朝起きると、ユーリが心配そうな顔をしていたので笑っておく。
昨日は取り乱してしまった。あの時の夢を見るのは、昨日が初めてではない。今まで、何度となく見てきたのだ。何度も見ては取り乱して落ち込んだ。久し振りに見て自分を失いかけたが、もう大丈夫だ。
身支度を整えていると、ヴァルトがおはようと言って入ってきた。ヴァルトは髪を束ねようとする私を見て綺麗な髪だなと言い、ちょっと触らせろよといってブラシでとかしてから編んでいく。髪の毛を三つ編みにするのは何年ぶりだろうか。前はクリスが編んでくれていたけれど。
身仕度が済むと、私たちは階下の食堂に向かう。
朝ご飯のピークの時間は済んだのか、食堂には殆ど人がいなかった。私たちはやっぱり壁際の端の席に座り注文をした。私はご飯のことを考えるのが面倒なので、朝食セットを頼んだ。ユーリは焼き魚定食、ヴァルトは朝からがっつり肉料理を食べるようだ。
「アルベルト、今日はどうするんだ?」
「私たちはすぐそこの山に登りますよ。山といっても丘に毛が生えた程度の高さですが、まだ八重桜が咲いているかもしれないので」
「八重桜。八重桜は見てないな。村で終わりかけの桜は見たけど、終わりがけであんな綺麗なんだったら、満開の八重桜は綺麗なんだろうな」
「綺麗ですよ。ユーリにもヴァルトにも見てもらいたい。よかったら一緒に行くかい。私たちは山頂に用があるけれど、その手前から桜は咲いているから」
「邪魔になるだろ。そっちのユリウス君が凄く冷たい目で俺を見てるんだけど」
「ユーリ、嫌かい?」
「別に。ついてきたいんならついてくればいいんじゃない?」
「悪い。頂上までは行かないからさ」
ヴァルトは手を合わせてユーリに頭を下げるが、好きにすればいいよと言ったきり黙って食事を続けている。受け入れられなかったヴァルトはがっくりと肩を落とす。私は一緒に行こうと言うべきではなかったのか。ユーリにしてみれば初めての墓参りなわけだし、思うところもあるのだろう。もう少し配慮してあげるべきだった。
私たちは食事を終えると、ヴェステリネンの外れにある低い山に登り始める。本当に丘より少し高いくらいなので、ハイキング気分で登れる。道はゆったりとした上りで、天気もいいし気持ちがいい。
「ほら、桜が咲いているよ。ここの八重桜は遅咲きなんだ。まだ咲いていたんだね」
「おお、綺麗だなあ。普通の桜より何かこうふかふかだよな」
そう、ふわふわに見えるのである。一重の桜より色も濃くて綺麗だ。私はこの桜が大好きだ。八重桜の木は道の両脇にぽつぽつと生えている。頂上には桜の木がたくさんあるのだが、ヴァルトはそこまでは行けないなと言った。ユーリのことを気遣っているのだろう。そういってくれるのは私としてはありがたい。
ユーリは桜を見上げて微笑んだ。ここに来てようやくユーリが笑ってくれた。私は桜が見られたよりも、ユーリの笑顔を見られたことの方が嬉しかった。
「ユーリ、桜が綺麗だよ」
「うん、凄く綺麗だね。やっぱり、ここに来てよかったよ。こんな綺麗な桜があるんだね。ところでヴァルトさんは山を途中で下りるの?」
「山頂まではお邪魔出来ないだろ。それに、俺もそろそろこの村を離れないと。ここに記憶を取り戻すヒントはないみたいだからな」
「僕は一緒でもよかったんだけど」
「無理するなよ。二人で行く方がいいだろ。俺は今普通に話しかけてくれただけで嬉しいよ」
そういって笑うヴァルトに私も同感だというと、ユーリは不服そうだった。
山を少し登ると背後に海が見えてくる。ユーリは海を見て一気にテンションが上がったようだった。ユーリの住んでいた町は内陸で、海を見たことがなかったのだ。ここに来るまであちこち行ったけれど、海沿いの道を歩いたことはなかった。
「うわあ、あれが海なんだね。広いんだよね、大きいんだよね。あの水って塩分含んでてしょっぱいんだよね。山下りたらもっと海の近くに行こうよ」
