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第38話「闇を駆ける者に、漆黒の香りを」

〜怪盗とエスプレッソ・マティーニ〜


 扉が開いた。


 ——いや、“開いたように見えなかった”。


 店内に客が増えたことに気づいたのは、

 カウンターの端に優雅な男が腰を下ろしていたからだ。


 漆黒のロングコート、シルクの手袋。

 肩には深紅のマントがひらりと揺れ、

 その口元には、どこか挑発的な笑み。


 ——怪盗だな。


 彼は軽く指を鳴らし、俺を見た。


 「マスター、“甘く危険な夜”にふさわしい酒を頼もうか」


 俺は微かに笑い、棚からボトルを取り出す。


 「エスプレッソ・マティーニ——闇に溶ける漆黒の一杯だ」


 シェイカーにウォッカ、コーヒーリキュール、エスプレッソを注ぐ。

 氷を加え、素早くシェイク。


 ——シャカシャカ、シャカシャカ。


 冷えたマティーニグラスに注ぐと、

 深い夜のような漆黒の液体の上に、繊細な泡が浮かぶ。


 仕上げに、コーヒー豆を3粒——“幸運を呼ぶ3つの願い”として添えた。


 「どうぞ」


 怪盗はグラスを持ち上げ、唇に触れる寸前で一度止めた。


 「……ふふ、まるで”夜そのもの”のような色だ」


 そして、一口。


 「……っは」


 ウォッカの鋭いキレ、コーヒーリキュールの甘み、

 エスプレッソの深い苦みと香ばしさ。


 そのすべてが混ざり合い、まるで”危険な誘惑”のような味わい。


 「……これは”眠らぬ者”のための酒だな?」


 俺はグラスを拭きながら頷く。


 「そうさ。“深夜の仕事”にぴったりだろう?」


 怪盗はグラスを揺らし、笑う。


 「なるほど……確かに、俺のような”夜の住人”には最適だ」


 最後の一口を飲み干し、グラスを置く。


 「さて、そろそろ行くとしようか」


 彼は懐から一枚の金貨を取り出し、

 優雅な仕草でカウンターに滑らせた。


 「——と思ったかい?」


 俺が金貨に手を伸ばす前に、

 それはすっと消え去った。


 「ははっ、“怪盗”に支払いを期待するとは、マスターも甘いね!」


 彼は軽やかに笑い、

 マントを翻しながら扉へ向かう。


 「また来るよ。“盗まれる準備”ができたらね」


 扉が開く。


 夜の闇が彼を包み、

 ——次の瞬間には、彼の姿はもうなかった。


 だが、カウンターにはコーヒー豆が3粒だけ残されていた。


 ——今夜もまた、一人の”夜の住人”に漆黒の香りを届けた。

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