空は快晴だが、私は警戒していた。
昨日の夜のシュルヴェステルの気配が気になっていたのだ。ヒュヴァリネン城を出て、ユーリと二人になったところを狙ってくるのではないかと思ったのだ。けれど、ヒュヴァリネン城が遠く霞んで見えるようになっても、魔が襲ってくることはなかった。よかったと言うべきか、まだ来ていないと警戒するべきなのか。
そんな私をユーリは心配しているようだった。考えてみれば、昨日はユーリに合わせての食事だったし、今朝は食べなかった。シュルヴェステルのことがあって夜は寝ていない。ユーリからしてみれば、私の様子がおかしく映るのだろう。私の顔をちらちら見ている。
心配してくれているのは分かるが、この沈黙はどうにかならないものだろうか。出来れば、いつもの調子で話して欲しい。これは、シュルヴェステルのことを話さないと納得してもらえないのだろうか。
「ユーリ、体調は大丈夫かい」
「大丈夫だよ、僕は。アルこそ大丈夫なの。昨日寝られなかったっていうし、朝だって食べてないでしょ」
「そうだけど。具合は悪くないよ」
「アルは具合が悪くても誤魔化して終わりだから心配なんだよ。それに、何かあっても僕には相談してくれないでしょ」
「そんなことないよ。具合が悪い時はちゃんと言うし、相談もするよ」
相談するとは言ったものの、シュルヴェステルのことは言えそうにない。こんなだからユーリが頼ってくれないと怒るのだ。私が器用ならばマイルドに伝えられるのだろうが、私はどうも不器用でストレートに言ってしまう癖がある。シュルヴェステルのことで傷ついては欲しくなかった。
ユーリはなんだかんだ、私のそういうところも分かっているので、そのうち聞くよとだけ言った。それから、荷物の中からパンとチーズの入った紙袋を寄越した。
「お昼にパンとチーズもらってきたから。朝ご飯はちゃんと食べなきゃダメだよ。今日はヴェステリネンの村に向かうんでしょ。ちゃんと体力を付けないと」
「そうだね。心配かけてごめん。昼はちゃんと食べるからね」
「それは約束だよ。それにしても、この坂道ってどのくらい続くのかな。緩やかだけど、地味にキツい」
「海沿いの道を行けばよかったかな。海沿いの道は平坦だけど、山を迂回するから時間がかかるんだよ。この山道だとそんなには時間はかからないんだ」
「分かった、頑張るよ」
山も頂上にさしかかった頃、少し魔の気配がしてきた。急に濃くなったわけではないから、近づいてきたというよりこちらから近づいている感じだ。一定の場所にいる待ち伏せ型の魔だろうか。ユーリは少し首を傾げている。魔の気配をうっすらとでも感じ取っているのだろうか。だとしたらずいぶんな進歩だ。前はこんな弱い気配は感じ取れなかったから。
「アル、魔の気配がする気がするんだけど、どうするの?」
「この感じだと街道からはあまり外れていないみたいだね。というか、街道のど真ん中かもしれない。これは退治しておいた方がよさそうかな」
「そうだね。どのくらい先かなあ」
「そんなに遠くないとは思うけれど。それにしても、ユーリはずいぶん魔の気配に敏感になったんだね。前は全然だったのに」
「いつも魔と戦っているわけだからね。少しは進歩するよ、僕だって。進歩するんだから、だから」
ユーリは何か言いたげにしている。私は何を言いたいのかよく分からずに、その顔を見つめる。ユーリは目を合わせないようにして俯いた。しばらく顔を見つめていたが、ユーリは私とは目を合わさぬままに歩く。
私はようやく気がついた。
魔の気配に敏感になったユーリは、昨日のシュルヴェステルの気配に気づいたのではないか。実際に会っていないから、シュルヴェステルのものちは分からなくても、とても強い魔の気配は感じ取れたのではないか。
「ユーリ、まさか。昨日の夜の」
「アル、何であんな魔の気配のこと隠したの。一瞬だったけど、凄く怖かったんだよ。もしかして、アルはあの気配の魔と一人で戦うつもりだったとかいうんじゃないよね。だったら、怒るよ」