「そうだね。海に行くのもいいね。海には連れて行かなかったから。せっかくの機会だからもっと近くに行ってもいいかもしれないね。ヴァルトは海を見てどう?」
「へー、あれが海なんだ。多分、俺も初めてだよ。本とかでは読んだことがあるような気がするんだけど。あれって、しょっぱいのか?」
「塩分含んでいるからね。そっか、二人とも海は初めてだったのか」
ずっと村はずれに海がある。港もあるのだが、そこにはあまり人が住んでいない。ここは波が高くて有名なところなのだ。あまり海辺に家を建ててしまうと、塩水をかぶってしまうのだ。家が傷んでしまう。
それから、また少し坂道を上ると道の両脇に桜が並んでいる。桜並木だ。三人並んでしばらく桜を眺めた。ふわふわのピンクの花がたくさん咲いている。
「綺麗だなあ。こんなに綺麗だなんて思わなかった。クレメラの桜も綺麗だったけど、ここのは格別だね。僕、桜大好きだよ」
「クレメラ?」
「クレメラはここより大分南にある町なのだけれど、花の町として有名なんだよ。花祭りは終わってしまったけど、あそこはこれからの季節町中が花でいっぱいになるんだ。綺麗だから行ってみるといいよ」
「そうなのか。じゃあ、機会があったら行ってみようか。そんなに綺麗なところもあるんだな」
「有名な観光地だから立ち寄っている可能性もあると思うよ」
「そうかそれは行った方が良さそうだな」
ヴァルトはそういって背を向けた。
「俺はここまでにするよ。八重桜も見られたし、海も見られたし気分は最高だ。それに二人の邪魔はしたくないしな」
去っていこうとするヴァルトをユーリが止める。その表情は真剣だった。ヴァルトは足を止めてユーリをみるが、ユーリは動かない。ユーリの真剣な表情に、ヴァルトはただ事ではないと悟ったようだが、私は何が起こったのか分からずおろおろしていた。なんだろう、ユーリは突然どうしたと言うんだろう。
「魔の気配がする。うっすらとだけど、間違いないよ」
「こんなところで魔の気配がするのか。動かない方がいいのか?」
「分からない。どうしたらいいのかな。ねえ、アル」
魔の気配、私は感じない。どんなに神経を研ぎ澄ませても、何も感じない。ユーリの勘違いなのか、私の感覚が鈍っているのか。ユーリは私に話しかけるが、聞こえなくなっていた。
私は魔の気配を感じなくなったのか。
だとしたら、私は何も出来ないのではないか。魔の気配に敏感だからこそ、今まで魔と戦って来られたのである。たまたま今日は調子がおかしいだけかもしれない。けれどそれにしたって、ユーリが感じるものを私が感じないわけがない。何だろう。私に何が起こっているのだろう。
「俺は鈍感なのか、そういうのを感じない方なんだ。どうすればいいんだ、山を下りた方がいいのか、ここを動かない方がいいのか」
「どうしたらいいと思う、アル」
「あ、ああ。どうしたらいいんだろう」
「どうしたの、アル。何だか変だよ。何かあったの?」
「それが、魔の気配を感じないんだ。どんなに神経を研ぎ澄ませても、何も感じないんだ」
「そんなこともあるんだな。じゃあ、俺はどうしようか。いっそ皆で山を下りるか。その方が良さそうじゃないか」
どうするべきなのだろう。いつもならうっすらでも魔の気配を感じたらすぐにどうすべきか思いつくのに、魔の気配を感じなくなった途端どうすればいいのかすら分からなくなってしまった。私はたった一つの取り柄もなくなったのか。いや、落ち込んでいる場合じゃない。今はどうするべきか考えなければ。いつもの状態じゃないから、自分の感覚あてにならない。
それなら。
クリスならどうするだろう。
クリスなら。
「アル、どうしよう」
「ちょっと待って。今考えるから」
「まずいぞ、魔の気配は近づいてないのか?」
「詳しいことまでは分からないよ。うっすらだから、まだ近くないとは思う。そのくらいだよ」
「今すぐ山を下りた方がいいかもしれない」
そう言ったと同時に、非常に強い魔の気配を感じて、私は意識を失った。