夜中に目を覚ましてしまった私は、隣のエリサさんの部屋のドアをノックした。手に魔法の明かりをともして、木製のドアの前に立つ。
返事はなかった。
もう、眠ってしまっただろうか。眠っているなら、それはそれでいいのだけれど。用はあるけれど、自分で解決出来ないほどの問題でもない。一人で考えて解決すればいいだけのことだ。
部屋に戻るのも躊躇われたので、階下の酒場に向かうことにした。お酒は飲めないけれど、ただベッドで睡魔を待ち続けるよりましだろう。
「アルベルト様、どうされました?」
背後でエリサさんの声がする。
「いえ、眠れないので下の酒場にでも行こうかと思ったのですが、起こしてしまいましたか?」
「私も眠れなくて困っていたところです。少々待っていていただけますか。支度して参ります」
そう言ってエリサさんは部屋に戻った。支度をするって、別におかしな身なりをしていたわけではないけれど。そういうことではないのか。本当に女性のことはよく分からない。
しばらくして出てきたエリサさんの髪は綺麗に結い上げられていた。これだったのか。別に髪をあげなくてもいつも通りでよかった気もする。エリサさんは少し頬を染めて、行きましょうと言った。
階下の酒場は賑わっている。
いくつかのテーブルを地元の人と思われる人々が囲んで、お酒を楽しんでいる。酒場の隅にはピアノが置いてあった。私たちはそんな酒場の片隅に向かい合って座った。
私は何にするか悩んだあげく、少しだけアルコールの入ったものを頼んだ。エリサさんは同じものをお願いしますと言って店員に向かって微笑む。
「エリサさん、好きなものを頼んでもいいんですよ」
「私はお酒が苦手なのです。それに、私はアルベルト様と同じものがいいのです」
「ここにはピアノがあるようですね」
「アルベルト様はピアノを弾かれるのですか」
「ええ、少しだけ。旅の資金が足りない時は、よく酒場でピアノを弾きました。最近は全然弾いていないので、もう指が動かないかもしれません」
「それは残念です」
エリサさんはピアノを眺めながら、お酒を口にした。すぐにぽうっと頬が赤くなる。本当にお酒が飲めないようだ。エリサさんもお酒を飲めないのなら、ノンアルコールの飲み物にすればよかった。そうしたら、エリサさんも無理にお酒を飲まずに済んだはずだ。
どうも、私は気遣いが足りない。エリサさんはもう一口飲んで、ちょっと微笑んだ。これは、無理させているな。早めに切り上げて部屋に戻ろうか。
「私は大丈夫ですよ。すぐに赤くなるものだから、心配になるでしょう。そんな顔をしています」
「そんな顔をしていますか?」
「ええ。それと、私を誘ったのは眠れないだけではないのでしょう。何かお話があるのではないでしょうか」
話したいことはある。けれど、これはエリサさんにする話ではないのではないだろうか。エリサさんも私の悩みなど聞きたくはないだろう。私はお酒を口にして悩んだ。声をかけたものの、悩みを打ち明ける勇気がない。
「私でよければお話し下さい。何も役には立てないかもしれませんが、聞くだけは出来ますから。話してすっきりすることもあると思います」
「実は、ユーリをクリスの眠るところへ連れて行くかどうか悩んでいるのです。次の町から空間転移をすればすぐに着くのですが、その話をする勇気がありません。ユーリのためにはどちらがいいのか」
「ユリウス様のためでしたら、連れて行く方がいいと思いますけど、アルベルト様はその場所に行くのが怖いのでしょうか」
「怖い、ですか」
「そうお見受けいたしました」
そうか。ユーリのためにはなんて言っているが、自分の問題だったか。エリサさんはお酒を飲み干し、次はノンアルコールにしますと言って、飲み物を注文した。私も同じものを注文し、おつまみをいくつか頼む。もう、ゆっくりと話す気が満々だ。
エリサさんは眠くないのか聞いてみたら、まだ睡魔はこないようですと笑う。
