目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第34話 白昼夢。

 窓から見える景色は荒んでいた。

 空は重苦しい雲に覆われている。

 今日、僕の町に魔が現れた。魔は僕の家のすぐ近くに巣くったようだ。真っ黒い大きな空間の歪みと、そこから体を出す魔。魔はアルットゥリ・サヴォライネンというようだ。町の中を逃げまどう人々。次々と魔が人々を喰らってく。阿鼻叫喚の地獄絵図である。

 空間の歪みの空気が流れてくる所為か、くらくらと目眩がする。

 母さんはどうしただろう。


「母さん、どうしよう。町が大変なことになっているよ。どうしたらいいんだろう。皆喰われていくよ。お隣のおじさんとおばさんも動かなくなった」

「アルベルト、いい。今すぐに荷物をまとめていらっしゃい。急いでこの町を出るわよ。ほら、何してるの、急いで」

「でも、外に出たら魔に喰われてしまうよ。あの魔からは逃げられないんんだよ。きっと僕たちはもう」

「アルベルト、母さんは貴方を魔に渡したりしないわ。だから、母さんを信じてついてきてちょうだい。貴方を必ず守ってみせる」

「母さん、でも」

「ここにいればいずれ喰われてしまう。急ぎなさい」


 僕は母さんの言う通りに荷づくりを始める。大事なものや必要なものをかばんに詰め込んでいく。目眩がして頭がくらくらする中、一番大好きな本を詰めた。必要なものは他にはないはずだ。母さんを探すと、まだ荷物を詰めている最中だった。

 壁が鳴る。家全体が震えていた。

 魔はこの町そのものをのみ込もうとしているようだ。魔の気配に敏感ではない僕が、その気配の強さに竦み上がる。このままここにいると本当に魔に喰われてしまう。僕は怖くなって母さんのそばに行った。


「母さん、僕怖いよ」

「大丈夫、母さんがいるから安心しなさい。さあ、かばんを背負って。母さんもすぐに行くから、玄関の方に行っていなさい」

「嫌だよ、僕一人になるの。怖いよ。母さんのそばにいる」

「じゃあ、母さんのそばにいなさい」


 母さんだってきっと怖いはずなんだ。けれど、この時の僕はそんなこと思いもしなかったし、母さんと一緒にいれば大丈夫なんだって思ってた。ただ、怖くて震えていた。大事なものは守らなければなくなってしまうということを知らずに、僕は母さんに甘える。

 母さんは支度が出来ると僕の手を引いて、階段を下りる。

 また、家が震えた。

 怖い、怖い、怖い。

 僕はお母さんにしがみついて泣いた。泣いてもどうにもならないことがあるということを僕はまだ知らない。母さんは僕を抱きしめて泣いていた。母さんが泣いている。どうして泣いているのか僕には分からなかった。

 手を引かれて外に出ると、風が砂埃を巻き上げて唸っていた。海も荒れて白い波しぶきが上がっている。荒れ果てた砂っぽい風の吹く町を走る。

 近くを走る人が倒れた。その隣を走っていた人も倒れた。どんどん、人が倒れていく。


「母さん、皆倒れていくよ。僕たちも喰われてしまうの」

「アルベルト、後ろを振り返らないで走りなさい。周りの人にかまっている余裕はないわ。行くわよ」

「でも、怖いよ。もう嫌だよ」

「アルベルト、生きるの。生きるためなの。お願いだから、走ってちょうだい。私は貴方を失いたくはないわ」


 嵐が吹き荒れている。

 魔の気配は強くなる一方だ。

 その時、僕は転んだ。

 空間の歪みから真っ黒な手が伸びてくる。立ち上がろうとするけれど、早く立たなければと思えば思うほど足がもつれる。捕まると思った時、母さんが僕の背中を押した。空間の歪みから伸びた手は僕ではなく、母さんの足首を捕まえる。

 転ぶ母さん。

 そして、引きずられていく母さん。

 僕は尻餅をついたままその光景を見つめていた。母さんは逃げるようにと叫んだけれど、僕は怖くてその言葉を理解するのに少し時間がかかった。逃げる。そうだ、逃げなければ。でも、母さんを一人には出来ない。どうしたらいいのだろう。


