〜裏切り者とネグローニ〜
扉が開いた。
だが、そこに客が入ってきた気配はなかった。
——いや、違う。
いつの間にか、カウンターの端に一人の男が座っていた。
洗練された黒のロングコート、指には華美な指輪。
薄く笑う唇の奥に、何を考えているのかは見えない。
——裏切り者だな。
彼はゆったりとした仕草で手を掲げる。
「マスター、“苦い酒”を頼むよ」
俺は微かに笑い、棚からボトルを取り出す。
「ネグローニ——裏と表のある一杯だ」
ロックグラスに氷を入れ、
ジン、カンパリ、スイートベルモットを等量注ぐ。
バースプーンで静かにステアし、
仕上げにオレンジピールを軽くひねる。
琥珀と紅が絡み合い、
まるで“血の契約”のように妖しく輝く。
「どうぞ」
裏切り者はグラスを眺め、くるくると回す。
「……ふふ、“毒々しい”色だね」
そして、一口。
「……っは」
カンパリの強烈な苦み、ベルモットの甘やかさ、
ジンのスパイスが後味に残る。
まるで、“甘い言葉の裏にある毒”のような味だ。
「……面白いね。これは”信頼”を試す酒かい?」
俺は静かにグラスを磨く。
「そいつはお前次第だろう?」
裏切り者はくすくすと笑い、グラスの中を覗き込む。
「信頼ねぇ……そんなもの、簡単に壊れるものさ」
指でグラスの縁をなぞる。
「忠誠なんて、ほんの一滴の”甘さ”があれば崩れる。
信頼なんて、一瞬の”苦み”で揺らぐ」
俺は静かに言う。
「だが、お前はまだ”この酒を飲める”んだな?」
裏切り者は微かに目を細める。
そして、最後の一口を飲み干した。
「……さて、どうかな?」
懐から銀貨を取り出し、
ひとつだけ、カウンターに置く。
「これが”本物”か”偽物”か——それは、君次第だ」
俺は銀貨を拾い、
じっと眺める。
本物か? 偽物か?
それを知るのは、俺だけだった。
裏切り者は愉快そうに笑い、軽く手を振る。
「また来るよ。……“俺を信用できるうちに”な」
扉が開く。
彼の背中は夜の闇へと溶けていった。
——今夜もまた、一人の”二枚舌”に赤き毒を届けた。