〜貴族と従者、フレンチ75〜
今夜の扉が開く音は、いつもより静かだった。
入ってきたのは、優雅な貴族と、その後ろに控える寡黙な従者。
貴族の青年は、絹のように滑らかな金髪を整え、仕立ての良い服を身に纏っている。
高貴な香水の香りが微かに漂い、彼の一挙手一投足には育ちの良さが滲んでいた。
一方、後ろの従者は黒衣に身を包み、無表情で静かに主に付き従っている。
剣の柄を隠し持つような仕草から、ただの従者ではなく護衛の役割も果たしているのだろう。
貴族の青年はカウンターに腰を下ろし、微笑んだ。
「……ふふ。なかなか趣のある店だね。こんなところに”本物”のバーテンダーがいるとは」
俺は肩をすくめる。
「光を浴びるばかりが酒じゃない。静かな場所で、静かな酒を楽しむのもまた一興さ」
「面白いことを言うね」貴族の青年は目を細めた。
「さて、何を作ろうか?」
「そうだな……気高く、それでいて鋭く、飲む者の心を震わせるような一杯を頼もうか」
なるほど。
彼の言葉の端々には遊び心があるが、同時に強い自信も感じる。
それに応えられる一杯——ならば。
俺は、棚からシャンパンのボトルを取り出した。
「フレンチ75……気品と鋭さを兼ね備えた、特別なカクテルだ」
シェイカーにジン、レモンジュース、砂糖を入れ、しっかりとシェイク。
冷えたシャンパングラスに注ぎ、最後にシャンパンを静かに満たす。
黄金の泡が立ち昇り、グラスの中で美しく輝く。
俺はカウンターにそれを置いた。
「フレンチ75——気高く、そして鋭く。“大砲の一撃”とも称される一杯だ」
貴族の青年は面白そうに目を輝かせた。
「ほう……これは、なかなか期待が持てるね」
彼はグラスを持ち上げ、一口。
「……っ!」
ジンのキレのある刺激、レモンの爽やかさ、そしてシャンパンの気品ある泡立ちが一体となる。
口の中に広がる爽快な味わいとともに、わずかな甘みが余韻を残す。
「……これは、素晴らしい」
貴族の青年は笑みを深めた。
「確かに”大砲の一撃”だ。だが、それはただ荒々しいわけじゃない。精密に計算され、狙い澄まされた一撃だ」
「気に入ったか?」
「ああ、実に優雅で、実に力強い……いいね」
青年が満足げにグラスを傾ける傍ら、後ろの従者は一歩も動かないまま、無言でその様子を見ていた。
貴族の青年は彼をちらりと見て、くすっと笑う。
「君も何か飲んだらどうだい?」
従者は静かに首を振った。
「私は、主の護衛ですので」
「つまらないやつだな」青年は少しだけ肩をすくめた。
「だが、それが君らしい」
そのやりとりを聞きながら、俺はふともうひとつのグラスを用意した。
「なら、アルコールなしで一杯作ろう」
俺はジンの代わりにノンアルコールのトニックウォーターを使い、レモンジュースと砂糖をシェイク。
仕上げに炭酸水を満たし、黄金の泡が立つもう一杯を作った。
「ノンアルコールのフレンチ75もどきだ。戦場にいるときでも、気持ちを落ち着かせるのにいい」
従者は一瞬、迷うように俺を見た。
貴族の青年が面白がって言う。
「ふふ……君も飲んでみたらどうだ?」
従者は無言のまま、グラスを取ると、静かに一口。
「……悪くない」
それだけ言うと、彼は静かにグラスを置いた。
貴族の青年はその様子を見て、満足げに笑った。
「今日は楽しい夜だった。……また来るよ、マスター」
そう言って金貨を置くと、彼は従者とともに静かに店を後にした。
扉が閉まる。
残ったのは、まだかすかに立ち昇るシャンパンの泡の余韻だけだった。
——今夜もまた、優雅で鋭い一杯を届けた。