ユーリの体調はよくなっていて、今はぐっすりと眠っている。
一方、昼間ユーリに体調に気をつけるよう言っていた私は、少し体調が悪くて眠れなかった。ユーリが言っていたのと同じである。痛いところも苦しいところもないのに辛い。寝込むほどではないが、どことなく具合が悪い。ただ、食欲はあるようで、お腹が空いている。昼食も夕食もユーリに合わせて軽くすませたので、朝まで持ちそうにない。
部屋を出てみるが近くには誰もおらず、私は気晴らしもかねて厨房を探すことにした。場所は見当もつかないので、取り敢えず階下に下りる。たまに警備の兵士と出会う程度で人は見あたらない。真夜中なのだから当然である。
厨房を見つける前に中庭を見つけた。
そこにはクラウスさんがいて、大きく手を広げている。
「クラウスさん、こんばんは」
「アルベルトさん、どうしたんだ」
「いえ、目が覚めたらお腹が空いてしまって。厨房を探しに行こうかと思ったんですが、迷ったようです」
「そうか。それなら、私の部屋で一緒に食べないか。ユリウス君は眠ってるのだろう」
「ええ。ユーリはぐっすり寝ています」
「それはよかった。行こうか」
私はクラウスさんの後について歩き出す。クラウスさんはまだ仕事中なのだという。集中力が切れかけていたので、外の空気を吸って気分転換していたそうだ。クラウスさんの部屋に向かう途中、厨房らしきところに寄ると、何やら話をして出てきた。夜食はサンドイッチしかないらしい。私は昼間も食べている。クラウスさんは何か作らせようかと言ったが、遠慮しておいた。そんな手間をかけさせるわけにはいかないし、サンドイッチで十分だ。
階段を上っていく。
セヴェリさんの執務室の隣であるようだ。
「ここが私の執務室だ。汚いが気にしないでくれ」
そう言ったクラウスさんの部屋はきっちりと片づけられていた。ヘルレヴィさんの部屋を思い出してしまう。あの部屋は書類と本に埋もれていて、座るところがないほどだった。天と地ほどの差である。ひょっとして、埃すら落ちていないのではないか、この部屋は。
部屋にはテーブルとイスがあって、クラウスさんはそこに座り、私はその向かいに座る。ちょうどそこにサンドイッチが運ばれてきて、私たちは夜食にすることにした。
「アルベルトさん、あの魔は何だったんだろう。魔は幻を見せると言うが、あんなにはっきりとした幻を見せるものなのか。それに、あんなに動き回るなんて、未だに信じられない」
「そうですね、書物にはない魔でしたよね。私も書物にないような魔に出会うのは、まだ何度目かです」
「それに、エリサさんのこともある。彼女も魔なのだろう」
「そうですね。異空間からやってきたというならエリサさんも魔になります。ですが、エリサさんは人を襲わないです。そういう魔もいるようです」
「何故、そういう魔についての記述が本にはないのか。それが疑問でならない。ヒュヴァリネン領のような田舎では本でしか知識を得られないのだ。だから、きちんと記述してもらわないと困るのだが」
クラウスさんはサンドイッチを食べながらそう言う。私はなんと答えたものだろう。エリサさんのことは国王陛下もヘルレヴィさんも知っていたし、魔が国の重要な役職についているとも言っていた。だから、王都での研究が進んでいないということはないのだろう。
それなりに研究が進んでいて、本には書いていない。本には書けない内容が含まれているのかもしれない。エリサさんのような魔の存在は一般の人にはまず理解されないだろうし。混乱を来すだけならば、黙っていた方がいい場合もある。
「魔の情報を得るのなら、王都のヘルレヴィさんを訪ねるといいかもしれません」
「ヘルレヴィ様か。正面から聞いても、のらりくらりかわされそうだな」
「のらりくらりですか」
「ああ、王都に行った時に聞いたことはあるんだ、魔の研究はどうなっているのかと。だが、捕まえて解剖しても分からないかもと言って笑ったんだ、あのじじい」
クラウスさんはじじいと言ってから撤回した。どうやら、クラウスさんとヘルレヴィさんはあまり相性がよくないようだ。クラウスさんが一方的に苦手に思っているだけかもしれないけれど。
だが、以前に王都の王立図書館に行って私も、もう少し情報が欲しいと思ったものだ。エリサさんのような魔がいることも全く知らなかったのだし。誰もが正しい知識を得られるようにした方がいいと思う。
「私の名前か、あとエリサさんの名前を出せば、それなりの情報を教えてくれると思いますが」
「そうだろうか。今度やってみるが、あの人が素直に情報を渡すとは思えないな」
その時。
魔の気配がした。
物凄く濃く強い気配が一瞬だけ。
「何だ、今の凄く強い魔の気配は。なあ、アルベルトさん」
私は衝撃を受けて震えていた。
確かに、今のは魔の気配だ。非常に濃くて強い、氷のように冷たい気配である。私はその気配には覚えがあった。あれはシュルヴェステルの気配で間違いない。一瞬しか感じられなかったけれど、確実に奴はこの近くにいる。背筋がぞくぞくして震えが止まらない。
クラウスさんは立ち上がると、私の肩に手をおいて、それでも反応出来ないでいると揺すった。何度か揺すられて、私はようやく我に返った。
「大丈夫か、アルベルトさん。どうしたんだ。今の気配を知っているのか」
「今の気配、覚えがあるんです」
「やはり覚えがあるのか」
「ええ、あれはシュルヴェステルという名の魔の気配です」
「シュルヴェステルといえば、この間の魔が言っていた。エリサさんもその名を口にしていたな。倒してくれと」
「ええ、ユーリの兄の敵でもあります。私はあの魔を倒さなければならないのです。ユーリのために。もちろん、エリサさんのためにも」
私は懐から金色に輝く髪飾りを取り出す。エリサさんが残していったものだ。クラウスさんも髪飾りを見て目を伏せた。
私が戦わなければならないのは、あの魔なのだ。あの。恐ろしく冷たい気配の魔。とても勝てる気がしない。けれど、ここで気配がしたということは目を付けられてしまったのだろう。
「今の魔の気配はほんの一瞬しか感じられなかったが、相当強い魔だということは分かった。アルベルトさんはあの魔と戦うつもりなのか。ユリウス君と二人で」
「出来れば、私は一人で戦いたいんです。ユーリをあの魔と戦わせるわけにはいかないです。死ぬのは、私一人で十分です」
「それで、ユリウス君は納得するだろうか。ユリウス君にとっても敵なわけだろう。それに、もしアルベルトさんに何かあったら、ユリウス君がそれを背負って生きなければならなくなる」
そうか、そうなのだ。もし、私がシュルヴェステルと戦って玉砕した場合、ユーリが私と同じような思いをすることになってしまうのだ。かといって、ユーリが一緒に戦うことになってしまったら。そんなことは想像もしたくない。
「ユリウス君がもし一人になったら、きっとアルベルトさんのように戦おうとするだろう。だが、ユリウス君は杖を持っているわけではない。だから、出会えば確実に。そういうことも考えてあげた方がいいのではないかな」
ユーリは杖なしで戦おうとする、か。考えてもみなかった。ならば、私はどうすればいいだろう。クラウスさんは逃げればいいと言った。親兄弟を殺されたと言っても、敵と戦う人は殆どいない。それが魔ならば尚更のことだ。けれど、私は戦う力を持っている。だから、最初に戦うという選択をしてしまうのではないかと。
逃げるなんて考えもしなかった。残されるであろうユーリのことも。私は何も考えていなかったのだ。