《世界樹 女王の間》
「ほう? こんな夜中に客人か」
時刻は午後の22時くらいだろう。
今はほとんど寝ずに政務をこなしている女王の間に、2人の影が差し込んでいた。
「はい、取引に来ました。アバレー王国の女王様」
アカネはそう言ってゆっくりローブを脱ぎ――
赤く艶やかな髪と、同じ色の耳がふわりと揺れる。
「っ……!? お、お主は……」
女王の視線がピクリと揺れる。
声にわずかに震えが走り、手に持っていた羽扇が静かに止まった。
「? どうしました?」
「……い、いや、何でもない。それで、“取引”とは何じゃ?」
アカネも今は、目先の詮索より任務の遂行を優先したようで、それ以上は踏み込んでこない。
「はい、入国を認めてほしい人がいます」
「そんなもの、ギルドに頼めばいいじゃろう。なぜ妾のところに来た」
「ギルドを通しても駄目だったみたいです。――あなたが拒否したのでは?」
「妾が? ……妾は何も聞いておらん。そもそも、そこまでの裁定は通常ギルド側の判断のはずじゃ」
女王の表情にわずかな疑念が浮かぶ。羽扇の動きも止まり、静かに目を細める。
「……誰じゃ? その者は」
「リュウトという名の方と、そのパーティーメンバーです」
その名を聞いた瞬間、女王の目がわずかに見開かれた。
「……クリスタルドラゴンを討伐した、“あの”勇者か」
しばし沈黙。
「妾が何も申しておらぬのは間違いない。むしろ、どのような人物か直に確かめてみたいと思っていたくらいじゃ」
「え……一体誰が……」
アカネの唇がわずかに震える。
女王の言葉は明確だった。“拒否”を下したのは、女王ではない――
「まぁよい。その様子だと、もう来ておるのだろう? この緊急事態じゃ、そのくらいは目を閉じよう……それだけか?」
女王にとって、リュウトは“クリスタルドラゴンを倒した勇者”に過ぎなかった。
これがもし本当に召喚された【勇者】であると明かされていたなら――
その評価は、まったく異なるものになっていただろう。
……それ故に、アカネが提案した“次の人物”こそが、最も気を払うべき相手だった。
「いえ。あと一人……この方の入国を許可してください」
アカネの隣にいたキールが、ゆっくりとローブを取る。
「っ……!? 代表騎士……!」
女王の声に、わずかな震えが混じる。
その目が、鋭くキールを見つめた。
「お久しぶりです、愛染の女王」
「貴様……! 何を言っている! ここに居ることが、どれだけの重罪か解らぬ訳ではなかろう!」
その言葉に込められたのは、怒りではない。
――恐れだった。
そう、グリード、ミクラル、アバレー。
この三国の軍事バランスは、長年にわたり微妙な均衡を保っていた。
それは単に「攻められない」という外交上の抑止力だけではない。
特にアバレーにおいては、《世界樹》という巨大構造体が獣人によって築かれ、外部からの侵入を防ぐ最大の要となっていた。
――少なくとも、“そう信じられていた”。
だが、今。
この場に、他国――それもグリードの“代表騎士”キールが立っている。
つまり、この世界樹の核心部において、彼がもし今この場で女王を斬れば――
アバレーは一夜にして、戦争もなく陥落するのだ。
「ぐっ……」
女王はゆっくりと一歩後ずさる。
その額には、一筋の汗がにじんでいた。
「お主……これは脅しのつもりか? 妾が今ここで兵を呼べば、困るのはそちらであろう」
「はい。だからこそ、私は“取引”と申し上げたのです」
アカネは一切表情を崩さず、まっすぐに女王の目を見つめ返す。
「こちらの要求はただひとつ――騒ぎ立てず、一般の冒険者として、リュウトパーティーとキールさんの入国を許可していただきたい」
「そして____此方が出す物は、これです」
そう言って、アカネは懐から一冊の古びた本を取り出した。
表紙は黒ずみ、革の綴じ目は裂けかけている。
しかしその中心には、見慣れぬ“世界樹”の紋様が刻まれていた。
「それは?」
「これは――【山亀】の資料です」
「だからどうした? そんなもの、此方でも――」
「いいえ。この本には、かつて“勇者”が【山亀】をどのようにして止めたのか、その詳細が記されています。この世界に……一冊しか存在しない資料です」
「っ……!」
女王の手がぴたりと止まり、目が見開かれた。
アカネ達の表情、態度、空気――どれをとっても“虚言”とは思えない。
この本は本物。
そして、国の代表騎士の入国と釣り合う……それだけの価値を確かに持っていた。
「さぁ、どうしますか。この取引。受けますか?」
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【山亀】到着まで後三日
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