「私が気持ちに区切りをつければいいのですね。でも、何と言ってユーリを連れて行けばいいのか」
「ユリウス様は賢い方ですから、普通に聞いてみるといいと思います。クリス様の眠る場所へ行きたいのか、行きたくないのか」
「そうですね。聞いてみればいいんですよね。でも、今日の調子だと話を聞いてくれるかどうか」
「聞いてくれますよ。今日はたまたま虫の居所が悪かったのでしょう。それに、頼って欲しかったんだと思いますよ。アルベルト様が一人で悩んでいるのを見ていられなかったのでしょう」
ユーリは頼って欲しいのだろうか。おつまみのナッツを口に放り込んで考える。しかし、大人が子どもを頼るのはどうだろう。そういうと、エリサさんはユリウス様はそういう年頃ですと言った。頼られたい時期なのだと。大人になりかけているのだと。それは子どもだからと決めつけた発言は慎んだ方がいいと言うことか。気をつけよう。
誰かがピアノを弾いている。エリサさんはその音色に耳を傾けながら、右手でナッツを弄ぶ。
「私の家族はシュルヴェステルに殺されたのです」
「シュルヴェステルに?」
「ええ、シュルヴェステルのそばを通りかかっただけで、目障りだと言って殺したのです。こうしてアルベルト様についてきたのも、もしかしたら杖を狙ってシュルヴェステルが現れるのではないかと思ったからです」
「エリサさん、貴女は何をするつもりなのです」
「私はシュルヴェステルと戦うつもりです。杖がないので倒すことは出来ませんが、ダメージなら与えられるでしょう。そのためにカレルヴォ様から魔法を習いました」
「それを、ヘルレヴィさんは?」
「知っています」
恐らく、ヘルレヴィさんは止めただろう。けれど、エリサさんの意志が固かった。だから、止めきれなかった。もし、シュルヴェステルに会ったら、エリサさんは本気で戦いを挑むだろう。私はそれを止められるのか。いや、止めなければと考える。
エリサさんは復讐を望んでいるのだ。私はどうすればいいだろう。止めるべきか、一緒に戦うべきか。一緒にと言っても、私はきっと怖くて戦うことなんか出来ないのだろう。情けない。
「私は、きっと怖くて戦えない。情けない男です」
「情けないなどと言わないで下さい。自分の力を知っているというのは恥ずべきことではありません。戦わない勇気というのもあります。私は自分の力量も知らず、戦いを挑む無知な女です」
そういうと、エリサさんは再びナッツを手にとって弄ぶ。それを口に運んだのはしばらくしてからのことだった。私は無知な女性とは思わない。むしろ、勇敢な女性だ。逃げることばかり考えている私よりもずっと。
クリスは敵をとって欲しいと思っているのだろうか。それとも、お前には無理だよと言って笑うだろうか。
ピアノの演奏のやんだ酒場は、ざわざわとしていて落ち着かない。エリサさんはもう一杯飲んでみようかしらと笑った。無理はしない方がいいというと、無理は禁物ですよねとグラスの液体を飲み干した。
「エリサさん、魔は杖を狙うんですよね」
「ええ。あれは支配者たちにとっては邪魔でしかありませんから」
「じゃあ、国王陛下のお言葉には従えませんね」
「国王陛下のお言葉ですか?」
「そばにいて欲しいとのことでしたが、私がいてはラヴィネン王国自体が狙われかねません」
「国王陛下のおそばにいたかったのですか?」
「おそばにいたかったというか。それなりの家に住んで、それなりの仕事をしてという、普通の生活をしたかっただけですね。ユーリにも出来るならそういう生活をさせてあげたい」
「そうなる日が来ることを祈ります」
それからしばらくして、私たちはそれぞれの部屋に戻った。
今までちゃんと話していなかったから、エリサさんがあんなに強い意思を持っていると思わなかった。きっと、シュルヴェステルを前にしてもエリサさんは変わらないのだろう。私はどうか。シュルヴェステルを前にしたら、どうなってしまうのだろうか。
出来るなら、出会いたくない相手だ。