魔は死んだはずの人間の姿を見せるらしい。
卑怯と言うべきか、何と言うべきか。私は取り敢えず、杖を天に返した。見上げた空は抜けるような青色で、こんな日に魔が出るなんて思いたくない。けれど魔は確実にいるのだ。
魔を探すことで集中力がなくなった私は、食堂で休憩したものの休まりきらず、城へ戻るという選択をしなければならなかった。魔の行方は気になるのだが、これ以上神経をすり減らして追っても戦いに支障を来す可能性がある。
魔に喰われた人を見ているから、本当は見つかるまで追いたい。けれど、クラウスさんが許可をしてくれない。
「お兄ちゃん、さっきのは杖?」
「魔を倒してくれるんだね」
子どもたちの無邪気な視線が突き刺さる。私は苦手な愛想笑いをして、子どもたちの頭を撫でる。この子たちのためにも魔を追いたいのだが。見つけたのはいいが、戦えないとなっては元も子もないか。私はそう自分自身を誤魔化した。
ふと、魔の気配が強くなっているように感じた。空間の歪みの空気も濃くなっている。急に魔の気配が強くなるということは、魔が急接近しているということだ。気配にはあまり敏感ではないユーリも感じるほどに強い。クラウスさんは慌てて人々にここから離れるように指示した。
「お兄ちゃんどうしたの。どうして逃げなくちゃいけないの」
「魔が来たら大変なことになるからね。お城の方に逃げてくれるかな」
「はーい。僕ちゃんと逃げるよ。お兄ちゃん、魔を倒してね」
手を振って走っていく子どもたち。素直に走っていく後ろ姿を見ながら、私は気合いを入れた。この気配はかなり強力な魔だ。子どもたちは逃げたものの、大人たちはすぐには逃げなくて、濃くなる空間の歪みの空気にのまれていく。
虚ろになる人々の目。
この人たちは幻を見ている。幻を見続ければやがて、心が喰われる。急がなければならない。動き回る気配を捉えようとするが、集中力はまだ切れたままだ。どうにかして魔を追わなければ。
ユーリはこの空気に少し慣れているとして、エリサさんには効果がない。私はまだ大丈夫だ。クラウスさんは大丈夫なのか。
「クラウスさんは大丈夫ですか。大分、空間の歪みの空気が濃いです」
「私は大丈夫だ。気配を多少感じられる体質で、この空気には少し耐性があるようなのだ」
「そうだったんですか。でも、無理はしないで下さい」
「分かった。ん、、また魔が移動しているな」
「今度は遠ざかっていく。どこへ行くつもりなのか、早く何とかしないと」
「町外れに向かっているようだ。ついてきてくれ」
クラウスさんの後について町外れを目指す。魔の気配は真っ直ぐではなく、町の中をあちらへ行ったりこちらへ来たりしながら、町外れの方へと向かっていく。メインストリートの赤い建物を右に曲がる。この先に何があるのか聞いてみると、墓地があるのだそうだ。
墓地と死んだはずの者の姿で現れる魔。ふざけているとしか思えない。
さっきまで快晴だったはずなのに、急に目の前が霞んだ。霧が辺りを包んでいる。この霧は空間の歪みの空気によるものなのだろう。足を止めて慎重に進んでいく。これだけの霧ということは、もしかしたら私は惑わされてしまったのかもしれない。
どうしたらいいのだろう。私は今まで色々な魔と対峙してきたが、惑わされたことはなかった。だから、こうなってしまっては対処の仕方が分からない。落ち着かなければ。混乱してしまったら相手の思うつぼだ。私は自分を保つのに必死だった。
自分のことに必死で、周りを見ていなかった。ユーリもエリサさんもクラウスさんもいない。しまった、これは最悪の状態ではないだろうか。声をかけようとした時、別の声が聞こえた。
「アル、アルベルト」
クリスの声がした。
思わず振り向く私。
後ろで束ねた木漏れ日よりも眩しい金色の髪に、澄んだ空色の瞳。色白ですらりと背が高い。
