「貴様!」
「……クルッポー」
静かに詰め寄っていたヒロユキが、一気に跳躍し――
鋭く伸びた足爪が魔王の背後から振り下ろされる。
「……っ!」
殺気に気づいた魔王は、とっさに身体をひねり、低く身を屈めて回避する。
爪はわずかに黄金の鎧の端をかすめ、金属音を立てながら空を裂いた。
魔王はそのまま横に跳ね退き、ヒロユキとの距離を取る。
(……どういうことだ。なぜ、我にここまで近づけた……?)
動揺が、魔王の心をざわつかせる。
本来、魔眼の結界内――この空間において、
敵が自分に近づくほど、重力と感覚干渉が強まる仕組みのはずだった。
ましてや、すでにキールとヒロユキには、
骨が砕けるほどの重圧を掛けていたはず。
まるで人質に銃を突きつけていた相手が、それを無視して反撃してきたようなもの。
――にもかかわらず。
ヒロユキは潰されることもなく、確かな意思で距離を詰め、
そして攻撃に至っていた。
「なぜだッ!」
「………………」
キールは答えない。
例の液体――嘘を封じる真紅のドリンクの効力はまだ続いている、なのにどうして……
無言のまま、ただ鋭く魔王を睨み返すキールの表情には、余裕すらあった。
「……ならば――!」
「……っ!?」
魔王の瞳が赤く輝き、その視線がヒロユキのローブを捕らえる。
次の瞬間――
ヒロユキの身体に、尋常ではない重みが一気にのしかかる。
たった一枚の布のはずが、まるで鉛の板のような重さへと変貌していた。
「……ッ!」
ヒロユキはローブの機能が失われたことを悟り、
咄嗟に【気配遮断ローブ】を脱ぎ捨てる。
布が床に落ちる音が、重苦しい沈黙の中で異様に大きく響いた。
「……クルッポー」
「どんな術かは知らぬが――我が魔眼を完全に遮れるわけではないようだな」
「…………」
「――ならば、容赦はしない」
「っ……!」
その一瞬は、本当に“瞬き”の刹那だった。
魔王は一切の魔法を用いず、ただ身体一つでキールの目の前に移動し――
鋭い拳で、真っ直ぐにキールの顔面を殴りつけた。
「……っぐああッ!!」
吹き飛んだキールの身体は、ピラミッドの石壁に叩きつけられ、
その衝撃で壁面が崩れ、岩片が瓦礫となって周囲に散る。
【目撃護】が発動していなければ、
その衝撃だけで脳を揺さぶられ、内臓のいくつかは破裂していたことだろう。
「能力を封じれば勝てるとでも思ったか?」
魔王はその場に立ったまま、冷ややかに言い放つ。
「そもそも、我と貴様たちでは“土俵”が違うのだ。……理解しやすく、肉体の性能で示してやったまで」
キールは重い息を吐きながら、崩れた瓦礫の中から立ち上がる。
「ふむ……鎧に傷はあれど、骨も砕けていない、身体は無事か」
「…………っ」
キールは【武器召喚】を発動させようとするが――
作りかけの氷剣は、空気を圧縮されるように潰され、霧散する。
「無駄だ」
「……クルッポー!」
その声とともに、背後から再びヒロユキが飛びかかる。
しかし――
「それも、無駄だと言ったはずだ」
魔王は振り向きすらせず、流れるような回し蹴りを叩き込む。
「――っ!!」
ヒロユキの身体は吹き飛び、石壁へと叩きつけられる。
その衝撃は【目撃護】の加護がなければ、
首の骨が折れ、即死していてもおかしくないほどだった。
「ふむ、騎士だけでなく、勇者もか……。なるほど、少数で挑んできた理由はこれか? その魔法、どうやらダメージを受けなくなるらしいが、多くの者に同時には施せまい。ならば、精鋭だけを選んで――戦争を仕掛けてきたというわけだな」
まだ《嘘封じ》の時間内なのか、魔王は気持ちよさそうに一人で喋っている。
余裕の表れ……だがそれは、キールにとっては“僥倖”だった。
「……」
魔王は現在、目撃護を5人全員にかけていると勘違いしている。
キールは余計な言葉を控え、静かに体勢を整える。
――今、自分が最も警戒しているのは“他の仲間たち”に魔王の攻撃が及ぶこと。
魔王がこちらの意図を誤解したままでいてくれることこそ、最大の利点だった。
「はぁぁあっ!」
「無駄だと言っているだろう」
キールが一気に詰め寄り、拳を魔王の顔面へと叩き込もうとする――
だが、魔王は軽く体をひねるだけで回避し、そのまま脚を振り上げる。
「ぐっ!」
キールの体が、天井へと吹き飛ぶ。
次の瞬間、ヒロユキがすかさず魔王の足元を狙って踏み込んだが――
「……遅い」
魔王のかかと落としがヒロユキの頭部を叩きつけ、彼は顔から地面に激突する。
どちらも【目撃護】がなければ、即死していた一撃だった。
「まだだッ!」
「ほう?」
天井に蹴りを入れ、跳ね返る勢いで一気に魔王へと突進するキール。
だが――
「っ……!」
「この程度か?」
魔王はその場から跳躍する。魔法など使わず、純粋な脚力のみで――
キールが飛び込んできた軌道上に入り込み、空中でその身体を掴み取った。
「なっ――ぐっ!」
魔王はそのまま、弧を描くようにキールを地面に投げつける。
岩が砕け、空気が震える。
「貴様のその力、確かに強力だ。認めよう……」
魔王はゆっくりと着地し、キールを見下ろす。
「だが、その力が永劫に続くことはないのだろう?」
「っ……!」
「そして貴様たちの目的は――我を殺すこと」
ちら、とヒロユキへ目をやる。
「そこの勇者は知っているだろうが……念のため、名乗っておいてやろう」
両腕を大きく広げ、魔王は宣言した。
「我こそが、【リブラ】の称号を持つ魔王――《メイト》」
「冥土の土産に、その名を刻んで逝くがいい」