「…………」
「――素晴らしい」
パチ、パチ……と、後ろの方から誰かが近づいてくる足音と拍手の音が響く。
振り向いた俺の目に映ったのは――
「どうも、私が《レイロウ》です」
シルクハットに正装、手には銀のステッキ。年は四十代くらいだろうか。
一見紳士風、でもどうにも胡散臭さが滲み出ている中年男が立っていた。
「……どうも」
「おや?どうしました?【限界突破】、解いてもいいんですよ?」
「解いた途端、身体が動かなくなって……奴隷刻印を入れられたら困りますから」
「はっはっはっ、それならば――私は君の魔力が尽きるまで、別の部屋で眺めていればいいでしょう?」
「どうだか。油断させるために、そう言ってる可能性もある」
「ふむ……まあ良いでしょう。信じるかどうかは、あなた次第です」
男はそう言って、ふいに小瓶を差し出してきた。
「ただひとつ――これを飲んでいただきたいのです」
「……?」
中を覗くと、ドロッとした赤黒い液体が波打っていた。
「血……?」
「ご名答。女神様の《血》です」
「……それを飲めと?何の意味がある」
「まずは――神が定めた“運命”から逃れることができます」
「フッ、他には?」
「“力”です」
「……魔力の類?」
「いいえ。その魂に応じて与えられる、唯一無二の“力”」
「…………」
「この血は――女神様の祝福そのもの。あなたの可能性を、もっとも美しく引き出してくれる」
「……もういい。分かった」
……まったく。
【神】だの『女神』だの、次から次へとよく喋る。
神ならまだしも――『女神』の血、なんて。
どう考えても、悪の物だろ。
「……どうします? 飲みますか?」
「飲まなかったら?」
「神に殺されるでしょうね。……たとえば、“私”が殺す、という形で」
「っ!」
その言葉を聞いた瞬間、俺は剣を抜いて――男の首を狙って振り抜いた!
だが――
「これは……力の、ほんの一部ですよ」
なんと、俺の【限界突破】で放った一撃を、奴は片手で受け止めた!
「お前……その手……!」
男の腕は、黒い鱗に覆われていた。……いや、あれは“魔物の爪”か?
けれど、まるで防具のように整っている。
「不思議でしょう? ですが、これが現実なのです」
バキィッ!
そのまま奴は、俺の剣を容易くへし折った。
「……アナタには、実物を見せた方が早かったようですね」
「…………」
「ならば、もうひと押し」
奴は魔皮紙を取り出し、空中に映像を投影した。
「っ……!? 35番さん!?」
{『リンくん!』}
映し出されたのは、身動きも取れず拘束されている35番さんの姿――!
「卑怯だぞ!!」
「卑怯? ……それは誉め言葉です。私たちは“女神の翼”ですよ?」
にやりと笑うその顔には、一片の罪悪感もなかった。
「……アナタはもう、わかっているはずです。どんな手を使っても――悪に堕ちてでも、力を手に入れなければならないのです」
{『ぐっ……きゃあああああっ!いたいっ、いたいよぉ!』}
「35番さん!!」
レイロウが指を鳴らした瞬間、35番さんの体が激しく痙攣しはじめる。
「やめろ!!」
「どうしますか? このまま彼女を――“処分”しても構いませんよ?」
{『リンくん……わたしのことは、いいから……っ!やああああ!!いたいっ!!』}
「――わかった!!もうやめろ!!」
「……そう。それでいいのです」
ピタリと痙攣が止み、35番さんは荒い呼吸をしながらうっすらと目を開ける。
{『……はぁ……リン……くん……』}
「待ってて……! 絶対に助けるから!」
震える手で、俺は瓶の蓋を開ける。
そして――迷わず飲み干した。
「ようこそ」
{『リン君♪』}
「……え?」
先程までの35番がニヤリとした____瞬間だった。
「ぐ、あ……っ!?」
「ぐあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
肉が裂ける――いや、それ以上だ。
“魂”が引きちぎられるような。
内側から、無理やり何かがねじ込まれるような。
常識も痛覚も超えた、“狂気そのもの”の激痛が俺を貫いた。
全身の骨がきしみ、脳が焼き焦げ、内臓がひとつひとつ逆流していくような――そんな“終わりの音”だけが耳に残った。
「う、あああああ……っ……」
口から何かがこみ上げてくる。
血か、魔力か、それとも……俺自身か?
それでも『女神の血』は確かに俺の中で動き始めていた。