間違いなく、クリスだった。
頭が麻痺したみたいにぼうっとしてくる。
「アル、会えてよかったよ。元気にしていたかい」
「元気だよ、クリス」
青空の下、向かい合う私とクリス。
何だろう、この懐かしさは。懐かしいというのはおかしなことだ。クリスと私はずっと一緒に旅をしているのだから。笑顔で手招きをするクリスに駆け寄ろうとするが、何故だか私の足は動かない。今度は手を伸ばそうとするが、腕が重くてあがらない。
クリスはゆっくりと近づいてくる。私は身動きできぬまま、クリスが来るのを待った。不思議そうな顔で私の顔を覗き込むクリス。
「アルベルト、そういえば杖はどうしたんだ?」
「杖ならさっき天に返したよ。今は持ってないよ。それはクリスも同じでしょう」
「うん、そうだな。そうだったよ。魔がいないのに杖を持って歩く必要ないもんな」
「杖の話なんて珍しいね。魔でも見かけたのかい」
『アルベルト様!』
女性の声がした。どこかで聞いたような声だと思って辺りを見回すが、周囲には誰もいない。ここにいるのはクリスと私だけだ。なのに、何故女性の声がしたのだろう。疑問である。
「アルベルト、どうしたんだ?」
「何だか、女性の声が聞こえたような気がしてね」
「女性か。女性なんていないだろ。ここに二人きりなんだから」
『アルベルト様!』
二人きりのはずなのに聞こえる声。私は少しだけそれが気になった。私たちの近くに誰かがいるのか、それとも魔でも現れたか。魔が現れたなら倒さなければならない。一人緊張をしていると、クリスはどうしたんだよと笑う。クリスが何も感じていないのなら、ここには魔はいないのだろう。
「なあ、アルベルト。シュルヴェステル様を覚えているかい?」
クリスがにっこりと笑って尋ねる。シュルヴェステル、シュルヴェステル、聞いたことがある。確かに聞き覚えのある名前だ。けれど、あまりいい印象がない名前のような気がする。私は少し考え込む。シュルヴェステルという名前をどこで聞いただろう。分からない。
どうしてしまったんだろう。聞かれていることに答えられない。
「シュルヴェステル様が月光の杖が欲しいと言うんだ。一緒に行かないか?」
「どこへ行くんだい?」
「まだ秘密。いいところに連れて行くよ。そこでシュルヴェステル様が待ってる」
「月光の杖って、クリスの陽光の杖も一緒かい?」
「そうだよ」
『アルベルト様、いけません。その魔に近づいてはいけません!』
え、誰だろう。さっきからちらちらと女性の声が聞こえている。それは、クリスには聞こえていないようで、私は戸惑う。幻聴なんだろうか。私が辺りを見回すと、クリスは少し嫌そうな顔をした。けれど、何だか気になる声で無視は出来ない。私は声の主を探した。
声は私の目の前、少し低い位置からする。
『アルベルト様、私を見て下さい。アルベルト様!』
「なあ、アル。月光の杖、見せてくれないか」
「何でまた杖を?」
「ほら、人の杖って見る機会ないじゃん。俺の陽光の杖とは性質が違うだろ、作りも違うのかと思って。ちょっとした好奇心だよ」
「いいけど、面白くない気がする。月光の杖も陽光の杖もあんまり変わらなかった気がするよ。色が違うくらいかな」
「ほら、杖のことが分かればシュルヴェステル様が喜ぶよ」
「そうかあ。それならいいかな。きっと、シュルヴェステル様が喜んでくれるね」
シュルヴェステルって誰だっけ。口に出してみたものの、凄く嫌な響きなのだけれど。それは、まあいいだろう。クリスが杖を見せてくれと言うのだからと左手を天に掲げる。
『ダメです、アルベルト様!』
何がダメなんだろう。クリスに杖を見せるだけなのに。私は天に祈りを捧げる。クリスがにこにこと笑い、私の左手を見ている。
天から月光の杖を受け取った瞬間、目の前に鮮血が飛び散った。