「スーハー……スーハー……っ、ななな、なんなんですかコレ! 本当に効いてるんですか!?」
ユキは先ほどアヌビス族に使ったばかりのリラックス効果のある小瓶の蓋を慌てて開けて、鼻に近づけて必死に吸っていた。だが、一向に落ち着く気配はない。
「ど、どどど、どうしましょう……と、とりあえずお部屋を片付けて……あっ、私の顔っ! やばい、今どんな顔してる!?」
急いで洗面所に駆け込むと、鏡に映った自分の顔――
「……へ、へへ……っ」
思わず引きつった笑みが漏れる。自分でもどうにもならないくらい、口元がニヤけていた。
「ど、どうしよ……この顔じゃまともに会えない……いーいーいぃぃぃぃったぁぁあい!!」
帽子を深く被って顔を隠し、慌てて部屋を出ようとした瞬間――ドアの縁に小指をぶつけた。
「いったぁっっっ!!」
床に転がりながら悶絶するも、その痛みが逆に冷静さを取り戻させてくれる。
「……しっかりしなさい、私……!」
仰向けのまま天井を見上げ、パシンパシンと自分の両頬を軽く叩く。
「よひっ!」
再び立ち上がって鏡を見ると、さっきまでのニヤけた口元は落ち着きを取り戻していた。
「こういうときは落ち着いて、一つずつです……」
ユキは洗面所を出て、部屋をぐるりと見渡す。
そこは、ほんの少しだけ高めの宿――ツインベッドの並ぶ、余裕のある部屋だった。
「たまたまですが、この宿にして正解でした。安宿だと話すスペースすらなかったですからね」
イスには、魔法で眠らせたまま拘束された魔族がいる。状況を説明する必要があるのは間違いない。
「一、この状況の説明……これは定まりました。次は――」
ユキはピンクの液が入った小瓶を机にそっと置き、近くのイスに腰かける。
「次は、ヒロユキさんのこと……。もしもジュンパクが彼を連れてきたなら、きっと“あの日の出来事”については話してるでしょう。でも……アヌビス族のことまでは、知らないはずです」
独り言のように小さくつぶやきながら、ひとつずつ確認していく。
「一、この状況の説明。二、ヒロユキさんの説明。そして、次は――」
ようやく頭が回ってきたその瞬間――部屋に設置されたタイムベルが、チンッ、と澄んだ音を鳴らした。
「き、きました……!」
胸の奥で、心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。
「は、はいですー」
扉の前で深呼吸を繰り返し、ユキは震える手で鍵を外す。
「すーはー……すーはー……」
そして、ゆっくりとドアノブをひねり――
扉を開けた、その瞬間。
「すいません、ちょっとしたトラブルで遅くなっちゃって」
「っ……!」
視界に飛び込んできたのは、幻想の中から抜け出してきたような美女だった。
夜の星明かりのように輝く、一本も乱れのない金糸のロングヘア。
肌は雪のように白く、シミも傷もない完璧な肌。
青く透き通る瞳は宝石を思わせ、吸い込まれそうなほど神秘的で。
胸元は豊かに膨らみ、くびれたウエストと対比するように柔らかく丸みを帯びた腰回り。
その全てが、まるで神造の彫像――
「……どうしました? ユキさん……だよね?」
「あ……ぅ……」
ユキは言葉が出なかった。視線を逸らすことも、瞬きをすることすらできず。
目の奥がじんわりと熱くなる。
慌てて帽子を深く被り、顔を隠して一歩、後ろへ下がる。
「あっ、ああっ! そういうことか! すみません!」
アオイはすぐに察したようで、そっと一枚の魔皮紙を取り出す。
魔力を通すと、それは淡い光を放ちながら白の狐面へと変わり、彼女の顔をやさしく覆った。
「すみません、一応少し前に会ったことがあるから、分かりやすいように今日は仮面を外してたんですけど……やっぱり金髪と青い目はダメでしたね、は、はは……」
どこか残念そうに、けれど優しい苦笑を浮かべる仮面の美女――。
「ち、ちが……うぐっ……ひっく……」
否定したかった。けれど、もう感情が抑えられなかった。
喋ろうとするたび、口元が震えて、言葉にならない。
「本当に大丈夫ですか?」
さすがに外から見られたら「何事か」と騒がれるだろう。
アオイはそっと部屋に入り、静かにドアを閉めた。
「す……すすすこし……ま、待っててください……」
「は、はい……」
ユキはアオイに背を向け、部屋の奥へ。視線の届かない位置に座り込む。
「……うぐっ……しっかり……しなきゃ……私、まだ……ダメなのに……」
こぼれる涙を、声を殺して堪えながら――。
「…………よしっ」
ユキはなんとか心を落ち着けて立ち上がり、アオイのもとへ戻る。
「すみません、少し取り乱してしまいました……」
「いえいえ、僕も不注意でした」
不思議と、仮面をつけてくれているおかげか、アオイを見ても冷静に話せるようになっていた。
「それでは、部屋でゆっくり話しましょう」
「あ、えーっと……ですねぇ……」
「?」
「いえ、部屋より来てもらった方が早いかもしれません。馬車置き場に行けますか?」
「え、えぇ、大丈夫ですよ。それと……」
「はい?」
「アオイさんは私より歳上なので、敬語はやめてください」
「え? あ、はい、わかりま……わかった」
その声を聞いて、ユキは自然と笑顔になる。
「はい! では行きましょう!」
ユキは、距離をとって前を歩くアオイの後ろ姿を見ながら、嬉しそうに付いていく。
「(神様、これくらいのご褒美は……いいですよね♪)」
何故ユキがこの様になったのかは__今はユキ本人しか知らない。