神殿の大扉をくぐると、そこは闇だった。
扉が背後で“ギィィ……”と閉まりきると、まるで光そのものが存在しないかのような、完全な暗闇が訪れた。
「【光源】ですぞ」
ムラサメが魔皮紙を発動させ、淡い光が周囲を照らす。
同時にアオイにも魔皮紙を差し出すが――
「大丈夫。僕は見えてる……けど」
「けど? どうかしましたか、我が君?」
獣人化しているアオイの瞳には、暗闇の奥の景色まではっきり見えていた。
だが、その景色が……異様だった。
「……なにこれ、何もない」
本当に、“何もない”のだ。
床と壁と天井――ただそれだけが延々と続いている。
柱も彫刻も装飾も、窓すらない。神殿とは名ばかりの、空洞のような空間。
「何も……ない?ですぞ?」
「うん。空間だけが広がってるって感じ。……違和感しかない」
言葉を交わしながらも、二人は黙ってキング偽物――魔王の後ろをついて歩いた。
静寂の中、靴音だけが響く空間を、10分ほど進んだ頃――
「ここら辺ね」
不意にキング偽物が立ち止まり、こちらを振り向いた。
「……ここ? って言われても……何も変わってないけど」
周囲は相変わらず、何の変化もない空間のままだ。
ただの“床”に見えるその場所で――
「ま、見てて」
キング偽物が、コンコン、と足元を軽く叩いた。
次の瞬間、床が淡く光を放ち、魔法陣がゆっくりと展開されていく。
その中心から、ビー玉ほどの小さなガラス球が、音もなくせり上がってきた。
「ビー玉……?」
アオイが首をかしげた瞬間、その玉の表面からぬるりとした粘液がにじみ出てきた。
みるみるうちにガラス球はスライム状の粘液に覆われ、最終的にはピンク色のスライムの姿へと変わっていた。
「これは……?」
アオイが、恐る恐る問いかける。
その問いに、魔王ロビンはあっさりと――けれど衝撃的に、こう答えた。
「これが、私の本体よ」
「……え?」
まさか、と目を疑う。
だって――目の前にいるのは、踏めば潰れそうなただのスライム。
けれどその透明な身体の中に、先ほどのビー玉がはっきりと見えている。
そこに、魔王の“核”があるとでも言うように――
「この玉を壊せば、私はこの世から完全に消滅するわ」
ピンク色のスライムが、ビー玉のような“核”を震わせながら言う。
「もともとこの“城”は――広大な空間の中にある、私の本体を探させるための造りなのよ」
「……なんでそんな大事なことを、敵である僕たちに?」
俺はつい、疑いを込めて問い返した。
「言ったでしょう? “邪魔者抜きで話をしましょう”って。――これが、私の覚悟よ」
堂々とそう言い切ったその声に、嘘は感じなかった。
ここまで俺たちに何の攻撃も仕掛けず、むしろ導いてきたこと。
そしてこの“何もない空間”の構造自体が、それを裏付けていた。
……これは、演技や策略とは別の――「本心」だ。
「……分かった。で、その話っていうのは?」
「そう来なくっちゃ♪」
キング偽物が野太い声で嬉しそうに笑い、スライム本体もフルフルと震えた。
どこか嬉しそうに、誇らしげに。
「改めて自己紹介させてもらうわ。私の名前は【ロビン】。
魔王様から“【バルゴ】”の地位を授かった魔王で、種族は――見ての通り、サキュバス族」
スライムはぴょんとキング偽物の頭の上に飛び乗って、ちょこんと乗っかったまま続けた。
「まずは、“話”の前に、さっき言った通り――この世界の“歴史”を少し、聞いてもらうわ」
「歴史……?」
「ええ。あなたたち人間が知らない、“魔族側”の歴史をね。
本当はゆっくり座って聞いてもらいたいところだけど……この通り、何も無い空間だから我慢してちょうだい」
「……」
アオイは静かに頷く。
――この世界で、“魔王自ら”人間に歴史を語る。
そんな前例、聞いたこともない。たぶん、俺が初めてだ。
「むかーしむかし……何百年か、何千年も前かしらね。
その頃、私たち魔王は、“誰が人間を管理するか”を巡って、世界規模の戦争をしていたの」
「人間を……管理……」
アオイの脳裏に、【スコーピオル】の光景がよぎる。
培養カプセルに閉じ込められ、血を抜かれるだけの“食糧”とされた人間たち。
「あのときの……」
「そう。魔族にとって、人間は希少で、そして強力な資源なのよ。
たとえば――“人間の血を飲むことで完全体になれる吸血鬼族”、
“人間の身体を得ることで、この世界に干渉できるようになるアヌビス族”。
こうした存在が、魔王として君臨していた時代よ」
「……じゃあ、君も。人間が必要だったってこと?」
「ご名答♪ サキュバス族は――この通り、**“身体を持たない種族”**なの」
そう言って、キング偽物が頭の上を指差す。
そこに、ピンク色のスライムがちょこんと乗っていた。
「かといって、私が身体に“入る”からといって、乗っ取るわけじゃないのよ?
アオイちゃんたちの会話を聞いてたのも――胃とか腸とかから、こっそりね」
「へ……胃の中!?」
「でも、私が体内に入ると、“神経”を刺激して、ある“症状”が引き起こされるの。
――アオイちゃんも、体験したわよね?」
「う……うん」
アオイは顔をそらしながら答える。
「ですぞ!? まさか……!」
ムラサメがアオイを見て絶句する。
「ご、ごめん……実は、昨日の飲み物……」
「す、すいませんですぞおおおおお!!」
ムラサメはその言葉を聞くやいなや、パタンと地面に土下座した。
「へ?」
「まさかっ! まさか私が渡した魔皮紙が不良品だったとは……ッ!!
