〜魔法使いとブルームーン〜
扉が開いた瞬間、微かに甘い香りが店内に流れ込んできた。
ゆっくりと足を踏み入れたのは、ローブをまとった魔法使い。
長い杖を手にし、フードの奥から覗く瞳は夜空のように深い青をしている。
年齢は不詳——若いようにも見えるし、老いているようにも思える。
彼はカウンターの席に静かに腰を下ろし、指先で杖を軽く回しながら、低く囁くように言った。
「……青い酒をもらおうか」
俺は微笑んだ。
この店で青い酒を求める客はそう多くない。
ならば、ぴったりの一杯を用意しよう。
「ブルームーン——“青い月”の名を持つカクテルだ」
俺はグラスを用意し、背後の棚からクレーム・ド・ヴァイオレットのボトルを取り出す。
この紫のリキュールは、スミレの花から作られたものだ。
そこにジンとレモンジュースを加え、シェイカーでゆっくりと混ぜる。
シャカシャカ、シャカシャカ。
氷とともに振られた液体は、グラスに注がれると淡い神秘的な青紫に染まる。
まるで、夜空に浮かぶ月の光を閉じ込めたかのように。
俺はカウンターにグラスを置いた。
「ブルームーン——夜空の魔法を映した一杯さ」
魔法使いは、ふっと微笑んだ。
グラスを持ち上げ、ゆっくりと回す。
「……美しいな」
そして、静かに口をつける。
「……ほう、これは」
スミレの繊細な香りが広がり、ジンの洗練されたキレがそれを引き締める。
レモンの酸味が後味を軽やかにし、儚く消えるような余韻を残す。
魔法使いは目を細め、微かに笑った。
「なるほど……これはまるで”魔法”のようだ」
「気に入ったか?」
「ふふ……悪くない」
グラスを傾けながら、魔法使いは呟くように語り始めた。
「青い月の日、魔力は静かに満ち、世界の理を揺るがすという……」
彼は指先でグラスの縁をなぞり、淡く残る雫を眺める。
「……この酒も同じだな。静かに、しかし確かに、心を揺さぶる」
俺は黙って彼の言葉を聞きながら、次の客のためにグラスを磨く。
魔法使いは最後の一口を楽しむと、静かにグラスを置いた。
「また青い月の夜に来よう」
そう言い残し、フードを深く被ると、彼は静かに立ち上がった。
扉が開くと、微かに甘いスミレの香りが外の闇に溶けていく。
——今夜もまた、一人の魔法使いに”青き魔法”を届けた。