町外れの丘に登ると、一本の桜の老木が町を見下ろしている。
長い間、花の町クレメラを守ってきた木である。今年も淡いピンクの花を咲かせているが、数年前に見た時より少し花が少なくなったようにも感じられた。
木が弱っているのだろうか。
この桜は今年、この花祭りを最後に切られてしまうのだそうだ。まだ、綺麗な花を咲かせてくれそうな気もするので残念だ。クリスはこの木を見て桜を好きになったので、きっと悲しんでいることだろう。
「これが桜の木?」
「そうだよ、ユーリ。クリスはこの花が好きでね、ずっと見ていたよ」
「綺麗だね。お兄ちゃんが好きになったのも分かるよ。僕もこの花好きだなあ。優しい感じで」
「丘の桜といえばここだけれど、魔の気配はしないね」
「気配は僕にはあんまりよく分からないけど、魔がいるような雰囲気じゃないよね。こんな綺麗な花のところに魔が出るなんて思えないな」
「そうだね。ここに出るなんて思えない」
その時、春の風が吹き上げた。
ざわざわと枝が揺れて、小さな花びらが舞い上がる。青空に向かって飛んでいく花びらを見上げるが、魔の気配は全くしない。ただただ、桜が気高く美しい。
ここに魔はいないんじゃないだろうか。フローラさんはどこかと間違えたのかもしれないと思った。けれど、魔が出ることは確かなのだ。もう五人も命を落としている。
もう少し離れたところなのだろうか。
春の風は二度三度と桜を揺らす。
何度目かの風が吹いた時、魔の気配がした。空間の歪みの空気も感じられ、ユーリの体がぐらつく。
「何これ。花びらで前が見えない」
「ユーリ、大丈夫かい。ユーリ」
「アル。花びらが舞っていてアルの姿が全然見えないよ」
私の目だと、花びらは舞ってはいない。
ユーリは幻に包まれているようだ。
どこにいる。
魔はどこにいる。
魔の気配を辿って桜の木を上まで見ていく。いない。ふと、目の前を見ると木の幹の向こうで白い布が揺れている。揺れているのはただの布ではなく、スカートだろうか。気配を辿るとそこに辿り着く。
ちらっと顔を覗かせたのは、桜の花のように愛らしい少女だった。茶色の髪を揺らして、悲しげにこちらを見ている。
どうやら、何か事情がありそうだ。
「貴女の力では私を惑わせることは出来ない。この子への幻を消して、話を聞かせてくれないか」
少女は一瞬驚いた表情をしたけれど、私の顔を見て小さく微笑んだ。すぐにユーリの幻も解けたようで、きょろきょろと辺りを見回している。少女はスカートの裾を押さえてすうっと飛び上がると、低い枝に腰をかけた。足をぱたぱたと揺らしながら、私たちを見下ろす。
「貴方はいつかの男の人ね。私を見て喜んでいた金髪の男の人はどうしたの?」
「彼は三年前に亡くなったよ」
「そうだったの、ごめんなさい」
「貴女は誰だい。魔なのかい」
「違うわ。私はこの桜の木の精霊なの」
精霊、本当に存在したのか。以前から噂されていた存在だけれど、その目撃例は非常に少なく、幻の種族とされていた。精霊にこんなところで会えるとは思わなかった。
一生に一度会えるか会えないかの存在に私は感動していたが、その一方でさっきの魔の気配は何だったのかが気になった。魔と精霊は違う存在だ。精霊から魔の気配を感じるなんてあり得ない。
もしや、私は精霊と出会う幻でも見ているというのか。
木がざわめいた。
「貴女は本当に精霊かい。さっきは確かに魔の気配がしたのだけれど」
「魔の気配を感じることが出来るのね。そう、私がここの魔よ。五人もの人の命を奪ってしまった」
「精霊は魔と繋がりがあるのかい?」
「ないわ。本来は。けれど、私の中の心の闇が魔を呼んだのね。一人の魔が私の元を訪れたわ」
「その魔は何て言ったんだい?」
「人間の命のエネルギーをくれると約束するなら、力を貸そうって言ってきたわ」
力を貸すとはどういうことだ。魔を知れば知るほど疑問が増える。やはり、書物の中の魔と実際の魔では性質や能力が違うようだ。
私が読んだ本の中に、魔の力を全く別の種族が行使出来るようにする能力なんか書いていなかった。
それも、その魔は訪れかつここを去っている。それまで一定の場所に現れ、特定の場所に留まるとされていたが、それも違うようだ。
