――《沼地》。
ここはアバレー王国のすぐ近くにある、広大な湿地帯。
かつて『山亀』が通り、地盤を崩したことで生まれたこの地は、今ではアバレー管轄の狩り場として冒険者たちに利用されている。
「ここに拠点を構えるッチュ」
チュー太郎が馬車から降り、少し歩いた先――五分ほどの開けた場所にテントを張ると言い出した。
どうやら、帰りの馬車もこの場所に迎えに来るらしく、それを見越しての判断らしい。
「(なるほど、こういうのも冒険者の常識なのかも)」
アオイは周囲を見渡しながら、心の中でひとつ頷いた。
「ウッシ、さっそくテント張るかぁ」
「トラララ、任せるトラ~!」
そんな二人の声に合わせて、チーム全員がテントの準備に取りかかろうとした――その時。
「え、えっと……テント張りとか、雑用は僕に任せてください!」
慌てたようにアオイが手を上げて言うと、三人はちょっと驚いた顔で振り返った。
「トラ? でも一人でやるのは面倒くさいだろトラ?」
「いえ……皆さんは武器の手入れとか、やることがあると思いますし……。本当に、任せてください!」
その言葉に、トラ五郎が少しだけ目を丸くする。
「そ、そうトラ……?」
アオイ以外の三人はお言葉に甘えて、それぞれ馬車から武器や装備を取り出し始めた。
その間に、
「さて、っと……」
アオイは指先から【糸』を伸ばす。
「じゃ、お願いね」
【糸』は空中をすい、と漂いながら、アオイの意志のままに動き出す。
杭に巻き付いて地面に深く沈み、テントの中へと滑り込むと――内側から器用に押さえ、形を整えていく。
気づけば、ものの五分ほどで立派なテントが完成していた。
「よしっ!」
ほどなくして、三人が武装を終えて馬車の陰から現れた。
アオイは最初から魔法使い風のローブを身につけていたが、三人は鉱石や甲殻類を素材にした防具に着替えており、現地で装備を整えたようだ。
「おかえりなさいっ」
「おー……ほんとに出来てるトララ!」
「噂通りッチュね……」
「ウッシ……妖精を操るって話、あながちウソでもなかったか……」
予想以上の早業に、それぞれが素直な感想を口にする。
「妖精って?」
「ウッシ、小さな人間の形で虫の羽を持った、大昔の生き物ウッシ。
でも性格は獰猛で、群れで人間を襲い――その歯でゆっくり噛み千切るらしいウッシ……」
「こ、こわい……それを僕が操ってるって噂なんですか?」
「例えウッシ。あくまで、そういう噂ウッシ」
「(……俺のいた世界の“妖精”とだいぶ違うんだけど)」
「まぁまぁ、そんなことはどうでもいいッチュ!これで準備は万端ッチュね!
後は荷物を馬車から――」
「あ、それももうやっておきましたよー」
「!?」
三人は弾かれたように馬車へと駆け戻った。
そこには――本来なら置かれているはずの魔皮紙、回復瓶、道具袋の姿がすでになく。
「な、ないトラ……!」
「ど、どういうことッチュ!?さっきまで確かにあったのに!」
「ウッシ、いつの間に……!?」
呆然とする三人の前で、アオイは仮面越しにふふっと笑っていた。
「ど、どうやったっチュ!? 今ずっと会話してたッチュよ!?」
「あ、えへへ……秘密かな?」
アオイは、実は馬車の中でこっそり【糸』を使って、すべての荷物に糸を張っていた。
そして会話中に、それを静かにテントへと“転送”していたのだ。
「じゃ、じゃあ……後は歩きながら話すッチュ!」
「これだけ準備が早いと、本当に楽ウッシなぁ」
「ありがと♪」
――こうして、予定よりずっと早く支度を終えた四人は、沼地の中を目的地へと歩き始めた。
「えーっと、確か……こうして……」
アオイは歩きながら、ブーツにそっと魔力を流し込む。
ぬかるんだ泥の中を歩いているはずなのに、足元は不思議なほどきれいなまま。
「おっ!? それはもしや、最近出た《ヌルクメルブーツ》トラ!?」
「うん、そうだよ」
「こ、これはアバレーとグリードの共同開発で生まれた最新型の防具トラァ!! ぬかるみ無効は神性能トラ!」
「そ、そう? 知らなかった」
(……お店のおじさんが「可愛い子にはこれがおすすめだよ」って言ってたから買っただけなんだけど)
トラ五郎はうらやましそうにブーツを見つめながら、鼻息を荒くし始めた。
「……ッハァ……ハァァ……!!」
その変態めいた様子に、すかさずチュー太郎のツッコミが飛ぶ。
「落ち着くッチュ!」
「いてっ!」
「まったく……女性を見て興奮してる不審者に見えるッチュよ!」
「いってーな! そんなつもりはないトラ!」
(……ああ、ほんとに……これ、嫌い)
そんな空気の中、アオイは静かに口を開いた。
透き通るような、だけどどこか突き刺さる声で。
「……あの、一ついいですか」
三人の目が彼女へと集まる。
アオイは仮面越しに、真っ直ぐに彼らを見て言った。
「僕を――女として見ないでください」