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第59話「頁を守る者に、静寂の余韻を」

〜図書館司書とレクイエム・カクテル〜


 扉が開いた。


 だが、それはあまりに静かだった。

 音もなく、風もなく、まるで書架の奥から歩み出てきたような気配。


 カウンターに座ったのは、一人の図書館司書。

 灰色のケープ、薄い眼鏡、手には古びた羊皮紙。

 言葉よりも、沈黙が似合うような雰囲気を纏っていた。


 彼女は、そっと目を上げて言った。


 「……静かに終わる物語に、ふさわしい酒をください」


 俺は一度だけ目を閉じ、棚からボトルを選ぶ。


 「レクイエム・カクテル——眠る物語に捧ぐ一杯だ」


 シェイカーにブランデー、アマレット、ドライベルモット、少量のアブサンを注ぐ。

 氷を加え、静かにステア。


 ——カラン……カラン……ページをめくるような静かな音。


 冷えたカクテルグラスに注ぐと、

 琥珀がかった液体に、アブサンの影がほんの少し揺れる。


 「どうぞ」


 図書館司書はグラスを見つめ、

 まるで古書の香りを嗅ぐように、そっと目を閉じてから口をつけた。


 「……ああ……これは”読後の静けさ”の味……」


 ブランデーの重厚な深み、

 アマレットの甘く切ない香り、

 ドライベルモットの仄かな苦み、

 そしてアブサンの微かな妖しさが余韻として残る。


 「……誰かが書き終えた物語が、

  今日も誰かの心でまた”生きる”。

  でも、終わること自体が……尊いのよ」


 俺は静かにグラスを拭きながら言う。


 「“物語の最後”を知っているからこそ、ページをめくれる」


 図書館司書は、うっすらと笑った。


 「その通り。……終わりがあるからこそ、記憶に残るの」


 彼女はグラスを置き、

 懐から革装の小さな書物を取り出す。


 「これ、貸してあげる。

  私がいなくなっても、“物語”が此処にあればまた会える」


 俺はそれを受け取り、慎重に棚へと納める。


 「また来るか?」


 図書館司書は立ち上がり、

 ケープを羽織り直して言う。


 「……“次の章をめくる頃”に」


 扉が開く。


 まるでページが静かに閉じられるように、

 彼女の背中は夜の帳に消えていった。


 ——今夜もまた、一人の”頁を守る者”に、静寂の一杯を届けた。

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