動かないアンファングさんを慌てて説得して奥さんを追いかけてもらい、しばらくした後。
アンファングさんは家に帰ってきて、疲れた様子で言った。
「アイツなら大丈夫だ。村の女友達んとこにいる」
「そう、ですか……」
「ったく……アイツ、オレがこれだけ譲歩してるってのに、いつまでも拗ねやがって……あ、ケイは気にすんなよ。ケンカするとアイツが家出するのは昔からだから」
アンファングさんが手をひらひらと振りながら笑う。
だが俺は笑えなかった。
彼の俺に対する贔屓は異常だ。
どう考えても、出会って間もない素性の知れない男に対するものじゃない。
「ケイ? どうした?」
「……いえ、なんでもありません」
行く当てもないし、できれば拾ってもらった恩を返せるようになるまで、ここに住まわせてもらえたらと考えていたが……アンファングさんと奥さんの家庭が壊れるなら話は別だ。
明日は奥さんのところに出向いて、二人の仲をかき乱したことを謝ってから、ここを出ていこう。
アンファングさんには……正直に話したら絶対に引き止められるだろうから、何かしらの理由をつけて隣町まで送ってもらってから別れよう。
本当だったら自分一人で出ていくのが一番いいんだろうけど、魔物は怖い。
薪割りで異様に動けたことを考えると、身体能力がチート並みに上がっている気もするから何とかなる可能性もあるが、それにしたって順序というものがある。
ぶっつけ本番で命の掛かった実戦は勘弁願いたい。
〇
深夜。
居間で雑魚寝するというこちらの主張は却下され、俺はアンファングさんの寝室にあるベッドの上で横になっていた。
ちなみにアンファングさんは奥さんの部屋で寝ている。
「…………眠れない」
今日一日でいろいろありすぎて心身ともに疲れているはずだが、なんだか目が冴えている。もしこれが自室なら電気を点けて、スマホでもいじりながら時間を潰すところだが、ここは異世界だ。電気はないしスマホもない。
とはいえ、魔石というものを使って動く魔道具と呼ばれるものはあるため、その気になれば夜でも灯りには困らないのだが……当然ながら、燃料にあたる魔石は使えば消耗するとのことなので、使いづらい。ただでさえ迷惑を掛けてる立場だし。
おかしいな……女神様に願いを叶えてもらって転生したはずが、今のところあまり幸せじゃないぞ……?
そりゃ外見を変えてもらったのはありがたいけど、迂闊に人と目も合わせられないんじゃ生きにくいにもほどがある。開き直って手あたり次第に他人を魅了できるような性格でもないし。
「人生ままならない……ん?」
居間の方で微かに、床が軋む音がした。
……アンファングさんがトイレにでも起きたのだろうか?
そう思ったのもの束の間、音は少しずつこちらに近づき、やがて寝室の前で止まった。
そしてドアが静かに、ゆっくりと開かれていく。
「っ……」
起き上がり、ドアの方を見て息を呑む。
そこには、月明かりに照らされて鈍色に光るナイフを持った、アンファングさん——の奥さんがいた。
「あら、起きてたのね……」
「ど、どうしたんですか奥さん、こんな夜中に」
俺は慌てて枕元にあったランプの灯りを点けながら聞いた。
いやもう、手に持ってるナイフが嫌ってほど目的の方向性を物語ってるけど、念のため。
「アンタを殺そうと思って」
淡々と言いながら、ナイフを逆手に持ち直す奥さん。
さりげなく持ち方を変えるの怖すぎる。
「奥さん、ごめんなさい……奥さんのお怒りはごもっともです。もっと早く言うべきだったんですが、私は明日にでもこの村を出ていきますので……」
「もう遅いわ」
奥さんがゆっくりと、歩を進める。
「あの人は、もう私の知っているあの人じゃない」
「……一時的な気の迷いかもしれません。時間が経ったら元に戻るかも」
魔眼の効果をまだ十分に検証していない現状、それは可能性として実際あり得る話だ。
時間が経ったり俺が離れたりしたら効果がなくなるかもしれないし、そもそも女神様は確か魔眼について『慣れれば制御できるようになる』みたいなことを言っていた。
「原因になったお前が言うな、って思われるかもしれませんが、そこまで悲観しなくても……」
「あの人はアナタを選んだ。幼馴染で、夫婦になってからも苦楽を共にしてきた私ではなく、出会って初日のアナタを。その事実は消えはしない」