一体何が正解なのか分からない。
少女は俯いて幹に寄りかかると、透けるような白い手で幹を撫でて、涙をこぼした。
「断るべきだった。断るべきだったのに、私はその話に乗ってしまったの。今年、花祭りのフィナーレで切られてしまうことを知って、動揺してしまった」
「もしかして、切られてしまうのが怖かったのかい?」
「ううん。切られてしまうのが怖いわけじゃないの。人間の事情もあるし、私はもう年老いている。切られるならば受け入れるしかないもの。けど、切られてしまえば皆ここにあった木のことなんか忘れてしまうわ。それが怖かったの」
少女は顔を覆って泣いた。
そんなわがままのために人の命を奪ってしまったのだと。忘れられたくないだけなのに、恐ろしい思い出を作ってしまったかもしれないと。初めて人の命を奪った時、切られるよりも忘れられるよりも恐ろしかったという。
けれど、話を聞いてくれる人はおらず、魔は時々訪れては人を殺すようしむけたそうだ。人を殺さねば木を枯らす、魔はそういった。私はその魔の卑怯なやり口に腹が立って仕方がなかった。隣のユーリも涙をこらえている。
私は少女にかける言葉を探す。この少女は間違いを犯したけれど、それを悔いている。救われてもいいのではないだろうか。
「この町の人は皆この木を誇りに思ってる。貴女の咲き誇る姿が色褪せることはないよ」
ありがとう。
少女は小さく呟いた。
桜の花びらがはらはらと舞う。
「貴女に力を与えた魔を覚えていますか?」
「ええ、覚えているわ。忘れられるわけがない。あの銀髪の魔を」
「銀髪の魔?」
「そうよ。長い銀髪の男だったわ。冷たい赤い瞳をした」
心臓を握り潰された気分だった。長い銀髪で赤い瞳をした男の姿をした魔には覚えがある。
もちろん、魔はたくさんいるので私の記憶にある魔と、少女の言う魔は別かもしれない。けれど、手が震えている。もし、またあの魔に会ったらどうすればいいというのだろう。
私は動揺を隠すのに必死だった。冷や汗が流れる。恐ろしい。この情報は聞かない方が良かったかもしれない。
少女は再び地上に降りてくると、ぱっと両手を広げた。
「二人ともありがとう、怖がらずにここに来てくれて。せめてもの罪滅ぼしに、明日は最高の花を咲かせるわ。花祭りを見ていってね」
私たちは少女に別れを告げ、丘を下った。
ユーリは少女の姿と桜の花を胸に刻んだようだ。私の胸には不安と恐怖が少し残っていた。銀髪の魔は今どこにいるのだろう。出会いたくない。魔が怖いのか、自分が怖いのか分からないけれど。
翌日、花祭りが始まった。
私たちは参加してから帰ることにした。
溢れんばかりの花に、たくさんの人々の笑い声、それに陽気な音楽。色々なイベントに参加して楽しむ。ユーリの明るい笑顔を見ていると、あの日のクリスを思い出す。
しかし、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。
花祭りは最終日のフィナーレを迎えた。
コンテストの優勝者が発表され、割れんばかりの拍手で祝福。祭りが終わるのは何だか寂しいものだ。熱狂的な盛り上がりの後ならば尚更。
そして、最後に丘の老木が切られる。
幹に斧が打ち込まれると、群衆から悲鳴が上がった。少女はこの時をどんな気持ちで迎えていることだろう。
「あら、見に来ていたのね」
「フローラさん」
「あの木はこの町を見守ってくれる存在だったから、とても淋しいわ」
「そんな木が何故切られることに?」
「あそこにね、孤児院が出来ることになったのよ。だから反対しきれなかったのよねえ、皆。本当なら、移し替えでもして寿命まで頑張って欲しかったけど、移し替えには耐えられないみたいで」
切られた木は孤児院のイスに加工されるそうだ。
フローラさんの涙がこぼれると同時に、木は倒れた。
私たちはフローラさんとこの町に別れを告げる。こうして楽しい時を過ごすのも大事だが、しなければならないこともある。
私はもう一度、丘の上を眺めた。
丘の桜の花は人々に記憶に残るだろう。私の心にクリスの笑顔が焼き付いているように。誰も忘れたりはしない。きっと時々思い出すんだ。
──あなたを淋しがらせたくないから。