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第49話「静かなる刃に、赤き誘惑を」

〜暗殺者とエル・プレジデンテ〜


 扉が開いた。


 ——いや、“開いた音はしなかった”。


 気がつけば、カウンターの端に一人の男が座っていた。


 黒いスーツ、手袋を嵌めた細い指。

 磨き抜かれたブーツ、影のように静かな佇まい。


 だが、一番目を引いたのは”存在感のなさ”だった。

 そこにいるのに、“いない”かのように感じる。


 ——暗殺者、か。


 彼は薄く笑い、静かに言った。


 「……“洗練された毒”をくれ」


 俺は微かに笑い、棚からボトルを取り出す。


 「エル・プレジデンテ——“権力を覆す一杯”だ」


 ミキシンググラスにホワイトラム、ドライベルモット、グレナデン、オレンジキュラソーを注ぐ。

 バースプーンで静かにステアし、冷えたカクテルグラスに注ぐ。


 琥珀がかった紅色の液体が、

 まるで”優雅に仕込まれた毒”のように揺れる。


 「どうぞ」


 暗殺者はグラスを持ち上げ、

 その色をじっと見つめる。


 「……美しいな」


 そして、一口。


 「……っふ」


 ホワイトラムの滑らかな甘さ、

 ドライベルモットのハーブの香り、

 オレンジキュラソーのほのかな苦み。


 最後に残るのは、グレナデンの甘美な余韻。


 まるで”甘い微笑みの裏に仕込まれた刃”のような味わい。


 彼は薄く笑い、グラスを揺らす。


 「……“暗殺”とは、こういうものだよ」


 「どういう意味だ?」


 彼は静かに言った。


 「“華やかで、滑らかで、抗いがたい”——そして、一度口をつければ、もう戻れない」


 俺はグラスを拭きながら言う。


 「お前にとって、それは”仕事”か? それとも”信念”か?」


 暗殺者は、ほんの一瞬だけ沈黙する。


 そして、微笑んだ。


 「……その答えを知る必要は、ないだろう?」


 最後の一口を飲み干し、

 静かにグラスを置く。


 「いい酒だった」


 彼は懐から小さな金のコインを取り出し、

 カウンターにそっと置く。


 「“報酬”だ。……価値があるかどうかは、君が決めることだ」


 俺はそれを拾い、微かに笑った。


 「また来るか?」


 暗殺者は立ち上がり、

 影のように歩き出す。


 「……“必要になったら”な」


 扉が開く。


 次の瞬間には、

 彼の姿はもう、どこにもなかった。


 ——今夜もまた、一人の”静かなる刃”に赤き誘惑を届けた。

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