏やかに輝いていた。


「この村では異能は才能として尊ばれているの。もちろん、お断りになっても構いませんが」


 イリスは少し考え込んだ。自分の異能——感情を形にする力——をコントロールできる自信はまだなかった。


「でも、上手く使えるかわからないわ」


「心配しなくていい」シルヴィアの声には確かな自信があった。「あなたの母上も最初は同じでした。でも、練習を重ねて、美しい力を身につけました」


 イリスの心に灯がともる。母の遺志。そして、自分の可能性。


「わかったわ」彼女は決意を固めた。「やってみる」


 ヴァルトが心配そうな顔をするのが見えたが、彼は何も言わなかった。彼女の決断を尊重するのが、彼の愛の形だった。


「素晴らしい」シルヴィアが微笑んだ。「村の中央広場で、正午から始まります」


 ユナは小さく拍手した。


「わたし、お嬢様の異能、絶対素敵だと思います!」


 イリスは思わず笑みがこぼれた。かつて自分を縛っていたものが、今は可能性へと変わっている。


「それじゃあ、朝食を食べ終わったら、少し練習しましょうか」


 シルヴィアの提案に、イリスは頷いた。


 ◆◆◆


 村の中央広場は、想像以上ににぎわっていた。子供から老人まで、様々な年齢の人々が集まっている。彼らの中には、獣人やエルフの血を引く者たちもいた。


 イリスが現れると、小さな囁き声が広がった。


「あれが噂の貴族の娘か…」

「綺麗だね、まるで人形みたい」

「でも目が違う、生きてる」


 その声に、かつてなら怯えたかもしれない。だが今のイリスは違った。彼女は堂々と広場の中央へと歩み出た。


「私儀、イリス=ノクターンと申します」


 彼女は丁寧に挨拶した。貴族としてのたしなみだけは、今でも彼女の一部だった。


「よく来てくれたね」


 年配の男性が前に出てきた。村長のダリウスだ。彼の両目は白く濁っていた。盲目だった。


「村長さま」


「私の目は見えないが、あなたの光は感じる。美しい異能の輝きだ」


 イリスは驚いた。彼もまた異能者なのだろうか。


「皆、集まったぞ」ダリウス村長が声を上げる。「今日は新たな仲間、イリス嬢に自己紹介をしてもらおう」


 広場に集まった人々が拍手した。それは温かな歓迎の音だった。


「さあ、あなたの力を見せておくれ」


 村長の優しい励ましに、イリスは深呼吸した。彼女はヴァルトを見た。彼は少し離れたところで、頼もしい眼差しを送っていた。


(大丈夫。これが私)


