奥さんが俺の目を見る。
次の瞬間、銃声のような幻聴が聞こえたかと思うと、奥さんは目を大きく見開いて固まった。
「ジエナ!」
駆け寄ってきたアンファングさんが奥さんの肩を抱いて、強引に俺から離した。
力が抜けたのか、握っていたナイフも離してくれたようで、その刃は俺の手に突き刺さったままになっている。
「ケイ! 大丈夫か!?」
「っつ……思ったよりは……って、いったぁ!?」
アンファングさんは部屋にあるタンスから大きめの白い布を取り出してきたかと思うと、俺の手に刺さったナイフを問答無用で一気に抜いて、傷口を布で強く巻き始めた。
「じっとしてろ! ……ガッツリ貫通してた割にはそこまで血は出てないな。どうやら太い血管は傷ついてないらしい」
「はは、は……不幸中の幸い、ですね……」
「ケイ……すまん」
アンファングさんは俺の手に布を巻き終えると、呆然とした様子でそれを眺めていた奥さんを振り返った。
「ジエナ……」
「ぁ……アナタ……わ、私……私……」
魔眼の影響か、それとも血を見て興奮が冷めたのか、青ざめ動揺した様子の奥さんにアンファングさんが近づいていく。
マズい……アンファングさんは魔眼のせいで異様に俺を贔屓している。
このままだと取り返しのつかないことになるかもしれない。
「アンファングさん待ってください! 奥さんは悪くなくて、全部……」
「いや……人を傷つけておいて悪くない、なんてことはねえ」
アンファングさんが奥さんに手を伸ばす。
「ひっ……!」
「アンファングさん!!」
「——だが、ジエナをここまで追い詰めたのはオレだ」
そう言ってアンファングさんは奥さんを引き寄せ、両腕で優しく抱きしめた。
「ジエナ……すまなかった。誰よりも大切なはずのお前をないがしろにして、オレは……」
「ぁ、アナタ……」
「この機会に役立たずのオレなんかとは別れたほうが、お前にはとって幸せだと……そんな無責任なことを考えて、お前から逃げてた。でも……もうオレは逃げない。お前が言った通り、オレは生涯を通してお前に償う。だから……生きてくれ。お前が死んだら、オレは生きていけない」
アンファングさんが強く抱きしめると、奥さんはその胸に顔を埋めて泣き始めた。
「ぅ……アナタ……ごめんなさい……私、どうかしてた……うぅ……」
「お前は悪くない。どうかしてたのも、悪いも全部オレだ。……だからケイ」
奥さんを抱きしめたままアンファングさんがこちらを振り向く。
「ジエナを……責めないでくれるか? 罰はオレが受ける」
「そ、そんな……責める気なんてまったくないです! むしろ申し訳なくて……」
「ケイがそんな風に思う必要はないと思うが……すまん、そう言ってもらえると助かる。……後は、非常に言いにくいんだが……」
「は、はい?」
「ケイをオレの後継者にするって話……あれは、なしにしてくれ」
アンファングさんは悲しそうな顔で、すすり泣く奥さんの頭を撫でながら言葉を続ける。
「ジエナの命には代えられない」
「アンファングさん……」
「本当にすまない……もちろん、ただ放り出すことはしない。隣町まで送って、そこからはオレの実家に頼んで面倒を……」
アンファングさんの言葉を聞きながら、俺は衝撃を受けていた。
彼に——魅了の魔眼が効いていない。
いや……やたら親切なのは変わらないから、魔眼の効果自体はあるのかもしれない。
しかし今までのように、奥さんを差し置いてまで俺を優先する、といった異常さはない。
それを目の当たりにして、俺は思い出した。
女神様がこの魔眼を『そこまで強力ではない』と言っていたことを。
「……そうか」
この魔眼は……本当に大事なもの、心の底から大切に思っているものを捻じ曲げるほどの力は、ないんだ。
「よかった……」
安堵したせいか、目元にじわりと涙が浮かんでくる。
取り返しのつかないことにならなくて、本当に……よかった。
「あ、あの……ケイさん……」
アンファングさんの胸で泣き、少し落ち着いた奥さんがおずおずとした様子で俺に声を掛ける。
「その傷……ごめんなさい、私を庇って……」
「いえそんな……謝らないでください」
俺は何度も謝ってくる奥さんに、諸悪の根源は自分なので謝る必要はなく、むしろ悪いのはこちらなので申し訳ないと逆に平謝りした。
