〜怪盗とエスプレッソ・マティーニ〜
扉が開いた。
——いや、“開いたように見えなかった”。
店内に客が増えたことに気づいたのは、
カウンターの端に優雅な男が腰を下ろしていたからだ。
漆黒のロングコート、シルクの手袋。
肩には深紅のマントがひらりと揺れ、
その口元には、どこか挑発的な笑み。
——怪盗だな。
彼は軽く指を鳴らし、俺を見た。
「マスター、“甘く危険な夜”にふさわしい酒を頼もうか」
俺は微かに笑い、棚からボトルを取り出す。
「エスプレッソ・マティーニ——闇に溶ける漆黒の一杯だ」
シェイカーにウォッカ、コーヒーリキュール、エスプレッソを注ぐ。
氷を加え、素早くシェイク。
——シャカシャカ、シャカシャカ。
冷えたマティーニグラスに注ぐと、
深い夜のような漆黒の液体の上に、繊細な泡が浮かぶ。
仕上げに、コーヒー豆を3粒——“幸運を呼ぶ3つの願い”として添えた。
「どうぞ」
怪盗はグラスを持ち上げ、唇に触れる寸前で一度止めた。
「……ふふ、まるで”夜そのもの”のような色だ」
そして、一口。
「……っは」
ウォッカの鋭いキレ、コーヒーリキュールの甘み、
エスプレッソの深い苦みと香ばしさ。
そのすべてが混ざり合い、まるで”危険な誘惑”のような味わい。
「……これは”眠らぬ者”のための酒だな?」
俺はグラスを拭きながら頷く。
「そうさ。“深夜の仕事”にぴったりだろう?」
怪盗はグラスを揺らし、笑う。
「なるほど……確かに、俺のような”夜の住人”には最適だ」
最後の一口を飲み干し、グラスを置く。
「さて、そろそろ行くとしようか」
彼は懐から一枚の金貨を取り出し、
優雅な仕草でカウンターに滑らせた。
「——と思ったかい?」
俺が金貨に手を伸ばす前に、
それはすっと消え去った。
「ははっ、“怪盗”に支払いを期待するとは、マスターも甘いね!」
彼は軽やかに笑い、
マントを翻しながら扉へ向かう。
「また来るよ。“盗まれる準備”ができたらね」
扉が開く。
夜の闇が彼を包み、
——次の瞬間には、彼の姿はもうなかった。
だが、カウンターにはコーヒー豆が3粒だけ残されていた。
——今夜もまた、一人の”夜の住人”に漆黒の香りを届けた。