 イリスは目を閉じ、心の中で感じる温かさに意識を集中した。ヴァルトとの誓い、母への思い、新しい友人たち。そして、自分自身への愛情。


 彼女の指先から、紫色の光が溢れ始めた。それはゆっくりと彼女の周りに広がり、やがて花のような形になった。


「わぁ…」


 子供たちの驚きの声が聞こえる。


 イリスは目を開けた。彼女の周りには、紫の光で作られた小さな花々が浮かんでいた。それは心の形を取った「感情の花」だった。


「これが…私の異能です」


 彼女の声は少し震えていた。初めて自分の力を公の場で見せることの緊張と、同時に解放感もあった。


「綺麗…」


 村人たちの称賛の声が広がる。恐れるどころか、彼らは彼女の力を受け入れ、賞賛してくれていた。


 一人の小さな女の子が恐る恐る近づいてきた。


「触っても、いいですか?」


 イリスは優しく微笑んだ。


「ええ、大丈夫よ」


 女の子が手を伸ばすと、光の花が彼女の指先に触れた。すると不思議なことに、花は色を変え、青く輝き始めた。


「あら…」


 イリスも驚いた。自分の異能がこんな風に反応するとは。


「それは、感情の反映だ」


 ソフィアが人々の中から歩み出てきた。


「あなたの異能は、他者の心に触れ、映し出す力。純粋な子供の心は、青い光として現れるのさ」


 イリスは眼前の現象に呆然としていた。自分の力が、こんなにも神秘的なものだったなんて。


「つまり、私の異能は…」


「人の心を映し、時に癒し、時に励ます力だよ」ソフィアは優しく説明した。「破壊の力ではなく、創造と共感の力なんだ」


 イリスの胸に熱いものがこみ上げてきた。ずっと恐れていた自分の力が、実は美しい贈り物だったなんて。


「お嬢様!」


 ユナが駆け寄ってきた。


「わたしの心も見てください!」


 イリスは微笑み、手を差し出した。紫の光がユナに触れると、それは鮮やかなオレンジ色に変わった。


「わぁ…綺麗…」


 ユナの目が輝いた。


「オレンジは、純粋な喜びの色だね」ソフィアが解説する。「この子の心は、本当に澄んでいる」


 次々と村人たちが近づき、イリスの光に触れた。緑や黄色、赤や青、様々な色に変化する光が広場を彩った。


「皆さん…」


 イリスは感動で声が詰まった。こんな風に自分の力が人々との絆になるなんて、想像もしていなかった。


 そっとヴァルトが彼女の横に立った。


「やってみますか?」


 イリスは少し緊張しながらも、彼に光を向けた。


 ヴァルトに触れた光は、深い琥珀色に変わった。それは彼の瞳の色と同じで、暖かくも力強い輝きを放っていた。


「これが…」


「あなたへの想いよ」ソフィアがニヤリと笑った。「分かりやすい男だね」


 ヴァルトの顔が真っ赤になった。イリスも頬を染めたが、心は幸せで満たされていた。


 村人たちの中から笑い声が上がり、やがて広場全体が温かな笑顔で溢れた。


「さあ、今日からあなたたちはミル=グラン村の一員だ」ダリウス村長が宣言した。「ここでは誰も、あなたの力を恐れることはない。あなた自身の成長を恐れることもない」


 イリスは深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。私たちを受け入れてくださって」


 村人たちから大きな拍手が沸き起こった。


 ◆◆◆


 その夜、イリスたちは村の催しに招かれた。大きな篝火を囲み、皆で歌い、踊り、そして話す。これが村の伝統的な「歓迎の儀式」だという。


「想像と全然違うわね」


 イリスはヴァルトに囁いた。彼女の隣で、ユナは既に村の子供たちと打ち解け、踊りの輪に加わっていた。


「どういう意味で?」


「異能者の隠れ里って、もっと暗く、厳しいものだと思ってた」


「確かに…」ヴァルトも同意した。「まるで普通の村のようですね」


「それが一番難しいことなんだよ」


 二人の会話に、シルヴィアが加わった。彼女の手には、村で作られたという果実酒が入ったカップがあった。


「普通に生きる。それが私たちにとって、最も届かない夢だったから」


 その言葉に、イリスは胸が詰まる思いがした。彼女は、シルヴィアの手を優しく握った。


「でも、もう届くわ。きっと」


 シルヴィアは驚いたように彼女を見つめ、そして微笑んだ。


「そうですね。お嬢様のような方がいれば…きっと」


 篝火の明かりが顔を照らし、三人は静かに微笑み合った。


「イリス!ヴァルトさん!こっちこっち!」


 ユナの嬌声が響く。彼女は踊りの輪の中から手招きしていた。


「行かなくていいのですか?」ヴァルトが尋ねた。


 イリスは迷った。かつての彼女なら、こんな場では決して踊らなかっただろう。それは「品位に欠ける」と教えられてきたから。


 でも今は――


「行きましょう」


 彼女は立ち上がり、ヴァルトの手を引いた。


「え?」


「踊りましょう、ヴァルト」


 彼女の紫の瞳が、篝火の光を受けて妖しく輝いた。その中には、もう恐れも躊躇もなかった。


「私は…踊りが上手くありません」


 ヴァルトが困った顔をする。それを見て、イリスは思わず噴出してしまった。


「一緒にたくさん練習したでしょう?」彼女は笑いを堪えながら言った。「そして、私も上手くないわ。」


 彼女の言葉に、ヴァルトの堅い表情が緩み、小さな笑みを浮かべた。


「あなたと一緒なら…」


 彼は彼女の手を取り、二人はゆっくりと踊りの輪に加わった。村人たちは驚き、そして喜びの声を上げながら二人を迎え入れた。


 優雅な貴族の舞踏会とは大違いの、荒々しくも素朴な踊り。でもイリスは、自分がこれほど自由に踊ったことはなかったと感じていた。


「お嬢様、素敵です!」ユナが目を輝かせて喜んだ。


 ヴァルトも不器用ながらも、彼女の手を離すことなく共に踊った。二人の体が時折触れ合い、イリスの胸はドキドキと高鳴った。


 煌めく篝火と星空の下、彼らは笑い、踊り、そして心から楽しんだ。


 それは幻のような一夜だった。


 でも、幻ではなかった。これが今の、そしてこれからの彼女の現実なのだ。


 イリスは踊りの合間に空を見上げた。満天の星空。王都では決して見られなかった景色だった。


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