「ケイさん……」
奥さんは感動したように目を潤ませ、頬を染めて俺の名前を呼んだ。
「アナタのような善良な人を追い出そうとしていたなんて……私が完全に間違っていました。私に罪を償わせてください」
「いえあの……ですから、奥さんは悪くなくてですね……」
「夫が言った通り、人を傷つけておいて悪くないはずはありません。お願いですから、どうか……」
一時は俺を殺そうとしたほど嫌っていたのに、今や奥さんの態度は豹変していた。図らずとも命を助ける形になったことが魔眼の力と合わさり効いたのかもしれない。
「ジエナ、今日はもう遅いしケイも疲れてるだろうから、続きは明日にしよう。な?」
奥さんとの話が平行線になっているところで、手の傷に配慮してくれたのかアンファングさんが間に入ってくれた。
実は色々とあった割には全然疲れておらず、なぜか手の傷も痛くなくなってきていたのだが、その気遣いは純粋に嬉しい。
今日のところはありがたく休ませてもらうとしよう。
〇
翌日。
朝から村を出ようとした俺を引き止めたのは、アンファングさん……ではなく、奥さんだった。
昨日も彼女が言っていた通り、俺を傷つけた罪を償わせてほしい、とのこと。
俺がケガをしたのは自業自得だが、それはそれとして今の状態で村を出ていかないで済むのは非常に助かる。
ただ……アンファングさんと奥さんが俺に負い目を感じている状態でお世話になるのは、あまりにも不誠実すぎだ。
「……すみません、お二人には今まで隠していたことがあります」
転生の件と同じく、信じてもらえるかはわからない。
信じてくれたとしても追い出されるか、もし魔眼について俺の知らない文化や法律があったら、場合によっては捕まって死刑かもしれない。
それでもすべてを明かすのが二人に対する誠意だ。
そう覚悟して——俺は二人に魅了の魔眼について話した。
二人が親切にしてくれるのは、おそらく魔眼せいであることも含めて。
「魅了の魔眼……か。なるほどな」
「信じてくれるんですか?」
「にわかには信じ難いが、言われてみれば腑に落ちることが結構ある。出会って初日のお前を家に連れ帰って、自分の後継者にしようとしたりとかな。それにオレはお前の目を最初に見たとき、言いようのない衝撃と同時に、その……なんだ、アレだ……」
「アレ?」
「いや、まあ……ジエナ、わかるか?」
アンファングさんが気まずそうな顔で横に立つ奥さんに話を振る。
すると奥さんは無言のまま顔を赤くして、勢いよく何度も頷いた。
「……そういうことだ」
小さく咳をして、アンファングさんは俺に向き直った。
詳しくはわからないが、つまり一目見ただけで魅了の効果だと納得できるような変化があったのだろう。
「ぶっちゃけ今も転生うんぬんの話は信じられんが、世界は広い。本当かどうかは知らんが、帝国の皇帝は魔法で空から星を降らすこともできるって話だ。魅了の魔眼ってのも聞いたことはないが、実際に体験したらそりゃ、そういうのもあるのか……って感じだな」
この世界には魔法があるらしい。
だから魅了の魔眼も前世よりかは受け入れやすいようだ。
とはいえ魔法を使うには特別な才能が必要で、魔法使い自体の数がかなり少ないため、決して一般的ではなく、魔眼も実際に体験しないと信じてもらえないだろうとのこと。
何しろアンファングさんも過去に一人しか魔法使いを見たことがないという話なので、その少なさ度合いが伺える。
「なんつーか、魔法的な力で好感を持たされてるって聞くと複雑な気分だが……しかしまあ、よく話す気になったな。魅了とはいえ、絶対的な効果はないんだろ? 自分が不利になるだけじゃねえか。実際、昨日オレはジエナのためにお前を追い出そうとしたわけだしな」
「これ以上、黙ったままでいるのは不誠実がすぎると思い……今さらですが、話すのが遅れてごめんなさい。本当なら、初日に話すべきでした」
「別に責めてるわけじゃねえって! ったく、お前が頭が下げてると妙に落ち着かねえ……これも魔眼の効果か?」
「それは……本当に申し訳なく……」
「いやだからやめろって! わざとやってんのか!?」