「いや、その。ユーリが気づいていないなら、無理に話す必要はないかと思って。一人で戦う気だったのは否定しないよ。あんな魔と戦うのにユーリと一緒でっていうわけにはいかないよ。ユーリのことはクリスから頼まれているんだから」
「僕はアルまで失いたくないよ。お兄ちゃんはもう帰ってこない、優しいエリサさんもいなくなった。アルまで僕のそばからいなくなるの?」
何も言えなかった。
クラウスさんが逃げろといった意味がよく分かる。このままだとユーリは私とシュルヴェステルの戦いに巻き込まれる。もしユーリが一人残ったら、私と同じ気持ちで生きていかなければならないのだ。そんなことはさせたくない。
ヴェステリネンの村に行って、クリスの墓参りをすませたら、急いでこのラヴィネン王国を離れよう。具合が悪くなってもいいから、空間転移をしまくってでも。具合が悪くなるくらい何だ。逃げなければ。エリサさんには悪いけれど、私は逃げる選択をすることにした。
私はエリサさんの髪飾りを取り出し、額に当てて心の中で何度も謝った。
「来たよ来たよ。人間が来たよ。シュルヴェステル様の言う通りだ」
魔の気配が濃くなり、空間の歪みの空気も感じられた。銀髪の少年が空間の歪みから顔を覗かせている。だが、私たちを倒すために送り込まれたとは思えないほどに弱い気だ。魔としては非常に弱いと思われる。けれど、この魔はシュルヴェステルの手下のようだから油断は出来ない。
「月光の杖の持ち主だね。渡してくれれば僕は何もしないよ。シュルヴェステル様のために月光の杖を渡してよ。じゃないと、殺すよ。殺しちゃうよ」
何だかどこかで聞いたような口調だが、どこで聞いたのかは忘れた。やたら繰り返して喋る奴がいたように思うのだけれど。そんなことは今考えても仕方がないか。
「ちょうだい、早くちょうだい。月光の杖が欲しいよ。僕はシュルヴェステル様に褒めてもらうんだ。いいでしょ、いいでしょ」
「そのシュルヴェステルはどこにいるんだい」
「シュルヴェステル様は今は、って教えないよ。教えないからね。そんなことしたらシュルヴェステル様に叱られちゃうからね」
「アル、ひと思いにやっちゃったら?」
私は左手を天に掲げて祈りを捧げる。
その間、魔と私の間にユーリが立つ。
おかしいな。何故攻撃してこないのだろう。攻撃してこないのではなく、それだけの能力がないのか。だとしたら、この魔の役割は何なのだろう。ただ、私たちが通過するかどうかの監視役だとでもいうのか。確かに、ヒュヴァリネン城から北へ向かうには海沿いか山道かしかない。二択なのだ。しかし、シュルヴェステルはどうやって私たちが北へ向かうと分かったのか。
「君の仕事は何なんだい。ここで私たちを待っていたのかい」
「僕の仕事、僕の仕事はね。秘密。言ったら叱られるよ。そうだ、お仕事は杖を奪うことだよ。月光の杖、月光の杖」
これは多分嘘なんだろう。杖を奪うのが仕事なのではなくて、何か別の役割を持っている。けれど、これ以上聞いても答えてくれそうにないので、私は月光の杖に祈りの力を込めていく。
魔は使い捨てられるのだろう。それを分かっているのかいないのか、空間の歪みの空気を濃くしていく。惑わせるつもりなのだろうが、この程度では私にもユーリにも効かない。
私は杖で大地を突き、祈りの力を解放する。
魔はあっさりと塵になった。空間の歪みも消え去る。
これで終わりだ。
光が引いていくと、魔のいたところのちょうど真下辺りに人が倒れていた。私が杖を天に返している間に、ユーリが駆け寄って仰向けに寝かせる。私が近づこうとすると、ユーリは何故だか涙目で首を振った。こちらへ来るなとジェスチャーしてくる。
「どうしたんだい、ユーリ」
「来ないで、来ちゃダメだよ、アル」
「来ないでって言われても、怪我してたら治さないといけないからね。本当におかしいよ、ユーリ」
私は歩み寄って倒れている人を覗き込む。
太陽の光に輝く金色の髪の毛、透けるような白い肌。
その顔立ちはユーリにそっくりだった。