奥さんはベッドに近づき、逆手に持ったナイフをゆっくりと持ち上げていく。
「終わりよ、何もかも。アンタを殺して、私も死ぬ。それで全部、お終い」
「奥さん……落ち着いてください。今からでも間に合うはず……」
「——終わりだって、言ってるのよ!!」
ベッドに座る俺に向かって、逆手に持ったナイフが振り下ろされる。
次の瞬間、俺はその腕を掴んで止めた。
なんとなく予想はしていたが、どうやら動体視力も大幅に上がっているらしい。
スローモーションとまではいかないまでも、難なく奥さんの腕をキャッチすることができた。
だが、ここからが問題だ。
「離しなさい……!!」
「刺さないって約束してもらえますか……!?」
「…………約束するわ」
本当かよ……と思いながら、恐る恐る手を離す。
直後、ナイフが首を狙って横から襲ってきた。
「ちょっ……刺さないって言いましたよね!?」
上体を後ろへ反らせて避け、抗議する。
「刺すつもりはなかったわ。切るつもりだったもの」
「それなら切るのも禁止で!」
「そう……なら次は、えぐるわ!」
奥さんはそう言いながら、俺の目に向かってナイフを突き出した。
俺はその手首を掴み、捻ってナイフを奪い取った。
「くっ……返しなさい!」
「返せません。いったん落ち着いてください」
俺は内心、死ぬほど焦りながらも冷静を装って淡々と言った。
前世、警備会社の講習で護身術を真面目にやっておいて良かった……まさかこんな場面で使うことになるとは。人生何があるかわからないってレベルじゃないぞ。
「ああそう……なら、ここからは殺し合いね」
奥さんが背中に手を回すと、そこからもう一本、鈍色に光る大型のナイフが出てきた。
「えぇ……なんで予備のナイフ持ってるんですか……」
「一本目が血で切れなくなっても、二本目でいっぱい切れるように」
いや、血で切れなくなってる時点でオーバーキルだと思うのですが……。
殺意が高すぎる。
どうしよう……魅了の魔眼を使うべきだろうか。
アンファングさんの例を考えると、どう考えても安易に使うべきじゃないのは確かだ。
しかしこのままだと俺が逃げ出せても、アンファングさんと奥さんの関係はメチャクチャだ。
更に言えば奥さん自身、やけになって自害する可能性もある。
限りなく詰んでる気がする。だが自分から魔眼の使用を決心できない。
もし仮に魔眼の効果が永続だった場合、取り返しがつかないからだ。
……本当に、他にもう手はないのだろうか?
そう考えていたところに、ノックの音が聞こえてきた。
『ケイ? ランプ点けてるみたいだが、まだ起きてるのか?』
ドア越しにアンファングさんの声が聞こえてくる。
「っ! 奥さん、ナイフを隠して!」
俺は奥さんの理性に一縷の望みをかけ、小声で言った。
もちろん自分が奪ったナイフも枕元に隠す。
「入るぞ~……って、ジエナ? 何やってんだ?」
「アナタ……」
奥さんはベッドの前に立ち、アンファングさんに向き直っている。
その背にナイフを隠しながら。
「アナタ……私、この人に襲われたの」
「えっ……奥さん!?」
唐突な濡れ衣に思わず声が出た。
「はぁ? ケイがお前を?」
「信じてくれない?」
「信じるも何も……おいケイ、襲ったのか?」
「いやいやいや襲ってないです!」
「だとよ。くだらねえ嘘つくなっての」
アンファングさんは腕を組んでため息をついた。
「やっぱり……私より、この人を選ぶのね」
奥さんは暗い声で言いながら、背中に隠していたナイフを胸の前に両手で掲げた。
様子がおかしい……まさか。
「選ぶとかそれ以前の問題……おい、ジエナ、なんだそれ」
「私の心は死んだ……いえ、殺されたのよ。殺したのはこの人。それが私の遺言」
奥さんがナイフの刃を自分に向ける。
「さようなら、アナタ。愛してるわ」
そしてナイフは奥さんの喉に向かい——俺の手のひらを貫いて、止まった。
手に灼熱を感じ、すぐ耐えがたいほどの激痛が襲ってくる。
「ぐっ……!」
「っ、何を!?」
背後から伸びてきた俺の手にナイフが止められたのを見て、奥さんが再び手に力を入れる。
だが俺はそれを無視して貫かれていない左手で奥さんの顎を掴み、こちらを振り向かせて言った。
「——俺の目を見ろ!!」