「そこの子どもよ。動くなよ。女を喰ったら次はお前だ」


 アルットゥリという魔は銀色の髪をなびかせて、ぞっとするような声で笑った。赤い瞳に射抜かれたように体が動かない。


「逃げなさい、アルベルト!」

「でも、母さんが。母さんが死んでしまう。助けるから、今助けるから」

「だめよ。今すぐ行きなさい。母さんは大丈夫、必ず追いかけるから」

「美しい親子愛だな。どちらも喰ってやるから安心しろ」

「母さん、一緒に行こう。早くいこう」

「アルベルト、急いで逃げなさい」


 怖いけれど、母さんは残していけない。そんな僕に向かって真っ黒い手が伸びてくる。僕は母さんと一緒に捕まってもいいと思った。母さんと離れるくらいなら、喰われてもいいと。

 すると、突然家の方から不思議な声が聞こえてきた。


『守りたいものがあるのか』


 僕は伸びてきた手を飛び越えて家に飛び込む。どこから聞こえたのだろう。僕は玄関から奥の寝室へ向かった。誰もいない。声の主はどこだろう。探していると、外から母さんの悲鳴が聞こえてきた。窓から見てみると、母さんが空間の歪みに引きずり込まれようとしていた。だめだ。母さんが喰われてしまう。


「守りたいよ。僕は母さんを守りたいよ。守りたいものがあるよ」


『ならば力を与えよう』


 その声がしたのはリビングだった。僕がリビングに飛び込むと、ピアノの前に銀色に輝く杖が浮いている。僕にはそれが何だか分からないが、もしかしたらこれが僕と母さんを救ってくれるのかもしれないと思った。

 特に装飾もないただのすらりと長い銀色の杖。


『これはお前を助けてくれる、魔を鎮める月光の杖。受け取るがいい。この杖を持つということは、世界中の魔に立ち向かうということになるが、よいな』


 その言葉がどれだけ深い意味を持つのかなんて到底理解は出来なかった。何が何だか分からなかったが、母さんだけは助けたい。それには多分、この杖がいる。私はピアノの前に静かに浮いている、僕の背よりもずっとずっと長い銀色の杖を疑うこともなく手に取った。


『しかし、決して気が高ぶっている時に使ってはならない。分かったな』


 その時、また母さんの悲鳴が聞こえてきた。

 僕は杖を持って外に出る。

 母さんは両手両足を掴まれて、引きずられていた。少しずつ漆黒の空間の歪みに向かっていく。母さんが喰われてしまう。許せない、それだけは許してはいけない。僕は母さんを助ける。母さんと生きるのだ。


「何だ、そこの子どもよ。それは何だ」

「これは杖だよ。僕と母さんを守ってくれるんだ」

「何、まさかそれは行方不明になっていた、月光の杖か。何でお前のような子どもが杖を持っているのだ」


 そんなことは知らない。僕はこの杖を使って母さんを助けるのだ。使い方は教わらなかったけれど、何とかなる。大丈夫。

 けれど、僕はあの不思議な声の言っていたことを忘れてしまっていた。

 僕の中で怒りの炎が燃える。

 許さない。憎いのだ。あの魔が憎いのだ。

 殺したい。

 杖が細かく振動し始めた。

 やがて大きく震え、私の手を離れる。

 光が暴走した。

 杖が宙に浮いてから、光は炎へと変わる。炎は龍のように激しく身をくねらせ、そこら中を暴れ回る。炎の龍は近所だけでなく町中を駆け巡って燃やしてしまった。炎がめらめらと嘗め尽くし、家に隠れていた人たちが外に出てくる。その人々をも龍が焼いた。家も焼け落ちていく。

 僕が守りたかった母さんは腕の中で燃え尽きた。

 空間の歪みは閉じられたが、町は全滅だった。

 気がつくと、僕は焼け野原の真ん中で一人佇んでいた。あれだけ人を殺したのに、僕は何故か無傷だった。




 私は町の人皆殺しにしたのだ。






「アル、アル。大丈夫、アル」

「ん、ああ、大丈夫。もしかして、ユーリも見たのかい」

「うん、見たよ」

「私はどうすればよかったんだろうね」


 私が見ていたのは十二歳の誕生日の時の夢。ユーリも同じ夢を見ていたようだ。私が杖の力を暴走させて、全てを焼き尽くしたあの時の夢を。声に従っていれば、落ち着いて祈っていれば、誰も死ななかったのに。


「アルはお母さんを助けたかったんだよね」

「怖くはないのかい。私のことが」

「だって、アルはアルでしょう」


 ざあっと風が吹き、ピンクの花びらが舞った。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?