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第52話「静かに育む者に、緑の一杯を」

〜庭師とサイドカー・バジル・トワスト〜


 扉が開いた。


 土の香りが、ほんのりと漂った。

 それは不思議と清らかで、温かな気配を伴っていた。


 カウンターに腰を下ろしたのは、一人の庭師。

 日焼けした肌、繊細な指先。

 そして、肩には小さな土のついた枝がひとつ、ぶら下がっている。


 彼は静かに笑い、言った。


 「……“植物のように香る酒”があれば、ぜひ」


 俺は一瞬だけ目を細め、すぐに頷いた。


 「サイドカー・バジル・トワスト——緑の記憶を留める一杯だ」


 シェイカーにコニャック、オレンジリキュール、レモンジュースを注ぎ、

 そこに軽く潰したフレッシュバジルの葉を加える。


 氷を入れ、ゆっくりと丁寧にシェイク。


 ——シャカシャカ、シャカシャカ。


 冷えたカクテルグラスに注ぐと、

 淡い琥珀色の液体の中に、バジルの香りがふんわりと立ち上がった。


 「どうぞ」


 庭師はグラスをそっと手に取る。

 まるで大切な苗を扱うような所作だった。


 「……ああ、これは”春先の庭”の香りだな」


 そして、一口。


 「……ん」


 コニャックの深く滑らかなコク、

 オレンジリキュールの柔らかな甘み、

 レモンの爽やかな酸味。

 そこに重なるバジルの青く、澄んだ香りが、まるで芽吹いたばかりの新緑のように心を満たす。


 「……植物も、人の心も、“急かすとうまく育たない”。

  ……この酒もそうだな」


 俺は微かに笑いながら答える。


 「丁寧に混ぜて、時間をかけて、ようやく香りが立つ」


 庭師は頷き、グラスをゆっくり回した。


 「……花が咲く音を、知っているかい?」


 「いや」


 「俺も、聞いたことはない。

  だが、“酒が開く音”は今、確かに聞こえた気がする」


 最後の一口を飲み干し、

 彼は優しくグラスを置いた。


 「……いい酒だった」


 懐から木の実の詰まった小袋を取り出し、カウンターに置く。


 「“土に還す礼”だ。育ててみるといい」


 俺は受け取りながら微笑んだ。


 「また来るか?」


 庭師は立ち上がり、

 扉の方へ向かいながら言う。


 「次は、花が咲く頃に」


 扉が開く。


 彼の背中は、春の風のように静かに消えていった。


 ——今夜もまた、一人の”育てる者”に緑の一杯を届けた。

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