このムラサメ、不覚……っ!想定しておくべき事態でしたぞ!
すみませんでしたですぞおおお!!」
ガンッ、ガンッ、と何度も何度も頭を床にぶつけて謝るムラサメ。
「わ、わわっ!? だ、大丈夫だから!怒ってないから!話、聞こ? ね?」
「……本当に、申し訳なかったですぞ……」
――実際は、ただ何も考えずに飲んだアオイの自業自得なんだけど。
ここで突っ込んでも話が進まなさそうなので、アオイは苦笑いしながらムラサメを適当に流すことにした。
「話、逸らしてごめん。……それで? その“感覚”を体験させたのって、何か理由があるの?」
「その感覚――あれは、私たちサキュバス族には“存在しない”のよ」
「サキュバスなのに?」
アオイの思わず漏れた一言に、ムラサメはもちろん、ロビン本人までもが「は?」という顔になる。
「……サキュバス“なのに”って。あなた、私以外のサキュバスに会ったことあるの?」
「え、あ……いや、えーっと……」
「ふふ。もしも会ったって言うなら、それは偽物ね。
だって――“純粋なサキュバス”は、この世界に私一人しかいないもの」
「……どういうこと?」
「まあ、それも今から話すわ」
「……うん」
アオイは、あまりにも何もかも話してくるロビンに、逆に一抹の不信感を覚えた。
ここまで“丸裸”になるような行動……その裏に、いったい何があるのか。
「アオイちゃん、人間が“子どもを宿す”とき、何をするか知ってる?」
「……そりゃ、“アレ”だけど」
「そう、“アレ”をするでしょ? でも逆に、“アレ”をしなきゃ、繁殖できない。
人間の生殖って、すごく単純。快感があるからこそ、続くのよ」
「…………」
「でももし、“アレ”が痛みだけだったら? 苦痛しかなかったら?」
アオイは、返事をする前にピンと来た。
「……誰も、やらない」
「そう。気持ちよくないなら、繰り返さない。
つまり“快感”は“繁殖のトリガー”として、神が与えた最高のギフトなのよ。
そしてその快感を、“私たち”は――持ってない」
ロビンは一瞬、興奮気味にそう語ると、ふっと息を整えて言葉を続けた。
「アオイちゃん、“好きな人がいる”って言ってたわよね?」
「えっ……?」
思わず固まる。
それは、昨日。会話の流れを誤魔化すため、適当に“嘘”で言ったこと。
だが今、その“何気ない一言”を掘り返されて、アオイは言葉に詰まった。
横でムラサメが、苦悶の表情を浮かべながら、拳をギュッと握りしめる。
「好きな人がいたら、どうしてもその人のことばかり考えちゃうよね?
今、何してるのかな、どこにいるのかな、って」
「……そりゃ、考える……んじゃないかな?」
――疑問系になるのは、理由がある。
アオイは中学生の頃に女性恐怖症を発症し、それ以降“誰かを好きになる”という感情を持った記憶がない。
……いや。
小学生の頃は、もしかしたら――そういう気持ちも、少しはあったかもしれない。
でも今、その記憶すら、曖昧になっていた。
「ふふ、恥ずかしがらなくていいのよ」
ロビンが、やわらかく微笑むように言った。
「“恋をしている人間”って、自分のことより相手を優先して考えるでしょ?
私の能力――【DNA変化】は、その感情を読み取ることで発動するの」
「……DNA、変化?」
「そう。この粘液……私の身体はね、恋する相手の情報を“感覚と神経”から読み取って、相手の“好きな人”に変化できるのよ」
「……そういうことだったのか」
アオイは、ようやく理解した。
なぜ“死んだはずのキング”が、何の違和感もなく目の前にいたのか。
――それは、アイという“媒体”を使って、ロビンがキングの姿に“変化”していたからだ。
「そういうこと♪ まぁ……アオイちゃんを見てる感じ、偶然にも“この人”を知っていた、ってだけみたいだけど」
「……昔、ちょっとだけ。関わったことがある」
「ふーん……なるほど? ――じゃあ、話を続けるわね」
ロビンの声が、今度は一段階低くなる。
「私は、この能力で変化した後――相手と“行為”をする。
そうすることで、相手には“子”が宿るの」
「……!」
「その子は、私の粘液の一部……つまり、“サキュバスとしての要素”を受け継いで生まれてくるわ。
――それが、私たちサキュバス族の“繁栄方法”なの」
アオイは、言葉を失った。
ロビンの言っていることは、確かに理屈として正しい。
“身体を持たない種族”が、身体を手に入れ、感情を読み取り、変化し、命を生み出す――
それはまるで、“愛”や“本能”という人間の領域に、魔族が侵入してきているような感覚だった。
「一つ……よろしいですかな?」
ここで、初めてムラサメが魔王に問いかけた。
「うん? どうぞ、何でも♪」
「では、単刀直入に。
その“繁栄方法”が本当なら――どうしてサキュバス族は、ここまで数が少ないのですぞ?」
その問いは、ムラサメだけでなく、アオイ自身もずっと引っかかっていた。
世界を支配していたはずの魔王――その一角が治める“村”にしては、あまりにも人が少なすぎる。
それは、単なる違和感以上の謎だった。
ロビンは、にこやかに――けれどあっさりと、答えた。
「あぁ、それはね。すっごく単純な話よ」
「――私、封印されてたの」
一瞬、場の空気が止まった。
「……は?」
アオイが、思わず聞き返してしまうほどに、あまりにもさらっと言われた“事実”。
「だからここ数百年?下手したら千年近く、活動できなかったのよ〜。
その間、サキュバス族の増殖も完全に止まってたってわけ。
ね?シンプルでしょ?」