〜庭師とサイドカー・バジル・トワスト〜
扉が開いた。
土の香りが、ほんのりと漂った。
それは不思議と清らかで、温かな気配を伴っていた。
カウンターに腰を下ろしたのは、一人の庭師。
日焼けした肌、繊細な指先。
そして、肩には小さな土のついた枝がひとつ、ぶら下がっている。
彼は静かに笑い、言った。
「……“植物のように香る酒”があれば、ぜひ」
俺は一瞬だけ目を細め、すぐに頷いた。
「サイドカー・バジル・トワスト——緑の記憶を留める一杯だ」
シェイカーにコニャック、オレンジリキュール、レモンジュースを注ぎ、
そこに軽く潰したフレッシュバジルの葉を加える。
氷を入れ、ゆっくりと丁寧にシェイク。
——シャカシャカ、シャカシャカ。
冷えたカクテルグラスに注ぐと、
淡い琥珀色の液体の中に、バジルの香りがふんわりと立ち上がった。
「どうぞ」
庭師はグラスをそっと手に取る。
まるで大切な苗を扱うような所作だった。
「……ああ、これは”春先の庭”の香りだな」
そして、一口。
「……ん」
コニャックの深く滑らかなコク、
オレンジリキュールの柔らかな甘み、
レモンの爽やかな酸味。
そこに重なるバジルの青く、澄んだ香りが、まるで芽吹いたばかりの新緑のように心を満たす。
「……植物も、人の心も、“急かすとうまく育たない”。
……この酒もそうだな」
俺は微かに笑いながら答える。
「丁寧に混ぜて、時間をかけて、ようやく香りが立つ」
庭師は頷き、グラスをゆっくり回した。
「……花が咲く音を、知っているかい?」
「いや」
「俺も、聞いたことはない。
だが、“酒が開く音”は今、確かに聞こえた気がする」
最後の一口を飲み干し、
彼は優しくグラスを置いた。
「……いい酒だった」
懐から木の実の詰まった小袋を取り出し、カウンターに置く。
「“土に還す礼”だ。育ててみるといい」
俺は受け取りながら微笑んだ。
「また来るか?」
庭師は立ち上がり、
扉の方へ向かいながら言う。
「次は、花が咲く頃に」
扉が開く。
彼の背中は、春の風のように静かに消えていった。
——今夜もまた、一人の”育てる者”に緑の一杯を届けた。