〜図書館司書とレクイエム・カクテル〜
扉が開いた。
だが、それはあまりに静かだった。
音もなく、風もなく、まるで書架の奥から歩み出てきたような気配。
カウンターに座ったのは、一人の図書館司書。
灰色のケープ、薄い眼鏡、手には古びた羊皮紙。
言葉よりも、沈黙が似合うような雰囲気を纏っていた。
彼女は、そっと目を上げて言った。
「……静かに終わる物語に、ふさわしい酒をください」
俺は一度だけ目を閉じ、棚からボトルを選ぶ。
「レクイエム・カクテル——眠る物語に捧ぐ一杯だ」
シェイカーにブランデー、アマレット、ドライベルモット、少量のアブサンを注ぐ。
氷を加え、静かにステア。
——カラン……カラン……ページをめくるような静かな音。
冷えたカクテルグラスに注ぐと、
琥珀がかった液体に、アブサンの影がほんの少し揺れる。
「どうぞ」
図書館司書はグラスを見つめ、
まるで古書の香りを嗅ぐように、そっと目を閉じてから口をつけた。
「……ああ……これは”読後の静けさ”の味……」
ブランデーの重厚な深み、
アマレットの甘く切ない香り、
ドライベルモットの仄かな苦み、
そしてアブサンの微かな妖しさが余韻として残る。
「……誰かが書き終えた物語が、
今日も誰かの心でまた”生きる”。
でも、終わること自体が……尊いのよ」
俺は静かにグラスを拭きながら言う。
「“物語の最後”を知っているからこそ、ページをめくれる」
図書館司書は、うっすらと笑った。
「その通り。……終わりがあるからこそ、記憶に残るの」
彼女はグラスを置き、
懐から革装の小さな書物を取り出す。
「これ、貸してあげる。
私がいなくなっても、“物語”が此処にあればまた会える」
俺はそれを受け取り、慎重に棚へと納める。
「また来るか?」
図書館司書は立ち上がり、
ケープを羽織り直して言う。
「……“次の章をめくる頃”に」
扉が開く。
まるでページが静かに閉じられるように、
彼女の背中は夜の帳に消えていった。
——今夜もまた、一人の”頁を守る者”に、静寂の一杯を届けた。