アンファングさんはため息をついて頭をかくと、横に立つ奥さんを見た。
奥さんは彼の目を見て、何も言わず頷く。
「ほら、ジエナも怒ってねえってよ。お前がオレらに迷惑を掛けたって思ってんなら、そりゃジエナを庇ってケガしたので相殺だろ。まあ、お前の方が割り食ってると思うけどな」
アンファングさんはそう言って、俺の胸に拳を当てた。
「オレらはお前を許すから、お前はオレらを許せ。これでチャラだ」
「アンファングさん……奥さん……ありがとうございます」
「お互い様だろ。で、物は相談なんだが……この村には今、狩人が少なくってな。何しろ、オレ一人しかいねえ」
「それって……」
アンファングさんは俺の肩に手を乗せ、ニヤリと笑って言った。
「住む場所と食事は保証するぜ。給料も出す。ま、ウチも余裕ねえから完全歩合制だけどな。やってくれるか?」
「……はい!」
こうして俺は狩人見習いとして、アンファングさんの弟子になった。
〇
アンファングさん夫妻の家に住み込み、狩人見習いとして働かせてもらうようになって一週間後。
俺は前世では考えられないほど早い習熟度で弓を覚え、ウサギのような動物を狩ることに成功した。
その晩はお祝いとちょっとしたご馳走で盛り上がり、贅沢品だというワインも飲ませてもらったが……奥さんのスキンシップがやたらと多いのが少し気になった。
二週間後。
弓の腕はどんどん上達して、小さなイノシシのような魔物を狩れるようになった。
そしてここ数日アンファングさんの方は成果となる獲物がなかったことから、夕食時には「師匠のメンツ丸潰れだ」と言いながらも、とても嬉しそうに笑っていた。
ただ……それとは別に最近、奥さんからの視線が熱い。
あと、まったく用事もないのに何度も話し掛けてくる。
更に言えば、お酒も飲んでいないのにスキンシップが激しい。
アンファングさんもそれに気が付いているようで、「人の嫁を魅了すんな」と笑いながらいじってくるが、正直こっちは笑えなかった。
一抹の不安を感じる。
三週間後。
たまたま遭遇した大きなクマのような魔物を狩ることができた。
アンファングさんは「教えることはもう何もねえ」と大満足で、俺の肩を抱いて大喜びしてくれた。
その横からどさくさに紛れ、奥さんも俺に抱き着いてきて喜んでいた。
しかし、後ろに回した手がさりげなく尻を触ってるし、顔面を俺の胸に埋めてメチャクチャ息を荒くしてスーハ―スーハ―してるし、なんかもう……色々と限界が近そうだった。
四週間後。
自分の給料で新しい弓矢とナイフを買い、日持ちする干し肉を用意し、さあ準備万端というところでアンファングさんから呼び出された。
どうやらアンファングさんは一週間ぐらい隣町に出かける用事があるとのこと。
「言っておくが、オレは構わねえからな」
「……はい?」
「子ども、欲しいしなぁ……あ、いや、無理には言わないけどよ。ケイは奥手っぽいし……」
アンファングさんが、なぜかチラリと横を見た。
つられて視線の先に目をやると、そこにはドアの隙間からこちらをジッと見ている奥さんがいた。
背筋が凍る。ホラーだ。
「あっ……で、でもよ! ジエナは積極的だから、ケイが奥手でも問題ねえな! ああ、問題ねえや!」
「あの……」
「だ、大丈夫大丈夫、寝てりゃ済むから。な?」
「…………」
俺はすべてを察した。
〇
翌日の早朝。
俺はこの日に備えて数日前、用意しておいた手紙を食卓に起き、家を出た。
「よし」
俺は手を頭上に掲げ、強くなりつつある日差しを遮りながら、空を仰いだ。
弓矢を背負い、右腰にはナイフ、左腰には布袋を下げ、その中に日持ちする干し肉を入れてある。
懐には僅かだが稼いだ給料も入っている。装備は万全だ。
振り返り、しばらく住まわせてもらった家を見る。
お世話になったのに、黙って旅立つ不義理を許してください。
俺は独り立ちして、これからは自力で生きていきます。
「アンファングさん、ジエナさん……今までありがとうございました」
感謝の言葉を呟き、前へ向き直る。
もう後ろは振り向かない。
振り向いてそこに奥さんがいたら、メチャクチャ怖いし。
俺は晴れやかな笑顔で歩き出した。
——転生特典で貰った魅了の魔眼が厄介すぎる。
そんなことを考えながら。