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第37話「二枚舌に、赤き毒を」

〜裏切り者とネグローニ〜


 扉が開いた。


 だが、そこに客が入ってきた気配はなかった。


 ——いや、違う。


 いつの間にか、カウンターの端に一人の男が座っていた。

 洗練された黒のロングコート、指には華美な指輪。

 薄く笑う唇の奥に、何を考えているのかは見えない。


 ——裏切り者だな。


 彼はゆったりとした仕草で手を掲げる。


 「マスター、“苦い酒”を頼むよ」


 俺は微かに笑い、棚からボトルを取り出す。


 「ネグローニ——裏と表のある一杯だ」


 ロックグラスに氷を入れ、

 ジン、カンパリ、スイートベルモットを等量注ぐ。

 バースプーンで静かにステアし、

 仕上げにオレンジピールを軽くひねる。


 琥珀と紅が絡み合い、

 まるで“血の契約”のように妖しく輝く。


 「どうぞ」


 裏切り者はグラスを眺め、くるくると回す。


 「……ふふ、“毒々しい”色だね」


 そして、一口。


 「……っは」


 カンパリの強烈な苦み、ベルモットの甘やかさ、

 ジンのスパイスが後味に残る。


 まるで、“甘い言葉の裏にある毒”のような味だ。


 「……面白いね。これは”信頼”を試す酒かい?」


 俺は静かにグラスを磨く。


 「そいつはお前次第だろう?」


 裏切り者はくすくすと笑い、グラスの中を覗き込む。


 「信頼ねぇ……そんなもの、簡単に壊れるものさ」


 指でグラスの縁をなぞる。


 「忠誠なんて、ほんの一滴の”甘さ”があれば崩れる。

  信頼なんて、一瞬の”苦み”で揺らぐ」


 俺は静かに言う。


 「だが、お前はまだ”この酒を飲める”んだな?」


 裏切り者は微かに目を細める。


 そして、最後の一口を飲み干した。


 「……さて、どうかな?」


 懐から銀貨を取り出し、

 ひとつだけ、カウンターに置く。


 「これが”本物”か”偽物”か——それは、君次第だ」


 俺は銀貨を拾い、

 じっと眺める。


 本物か? 偽物か?


 それを知るのは、俺だけだった。


 裏切り者は愉快そうに笑い、軽く手を振る。


 「また来るよ。……“俺を信用できるうちに”な」


 扉が開く。


 彼の背中は夜の闇へと溶けていった。


 ——今夜もまた、一人の”二枚舌”に赤き毒を届けた。

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